シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

若者でなくなったら「成長のルール」が変わった

 
 
 ひたむきに成長しようとする若者を観るのが好きだ。
 
 オンラインでもオフラインでも、10代~20代、ときには30代前半ぐらいの年齢の人が、しゃにむに成長しようとして、あれこれ試みたり、ジグザグに努力したりするのを観るのが好きだ。一点集中突破の成長を目指す若者も気持ちいいし、3つ~4つの成長の芽を隠し持ちながら、したたかに成長を目指す若者にも惹かれるものがある。
 
 私が若者の成長に惹かれるのは、過去の自分自身の姿がダブるからでもあるし、成長に対してスレきっていない感じがするからでもあろう。若者は、肌ツヤが瑞々しいだけでなく、成長に対する感性という点でも瑞々しい。
 
 

若者はフラフラしていても成長する

 
 そして若者の可能性。
 
 長くブロガーをやっていると、年下のブロガーや年下のSNSアカウントの成長過程を、数年にわたって眺める機会がままある。ときには、オフ会でそうした成長過程をつぶさに確かめることさえある。
 
 20代の人が語る成長戦略は、いつも上を向いている。前を向いている……というより上を向いて歩いている感じがするから、ちょっと危なっかしいと思うこともある。それでも意外に上手くいくのだから面白い。遠回りも効率性も度外視して上を向いて歩いていた若者が、数年後にはちょっとした肩書きを手に入れていたり、知識を蓄積して書籍を出版していたりすることがあった。尖ったガラスみたいだった若者が、いつの間にか分別を身に付け、それでいて尖った感性を奥に秘めたまま仕事を続けているのを確認することもあった。
 
 私自身を振り返ってみても、20代の頃、地に足の着いた、目の前の現実に寄り添った成長戦略だったとは全く思えない。
 
 20代~30代前半の私は、自分がどんな医療者になるのかもよくわからないまま、興味や関心の赴くまま勉強していた。上司から勉強しろと言われたことはひととおり勉強したつもりだけど、そこに最適化されていたとは到底言えない。
 
 インターネットやブログにしてもそうで、今にして思えば無謀な出版企画にとりつかれ、いろいろな出版社に連絡をしたり、いろいろな人に相談をしたりしていた(当時お世話になった人達には頭があがらない)。地に足がついていなかったともいえるし、前よりも上を向いて歩いていたともいえる。
 
 でも、そんなことができたのは私が若かったからだろうし、当時やったことは全て現在の私の根っこになっている。
 
 上を向いて歩いていても、フラフラしていてもそれなり成長し、血肉になるというのは若かったからだと思う。
 
 そうやって上を向いてフラフラ歩いた足跡が、いつの間にか自分自身の人生のレールの材料になり、そこから降りようにももう降りられない感じになってきたら、「若者終了」なのだろう。上を向くのでなく、前を向いてレールに沿って成長するようになると、若者というより大人、いや、中年といった趣が漂いはじめる。もちろんこれは悪い意味で言っているわけではない。人生の成長プロセスが次の段階に入った、というだけのことだ。
 
 

「何かできるようになりたい」から「残り時間でやるべきことをやりたい」へ

  
 じゃあ、「若者終了」して悲しいかと言われると、あまりそういう気はしない。
 
 フラフラしていても血肉になる若者の特性が羨ましくはあるけれど、逆に考えると、若かった頃は、自分にとってのベストな成長戦略や成長効率性が今よりぜんぜんわかっていなかった。何をやっても伸びるとはいえ、右も左もわかっていなかった若者時代に戻りたいとは思えない。
 
 世間のことや自分自身のことがおぼろげながら把握できるようになったおかげで、現在の私は、だいたいどれぐらいの時間と労力でどれぐらい自分が成長するのか、おおよその見当がつくようになった。少なくとも20~30代の頃に比べて目星がつけられるようになった、とは言える。
 
 ロールプレイングゲーム風に言うと、若者時代の成長戦略は、経験値効率も必要なスキルや知識もほとんど不可視の状態だったのに対して、中年になってからの成長戦略は経験値効率がだいたいわかって、必要なスキルや知識もあるていど推定できる。必要なステータスや知識にアクセスするための方法やコストが見積もりやすい。若者時代に比べて、自分の成長が「計画的」「効率的」になったように思う。
 
 そのかわり、残り時間が気になるようになった。
 
 たぶん、現在の私なら、計画性と効率性の許す限りにおいて、私はまだ成長できるだろう。少なくとも自分が関心を持っている分野については。
 
 しかし、成長の計画性や効率性と、自分の寿命や加齢による衰えを掛け合わせてみると、最大でどれぐらいステータスや知識にアクセスできるかの最大値も逆算できてしまう。
 
 私は「還暦になってからが第二の人生」みたいなことは還暦を迎えた人しか考えてはいけないと思っているので、とりあえずの成長限界点として還暦を仮定している(還暦まで生きていられる自信があまり無い)。
 
 還暦までのたかだか十数年の間に、計画性と効率性をもって成長に費やせる余地は有限だ。たとえば、全力を尽くして執筆するような本を3冊ほど書いたら、私の残り時間は終わってしまうだろう。少し方向性を変えて、メディアへの露出度の高い精神科医を目指すことも不可能ではないだろうけれど、それをやってしまえば書籍に全力を尽くすわけにはいかなくなるだろう。メンタルクリニックの開業? それもいいかもしれない。だけど他の選択肢を欲張るわけにはいかなくなる。
 
 だから「成長のルールが変わった」と私は感じる。
 
 20~30代前半までの成長は「何でもいいから成長しろ」「とにかく成長しろ」というルールだったが、40代以降の成長は「成長はできよう。だが、有限の伸びしろの使い道をよく考えろ」というルールになった。少なくとも私は、そのように感じている。
 
 もちろんこれは40代の私が現在進行形で感じているルールの所感で、60代の人がこのように考えているとは思えない。たぶん、60代の成長にはそれはそれで別のルールがあるのだろう。だがさしあたり、若者との対比で言えば、残り時間を意識するというのが成長を巡るルールの一番大きな違いだと思う。
 
 

じきに衰え、死ぬという前提で成長を見据える

 
 人間の寿命は有限で、現実の生活を営みながら成長に傾けられるリソースには限りがある。
 
 私は不老不死を信じていない。私は生きあがくなかで年を取り、やがて死んでいくだろう。だけど、だから悪いとはあまり思っていない。
 
 自分の生と時間が有限であることがひしひしと実感できるようになったおかげで、私は生きること・成長することに対して以前よりも真面目に構えるようになった。同じく、今という時間を生きている同世代の他人の生きざまにも真面目に構えるようになった。メタに構えるなら、そういう構えに変わったこと自体もひとつの成長なのかもしれない。
 
 成長のルールが変わっても、ともあれやっていくしかない。