なんか、Xでやたらとバズったので自分のブログで意見をまとめておきますね。
きっかけとなったはてな匿名ダイアリーとXのポスト
今回の起点になったはてな匿名ダイアリーはこれだ。
anond.hatelabo.jp
11月25日のはてな匿名ダイアリーに、「オタクを降りた。何も残ってない」という文章が投稿され、はてなブックマークが集まっていた。
この文章を読んで最初、私はサブカルチャーの儚さについて思った。たとえば10年前に見たアニメ、20年前に熱中したゲーム、それらが傑作で心動かされるものだったとしても、社会からは次第にフェードアウトしていき、自分自身のなかでも思い出、それも遠ざかる思い出になってしまう。リメイクが作られる作品もあるが、だからといって、たとえば『銀河英雄伝説』や『らんま1/2』が過去そのままに蘇るわけではないし、それらにタイムリーに触れていた頃と同じ熱気を伴って蘇るわけでもない。
諸行無常、盛者必衰。
匿名ダイアリーの筆者は「労働」や「生活」は偉大だよと書いているが、それらですら時間によって摩耗していく。歳月はすべてを風化させるが、サブカルチャーのコンテンツの風化速度はとりわけ早い。古典が歳月に対して持っている耐久力を、サブカルチャーのコンテンツたちは持ち合わせていない。それらは流行り物であり演し物でもあり(少なくとも第一には)若者向けにつくられるものだから、更新されていく。更新されていくとは、ジャンルの地層が堆積し、古いものが埋もれていくということだ。そのように新陳代謝の早いジャンルが、ときどき私には蜃気楼のように思えてしまう。たちまち消えてしまう幻のごときコンテンツたち。それらを生涯かけて追いかけていく覚悟は自分にあるのか? と自問してしまう夜もある。
それとは別に、オタク趣味、どこまで続けられるの? って疑問もある。
「オタクは自然になるもの」「オタクは自然に続くもの」ってフレーズ、5年10年だったらほとんどの自称オタクの皆様に当てはまるでしょう。でも、20年30年の単位になると「努力しなければ続けられないもの」になってしまう。ここを見誤って置物や政治人間になってしまったオタクがどれだけいたことか https://t.co/pMCEO8pK1l
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2025年12月10日
これに前後するポストには引用RPがめちゃくちゃ集中していて、通知欄が使い物にならなくなっている。皆、思い思いに持論を展開し、私はそれを興味深く拝見した。
だが実際問題、若い頃にアニメやゲームに情熱を傾けてきた人が40代以降もそうである確率は思うほど多くない。もちろん、インターネットには40~50歳になってもオタクを続けている人々が存在し、えてして、そうした人々の声は大きくてよく通るものだが、彼/彼女らが生存バイアスの権化であることを忘れてはいけない。また、たとえば中年オタクが集まっていそうなイベント会場にそうした人々がたむろしているからといって、「誰でも続けられる証拠」とみるわけにもいかない*1。
私は20代の頃から「オタクを続けるってのは一部の人が言うほど自然でも楽でもないのではないか」と思ってきたし、いろいろ備えてきた。そうしたうえで「オタク中年化問題」というイシューを考え続けてきたのだけど、実際に自分がアラフィフになってみて思うのは、「やっぱりオタクを50まで続けるのって自然なことでも楽なことでもない、ましてや自明なことではない」だった。いったい何人の同好の士がやめていっただろうか。華々しい活動をしていたオタクの人がどれだけ埋もれていっただろうか。そしていったい何人が「オタクでなくなった中年」となった挙句「政治や経済ばかりさえずる中年」になっただろうか。
オタクを5~10年続けるのは容易い。サブカルチャーにジャストフィットした年齢層においては特にそうだろう。しかしジャストフィットした年齢層から遠ざかり、なおも20~30年続けていくとなると、その容易さは通用しなくなり、意志や能力や計画性をもってことにあたらなければならなくなる。だから20~30代の人が述べる「オタクは自然に続くもの」という言葉が、そのまま40~50代に通用するとは言えない。ひとことで「オタクを続ける」といっても、若い人が5~10年続けるのと、年食った人が四半世紀以上続けるのでは、下部構造(条件)があまりにも違い過ぎるからだ。
中年以後も続けられるのかを左右するファクター
ここまではいつもの話。
ここからは少し違ったことを書いてみたい。
それは、中年以後にオタクを続けるにあたってポジティブ/ネガティブに働くファクターを、指差し確認してみることだ。中年は、生物学的にも社会的にも若者とは状況が異なる。だからオタクを続けるための与件も変わってくる。そういう考えに基づき、中年になってもしぶとくオタクが続けられる人の条件について、実際に見かける人々を思い出しながら書き出してみる。
1.時間
一般に、中年期にさしかかると可処分時間は短くなることが多い。家庭を持っていれば家のことに時間が必要となるし、ある程度以上の年齢になると介護という問題がポップアップしてくる。仕事に関しても、今までよりも責任ある立場に立っていたり、後進の指導を請け負うことも多い。これら、すべての条件に該当しない人だけが「中年期を迎えても可処分時間が若い頃と変わらない」という状況を過ごすことになる。
しかし、順当に人生を送っていれば中年期には上記のいずれかに当てはまり、可処分時間が短縮する。中年期にオタクを続けるために努力が必要な理由のいちばん大きな理由はここだろう。縮みゆく可処分時間というボトルネックを僅かでも改善させようとしたら、努力や工夫や根回しが必須だ。順当に人生を送り、なおかつ中年期に可処分時間で困らない……ということはまずない。
2.経済力
いくら時間があってもお金がなければ趣味は続けられない。オタクは趣味にリソースを投じる者だから、時間同様、経済力も問題になってくる。家庭を持っていれば独身貴族の時代に比べてお金の余裕はなくなる。独身だったら楽勝か? と言われたらそうとも限らない。独身かつ収入が大きめで、そのうえ持ち家だったりすればお金に余裕があるかもしれないが、そうでない境遇、たとえば低収入で賃貸住まいの独身の場合などは、老後まで見据え、支出に慎重な姿勢をとらざるを得ないかもしれない。
後述の体力の問題などもあって、中年のオタクの活動は、若者のオタクの活動よりもお金がかかってしまう場合も少なくない。たとえば、若かった頃は宿泊施設などにお金をかけなくてもゴリ押しできていた遠征が、多少なりともお金をかけなければ体力的に困難になってしまう、等々である。オタクに限らず、活発な中年はしばしば体力低下を経済力でカバーしようとするが、経済力が弱すぎればそうもいかない。
そうしたわけで、経済力も中年オタクを続けられるか否かを左右する変数として無視できない。時間がたくさんあっても経済力が乏しければ、中年オタクとしての活動はかなり制約される。サブスクでひたすらアニメを観るなど、それでも可能なこともあろうけれども、ジャンルによっては経済的限界がそのままオタクとしての活動限界、ひいてはオタクを続けていくうえでの足枷になってしまう。
3.健康
どんな中年にも加齢は忍び寄り、例外はない。健康を失えばオタクとしての活動は中断されるか、縮小される。若いころから病気を持っていて病気慣れしている人ならともかく、病気慣れしていない人が病気にかかり、それでも趣味生活を続けるのは簡単なことではない。そして若い頃に身体を顧みず活動していた人の健康上の負債が、いよいよ表面化しはじめるのが中年期だ。
病気になっていない中年でも、やはり健康には気を付けなければならず、いい加減にしていれば心身は故障する。遠征計画を立てるにあたってはちゃんと休めるような計画が必要で、前述のとおり、そのために若かった頃より経済的支出が増えるかもしれない。また、健康を維持するための活動を行わなければ健康が維持できないせいで、その維持のために時間やお金をかけることにもなる。健康を保つために努力や工夫が必要である以上、オタク趣味を持続するためにも努力や工夫が必要である、と言っても言い過ぎではない。病気にならないこと、病気を遠ざけること、心身の活動レベルを維持すること、等々は年を取れば取るほどあらゆる活動の必要条件になる。ここを疎かにしているようでは、オタクを続ける続けないどころか、最悪、命を落とすことにもなりかねない。
4.関心
年を取っても当該ジャンルに関心を持ち続けること。
「老化すると新しいことにそれほど興味を示さなくなる」みたいな話もあるが、本当にそうなのか、私はちょっと疑問に思っている。個人的には、それより「知ってしまったことが多すぎて、好奇心が働く範囲が狭くなる」のほうが実態に即しているんじゃないかと疑う。ロシアのことわざどおり、「知りすぎは老けのもと」だ。「その作品は○○が元ネタだよ」みたいなオタクあるあるも、知りすぎてしまえば楽しさより気難しさの源泉になってしまう。知りすぎないほうが目の前のコンテンツを新しく、楽しく感じられる一面もある。しかし二十年、三十年と当該分野を掘り続けていれば、過去を知りすぎてしまって「その作品は○○が元ネタだよ」に陥ってしまいやすくなる。
オタクにとってそうした知識の蓄積もひとつの醍醐味、なすべき使命のように思えるかもしれない。しかし知ってしまうことには喪失も伴う。知って、知って、知って、なおも関心を維持するためには、狭いジャンルに囚われない活動とか、元ネタが新時代にどう料理されているのかを味わう態度とか、そういったものが必要だろう。控えめに言っても、知れば知るほど関心が高まる、というのは並みではない。
生きるのに必死の人はオタクを続けていられない
こうして考えると、「若さは趣味の七難隠す」だなーと思わずにいられない。
時間があれば趣味の活動もたくさんできる。仕事に就く前であること、家庭を持つ前であること、責任や裁量が大きくなる前であることは、オタクをやるうえで有利だ。経済力の乏しさを時間で解決することだってできる。その経済力にしても、中年期以降はなにかとお金がかかるし、老後がチラついて気前の良い消費が難しくなるし、健康維持のためのコストという問題も出現する。
でもって、その健康を損ねる可能性は年を取るほど高くなるし、若かった頃に前借りした身体的負債の請求書が舞い込んで来るのも中年期以降だ。若いうちは健康を前借りしての無茶なオタ活もできようが、中年期以降はその逆で、若いうちに前借りした健康の負債を支払いながらオタ活をせざるを得なくなるかもしれない。
こうしたことを、まだ若いうちに知悉することは難しい。よしんば前知識として理解しても、実感が得られるのはもっと先だ。だから若い年頃で「オタクライフを継続すること」の条件と思えることと、中年になって「オタクライフを継続すること」の条件と思えることには食い違いが生じる。たぶん、老人になって「オタクライフを継続すること」となるとまた違った風景がみえてくるのだろう。
そうしたうえで、我が身や周辺を顧みながら思うことがある。
それは、生きるのに必死になっている間は、オタクなんてやってられない、安定した趣味活動を続けていられないってことだ。例外は、オタク然とした活動が収入に直結しているケースぐらいだろうか。
オタクと呼ばれるものは、そもそも趣味人、趣味活動、趣味ジャンルなどを指す言葉だった。オタクは「生活」や「労働」ではない、少なくとも一般には「生活」や「労働」そのものを指すものではない。しかし人が生きていくには「生活」や「労働」がまさに必要になる。中年期に限ったことではないが、生きていくための「生活」や「労働」が重たくなってくると、その隙間に趣味をねじ込むのは一苦労になる。中年期ともなれば分別がついてきて、「生活」や「労働」を削りすぎれば生存が脅かされることなどわかりきっているから、それらの隙間に趣味をねじ込む余地はどうしても小さくなってくる。身体的に無理がきかない・社会的に無理がきかない・経済的に無理がきかない状況下なら尚更だ。
そうしたなか、それでも中年は、自分の趣味を捻出しようとする。中年であり且つオタクであるとは、「生活」や「労働」の間を縫うように捻出されるものだ。「生活」も「労働」も欠如した中年もいないわけではない。が、そうなると今度は別の要素が欠けてきて、やはり十全の趣味生活は期しがたい。かといって、健康を前借りする戦法がもう使えないのは前述のとおりである。
私たちの健康も、社会的立場も、経済力も、それぞれホメオスタシスを保っていなければ崩れてしまうものだから、それらを維持する与件が変わってくればすべきこと、しなければならないことも変わってくる。ましてや趣味のこと、オタクのこととなれば尚更である。中年期になってもオタクライフのホメオスタシスを維持するためには、趣味生活の前提となる諸々に気を配り、これをよく維持し、そのうえで「生活」や「労働」の隙間に巧く配置していく必要がある。やっている人はやっていることだし、今でもインターネット上でならしている古強者はそういう人ばかりだから簡単そうに見えるかもしれないが、その与件はけっこう厳しいし、しっかり支えていく意志と能力がなければ続かない。続けている人だけが、インターネット上で古強者としてならしている。
こういうことを、まだ若い人やどこかで無理をしながら趣味生活を続けている人にも確認してもらうことには意義があると思って、これを書きました。
ご安全に!
*1:それは、ほとんど「キッザニアに子どもがたくさん集まっているのを見て日本は少子化していない」と言っているのと同じ視界の偏りである