シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

おじさんおばさんの「横着」について思うこと

 
 
“ちょい悪オヤジ”も要因!?「大人になり切れないおっさん」が生まれる5つの理由 - FNN.jpプライムオンライン
「少年の心を持ったおっさん」からの脱却はどうすればいい?専門家に聞いた - FNN.jpプライムオンライン
 
 先日、FNNプライムニュースさん関連でインタビューをお引き受けする機会があって、拙著『「若者」をやめて、「大人」を始める』について色々な話をした。
 
 その後、身の回りで色々な出来事があって、おじさんやおばさんの「横着」について(どちらかといえば肯定的に)考える機会があったので、紹介がてら、ちょっと書き残しておく。
 
 
 
 
 

「歳を取ったら横着できる」の意味がわかるようになってきた

 

横着
1 すべきことを故意に怠けること。できるだけ楽をしてすまそうとすること。また、そのさま。「横着を決め込む」「横着なやりかた」「横着して連絡しない」
2 わがままで、ずうずうしいこと。ずるいこと。また、そのさま。
(goo辞書より)

 
 私が十代の頃から、四十代、五十代の人々が「歳を取ると横着がきくようになるよ」「あの人、自分の年齢を意識して横着した」といった言葉を耳にすることがあった。歳を取ると、すべきことを故意になまけたり、楽をして済ませることができる……という意味が、当時の私にはいまひとつわからなかった。
 
 ただ、年を追うにつれて、私もなんとなく「歳を取ると横着ができる」の意味がわかってきた、ような気がする。
 
 十代の頃は、とにかく目の前の現実を生きること・生き残ることに精一杯だった。今から思えば些細なことにも一生懸命にこだわって、笑ったり泣いたり怒ったりしていた。思春期のありかたとして、それは自然なことだったのだろう。二十代の頃もそれはあまり変わらない。覚えなければならない仕事はあまりにも多く、コミュニケーション能力をはじめ、社会人として求められるものがあまりにも多かった。とうてい、横着もクソもあったものではなかった。
 
 それが変わり始めたのは三十代になった頃からだ。
 
 二十代の頃は全神経を集中させなければならなかった事柄が、あまり頑張らなくてもこなせるようになった。仕事のなかでもルーティンにあたる部分は、短時間に片付けられるようになった。衣服を買うこと・大人向けの飲食店でそれらしい食事をとること・ラッシュアワーの山手線に乗ること──そういった日常の細々とした行動に際して、頭や身体を使う度合いが少なく感じられるようになった。緊張したり肩ひじ張ったりしないで済むようになった、とも言えるかもしれない。
 
 「歳を取るとは、若さを失うことで、可能性を喪失することだ」と捉える人がいる。
 それはそれで事実の一面なのは否めない。
 

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?

 
 だが、実際に三十代になってみると、若さと引き換えに身に付けた経験によって、できることが大幅に増えていた。二十代の頃には100の力が必要だったことを40ぐらいの力で片付けたり、三か月はかかったであろうタスクを一カ月でこなせるようになった。生涯、という尺度でみれば確かに可能性がすり減っているのだろうけれども、二十代の頃と三十代の頃を比べると、一年あたりでこなせることは圧倒的に三十代のほうが多い

 少なくとも私の場合、子育ても、書籍やブログの執筆も、若さと引き換えに手に入れた経験によって成り立っている部分が大きく、到底、若けりゃできるってものだとは思えない。
 
 さらに歳を取り、四十代になると、なるほど、横着の世界が見えてきた気がした。
 
 若かった頃は気付きもしなかったことだけど、四十代の男女は、それぞれに横着のきく側面があるように思う。それは、社会経験による面の皮の厚さのせいかもしれないし、自分よりも年下の人間が相対的に増えていくおかげで経験上のアドバンテージが活きる場面が多くなるからかもしれない。あるいは、進歩的な考えの人には許しがたいことかもしれないが、この国に残る儒教的な年功序列意識の残滓が、若かった頃より有利に働くようになったのかもしれない。
 
 周りの同世代を見ても、そういうのはなんとなく感じられる。
 
 経験を活かし、楽に済ませられることは楽に済ませる。今までの社会経験を踏まえて、手を抜くべきところは手を抜き、面の皮の厚さを活かすべきところではちゃんと面の皮を厚くする。そういう同世代がそれなりいると気付くようになった。もちろん、五十代や六十代も同様だ。良い意味で、彼らは横着することをよく知っている
 
 まだ若かった頃の私には、年上の人々の横着がよく見えていなかった。より大きな責任や立場、子育てと仕事の両立といった、タスクの多いことを引き受けている彼らが、ただただ辛そうに見えてならなかった。だが、それは二十代の頃の私の尺度でみればそうだということで、現在の私からみると「なるほど、経験を活かして、あれもこれもショートカットしまくって生活を成立させているんだな」とみてとれる。
 
 診察室で出会うおじさんおばさん、街ですれ違うおじさんおばさん、飲み屋でたまたまカウンターで出会ったおじさんおばさんの話の端々に、そういった「横着」のノウハウが漂っている。「ああ、この人達も横着のおかげで中年のライフスタイルを維持できているんだなぁ……」と気付く時、私は戦友をみるような頼もしい気持ちになる。
 
 生涯の残り時間は短くなったかもしれないけれども、この人達は経験を活かして、その残り少ない時間を精一杯使って楽しんだり働いたりしているのだろう。二十代や三十代に比べて老いたとはいえ、そうやって横着を重ねながら生き抜く今を、それほど悲観してもいるまい。少なくとも私はそうだ。
 
 

「横着」が「老害」に転じる瞬間

 
 ここまでは横着の良い側面について触れてきた。だが、横着というからには良くない側面もまたあろう。
 
 経験を活かしてといえば聞こえがいいが、経験の差にモノを言わせてと言い直せば聞こえは悪くなる。なにより、その経験が足枷になって視野が狭くなったり、その経験によって年下の人間を無碍にしてしまったりする可能性は常についてまわる。
 
 そこに、社会的地位をかさにきた横柄な態度が加われば、公道を黒塗りの高級車に乗って乱暴に運転するドライバーのごとく、迷惑だが手の付けられない存在と化する。
 
 迷惑だが手の付けられない中年が、自分の経験のおかげで横着できている・そのおかげで今の地位でうまくやっていけていると思い込めば、「老害」まっしぐらだろう
 
 四十代というのは、経験に脂が乗ってきているのに加えて、生物学的加齢がまだまだ進んでいない、比較的バランスのとれた時期だと思う。だからこの時期を俗に「分別盛り」というのもよくわかる。
 
 しかし、もっと年齢が上がってくると、経験は蓄積するけれども生物学的加齢は進んでしまうわけだから、四十代の頃と同じ感覚で横着をやっているとバランスを崩してしまうと想定されるし、事実、そのようにバランスを崩している人を見かけることもある。
 
 「実るほど 頭を垂れる 稲穂かな」というフレーズがあるけれど、これは、出生した人だけが気を付けるフレーズではなく、経験を蓄積して横着することを覚えた中年以降はみんな気を付けたほうがいいものなのだと思う。
 
 二十代の頃の感覚で四十代が生きられないのと同じで、きっと四十代の頃と同じ感覚では六十代は生きられない。同じ感覚で生きたら、「横着」の悪い側面が出やすくなってしまうように予感される。それなら、年上の人々の振る舞いやミステイクを今のうちからよく観察しておいて、同じ轍を踏まないようにしたいと思う。
 
 もちろん、こういう警戒感じたいが加齢によって失われてしまって、「歳を取っている私はただそれだけで配慮・尊敬されるべき存在だ」「今まで苦労してきたんだから好きにやらせろ」と言い始めてしまう可能性も否定できない。加齢が、私の心にそういう風化をもたらす可能性はまったく否定はできないからだ。
 
 それでも、歳を取っているだけで勝手にやって構わなかったのは、せいぜい半世紀以上前の日本まで。いや、半世紀以上前の日本ですらそのような人物は年少者から迷惑がられていたわけで、背筋を伸ばしながら歳を取っていかなければなるまい。
 
 そのことをここに書き残しておき、未来の私自身に言い聞かせておきたい。ちゃんと背筋を伸ばして歳を取っていくんだぞ、と。