シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

生きに生きて40歳、俺らは結構長く生きた

 
pha.hateblo.jp
 
phaさんのエッセイは、焼きたての手作り菓子のようで、そのようなエッセイにツッコミや言及を入れるのは野暮であり、無粋でもあるのだけど、寒くてどこにも出かけたくない気分だったので、これを書くことにした。
 
まずphaさんへの私信のようなものとして。
 

「過ぎ去った若さについて書くとしても、50代になってから書くと、もう完全に枯れきった感じの遠い目線になってしまうと思うんですよ。でも、40代初めの今ならまだみずみずしい喪失感を書けるんじゃないでしょうか」
確かに、それはそうかもしれない。それは今しか書けないことな気がする。
40代くらいで、僕と同じような虚無を抱いている人は他にもいるだろう。そういう人たちに向けた文章になるのだろうか。中年には中年にしか書けないことがあるのかもしれない。そういう方向性でちょっとやってみようか。

https://pha.hateblo.jp/entry/2022/02/05/181449

これは本当にそのとおりだと思う。もし、スッと何かが出てきそうなら是非言語化していただきたい、と思った。
 
私の場合、まさに上記のようなコンセプトで『「若者」をやめて、「大人」を始める』を作った。phaさんなら、私が書いた本よりサラサラしたテイストで言語化できるんじゃないかと思うし、そういう本を必要としている読者は2022年にもいそうな気がします。
 

 
で、上掲本を書いた者として憚りながら申し上げておくと、「40代初めの今ならまだみずみずしい喪失感」が書けるのは、せいぜい43歳ぐらいまで。企画するならお早目に、だと思う。私が『「若者」をやめて、「大人」を始める』を出版していただいたのは43歳の時だけど、それから数年経った今では、もう、その内容が遠い出来事のように感じられる。今の私には、その「みずみずしい喪失感」は当たり前になってしまったので、もう言語化するのは難しい。
 
こうやって人生の先へ先へと進むたび、みずみずしいと感じられるもの・目新しいと感じられるもの・少し前まで無かったものが現れ、今までそうだったものが色あせていくのだから、一個の人間の行く先はまだわからないし、人生の総括など死ぬまで到底できそうにない。phaさんは、冒頭リンク先の文章で
 

カッコ悪くたっていい。才能なんてなくてもいい。若さなんて必要じゃない。どうせそのうち死ぬんだから、中年になっても老人になっても何もできなくても、生きているうちは自分の精一杯をやっていくしかない。そう開き直れる気がしてくる。

こんな風に書いてらっしゃるけれども、まったく同感だ。精一杯やっていくしかないし、精いっぱい見つめていくしかないんだよ、と思う。若い世代も含めた他人から何と言われるか、どう自分の人生が寸評されるかにかかわらず、この目が黒いうちは生きて、生きて、トートロジーと言われちゃうかもだけど死ぬまで生きるしかないのだと思う。格好良いか、格好悪いか、そんなのも知ったことではない。偉大な誰かが書物にまとめてしまった車輪のなかをグルグル回っているだけかもしれないとしても、そんなことも知ったことではない。
 
とにかく違う景色が見えてきて、違った所感が現れる限り、私は生きてみたいと願望する。もう、若者の境地に帰ることはできないとしても、まだ見ぬ境地、新鮮な境地はたぶんある。でもって、そんなことに気づけたのも、思春期が過ぎてからもダラダラと、またはオメオメと生きてこられたおかげなのだ。
 
 

40歳で「どうせ俺らは早く死ぬ」はないよ

 
ここからは、人の歌詞にかこつけた愚痴のようなものだ。元記事からはだいぶ離れてしまうのであしからず。
 
 
「どうせ俺らは早く死ぬ」。
 
私には聞き慣れたフレーズでもある。
このフレーズは、1990年代の私の周囲に充満していたし、そのバリエーションとして「30になったら死ぬ」「30になるまでに死ぬ」といったものもあった。聞くところによれば、現代の若者のなかにも似たようなことを言っている人がいるのだとか。
  
しかしですね、俺らは実際には早く死ななかったわけですよ。
 
40代後半にさしかかって私が思うのは、「どうせ俺らは早く死ぬ」ではなく「生きに生きて40代」だ。狩猟採集社会の男性と比較すれば十分長く生きたし、少なくとも思春期をこれ以上延長できないぐらいまでは生きることができたのだ。40年という時間は、ホモ・サピエンスである私たちにとって決して短いものではない。本来なら世代がひとめぐりしている年齢だし、たどり着くまでに幾人もの脱落者が出ておかしくない年齢でもある。
 
平均寿命が伸びに伸びた21世紀の日本で「生きに生きて40代」などと言ったら笑う人がいるのは知っている。平均余命の延長。高齢化社会。そうしたものを念頭に置きながら、あるいは70代ぐらいの高齢者が自分よりも余命のある私たちを指さしながら、「『生きに生きて40代』というのは早すぎる」と指摘するのは想像しやすい。
 
けれども私は、そういったものをまやかしだと思っている。
なるほど平均余命は伸びた。
高齢化社会になった。
あなたは私よりもずっと年上ですね。
 
じゃあ、私がそんなに長生きするという保証はどこにある? 私がそんな高齢まで生きられるという確証をどこに求めればいいのか? ない。どこにも見当たらない。統計上のファクトはあくまで統計上のファクトでしかなく、個人の未来を予言するものではない。絶対に確かなのは、自分がこれまで生きてきた歳月の長さと、その歳月のなかで得たものと失ったものだけだ。
 
そうした獲得と喪失に基づいて40代になった自分自身を省みる時、浮かぶ気持ちは「生きに生きて40代」しかありえない。いやはや、ずいぶん長く生きたものだ。長く生きてしまったとも言えるし、長く生かしていただいた、とも言える。健在な同世代たちも、おのずとそういう目線で見たくなる*1───お互い、生きて生きてここまで来ましたね。ありがたいことですね。じゃ、お互い、生きられるだけ生きてみましょうか。
 
平均余命が長くなったとはいえ、40代まで生きると、少なくない同窓が命を落としていったことを思い出す。社会の前線や表現の前線から退いた人などいくらでもいるだろう。そう思った時、40代とは、どうせ早く死ぬと嘆く年齢ではなく、ここまで何とか生きてこれたなと振り返る年齢であるよう、私は思う──もっと長く生きられる可能性があるとしてもだ。
 
もちろん世の中には、80歳まで壮健に生きることが保証されていて、現役といえる時間がずっと長くて、60歳からが第二の人生だと確信している人もいるだろうから、そういう人からみれば、私の考えは意味不明とうつるかもしれない。が、私はちっともそんな自信がないし、毎年毎年、精いっぱい生きるのに手いっぱいで、こうしたことがいつまで続けられるかもわからないし、続けていられる今がありがたくて仕方がないので、ここまで活動できた天命に感謝するとともに、毎年毎年を精いっぱい生きてみたいと願望するしかない。そうとも、俺らは結構長く生きた。
 
 

*1:でもって年上の人たちは「生きに生きて50代」だったり「生きに生きて60代」だったりするのだから、大変なことだと思うほかない。少なくとも、彼らが生きた時間の長さ、その長さだけ見てももう荘厳だ