今日は、いぬじんさん(id:inujin さん)への返信という体裁で自分が書きたいことが湧いてきたので書きます。書きなぐりなので、「ですます」調はここだけなのであしからず。
最短で最小の労力で確実に最大の成果を得なければいけない時代に、求められていること。 - 犬だって言いたいことがあるのだ。
バカバカしい!!オレはいまあそぶぞ!!! - 犬だって言いたいことがあるのだ。
いぬじんさんのおっしゃる「遊び」を私は失おうとしている。
「遊び」は後背地だった。「仕事」や「生活」のフロントラインのはるか後方に位置していて、やるかやられるかのドンパチとは無関係に自分何かをもたらしている諸活動。それは、00年代の私においては進化生物学だったりゲームだったり精神分析だったりブログだったりした。うまく言えないんだけど、豊かだったと思うし、それで翌朝眠い目をこする羽目になったりもしたものだった。
思うに、「遊び」って私たち人間にとってのディープラーニングな何かだと思う。ゲームやアニメやライトノベルの話でいうと、ストレートに通人ぶろうと思って名作巡りとかしているのは「遊び」っぽくない。「遊び」というからには、そういうゆとりのない、コスパやタイパを意識した営みは違うだろう。「遊び」っていうからには遊びがなければそれっぽくない。
実際、ゲーム*1をわかるということ・アニメをわかるということは、大作志向・傑作志向にとどまらない、もっとすそ野の広いところまで寝転びながら楽しむようなものでないと「遊び」っぽくないし、そこから吸収されるエッセンスも偏ってしまうんじゃないかと思う。いまどきは、どんなジャンルでもコンテンツやプロダクツが溢れすぎているため、全部を巡ることは不可能となっているから一定の選別・選好は必要だし、ジャンルの歴史全体を語るのに最適なパースペクティブに愛好家がたどり着くのはとても難しくなっている。だからといって、ジャンル全体を見渡そうとか、通人ぶろうとか、そういう(古い俗語で恐縮だけど)キョロ充的な志向性とコスパ・タイパ志向が結びついた結果として得られるものは、貧困でしかないと思う。「遊び」にその人ならではのオリジナリティ、その人ならではの年輪が反映されきらないとも思う。だめだめ、そんなのは「遊び」とは言えないよね。
だから「遊び」たるもの、その人ならではのオリジナリティや来歴がそのままその人のアイデンティティやパーソナリティと接続したものでなきゃ嘘だと私は思う。そういう「遊び」にはディープラーニング性も伴っていて、くっだらないアニメを見ることや三流のゲームを遊んでみることは、傑作アニメの視聴や超一流のゲームのプレイを支えると確信している。
ワイン趣味だってそうだ。ワインは、安物をひたすら飲んでいるだけでは高級どころの凄さが理解しにくいジャンルだ。それでも安物や裾物のワインを飲む経験が、高級ワインや一級や特級と名付けられたワインを理解する助けにもなっている。標高何千メートルの高峰の高きをわかるためには、標高数百メートルの間近な山の低さ、気安さをも知らなければならない。
で、そうやって趣味のあれこれを知ったり、趣味をとおして色んな人と出会ったりするうちに「遊び」が自分自身に何かをもたらす。何をもたらすかはわからないけれども、とにかく、それが自分の不可欠な一部になって自分というものができあがっていく。いろいろな領域のえらい人が「『遊び』が大事、『遊び』が芸のこやしになるんだよ」という時の「遊び」には、この化学変化が暗に期待されているはずで、でも、暗に期待されてはいても「遊び」である以上、エビデンスに基づいたエクソサイズとは違って「遊び」がもたらす結果には幅があり、センスが問われるところだろう。そして若者は「遊び」をとおして試行錯誤し、どうあれ成長し、とはいえそのなかの1割か2割ぐらいの人は「遊び」をとおして身上を潰したりセンスが壊滅的だったりしたのだろうな、とも思う。
そうして振り返ると、いまどきは「遊び」って難しそうだ。
第一に社会全体として。
第二に私自身として。
社会全体として難しいとは、「人生のコスパやタイパがまことしやかに語られる今日日において、そんなセンスに左右されやすくエビデンスのない、結果のよくわからないものにリソースを割いていられるのか?」 ということだ。国も個人もカツカツで、思想のうえでも効率至上主義っぽくなっている現代社会において、効果も期待値も定かではない「遊び」なるディープラーニングをやっていられる暇は一体誰に・どこまであるんだろうか。
たとえば大学生などを見ていても、いまどきの大学生は忙しくなっているようにみえる。90年代において、大学生は「遊び」をやるに好都合な膨大な時間を持ち、金銭的にも今の大学生より多くの仕送り額をもらって、社会風潮としても大学生とはそういうものだと理解されていた。そんな調子だったから当時の学生は不揃いで、成長も不確かで、現代の学生のほうが粒ぞろいで成長が確かのだと思う。
このことが示すように、「遊び」をとおした成長はバラつく。エビデンシャルじゃない。コスパやタイパにも劣り、遠回りだ。いまどきの若い人がいまどきの膨大なコンテンツと選択肢の大海で戦略的に成長しようと思ったら、「遊び」は「遊び」ではいられず、プラクティスになったり履修対象になったりする気がする。シラバス的な「遊び」。ウゲー。そんなわけあるか。今の若者にだって「遊び」をやっている人はいるはずだ。でも「遊び」を成り立たせ、かつ、それを成長と結びつけるための与件は厳しかろうとは思うし、コスパやタイパといった時代精神に抗してそれをやるにはポリシーが必要だろう。
まして、その「遊び」をとおして戦略的成長を推し進めるサラブレッドと互角に戦えるものなのか、よくわからない。で、こうした問題の全景が若者にだって可視化されているだろうなという予感も加わって尚更きつい。
それと私自身の「遊び」の困難性について。
私が「遊び」が困難になったといった時、その中身はふたつある。ひとつは、過去に私の「遊び」だったものたちが私の仕事や生活のフロントラインの最前線に出張ってきて、「遊び」なのか「仕事」なのか区別がだんだんつきにくくなってきたこと。
私は、自分の文芸活動にも精神医療活動にも「遊び」が必要だと思っているので、これまでもこれからも自分なりの「遊び」をやっていくし、そういうデッキを組んでこの年齢まで来てしまったから退路はない。たとえばゲームやって、アニメ見て、ワインを飲むだろう。
— p_shirokuma(熊代亨) (@twit_shirokuma) 2023年3月11日
上掲ツイートにもあるように、私は自分自身の活動に「遊び」の内容がフィードバックされていて、いわば芸のこやしになってきたと自覚している。精神医学の知識だけが現在の私を支えているわけでない。2010年代まで私の「遊び」だったブログやゲームやアニメやワインが私の諸活動を支えていると感じているわけだ。一般に、それはめでたいことだと思うけれど、結果として従来「遊び」であったそれらが「仕事」や「生活」寄りの活動になってしまった感も否めない。「遊び」としての命脈を絶たれるほどではないけれども、「遊び」に夾雑物が混じりこんでしまった。まあ私は雑食動物で夾雑物には慣れているので、それでも何とか遊びとおせるとは思うのだけど。
もうひとつは私の人生の残り時間が少なくなってきて、コスパやタイパを意識せずにはいられなくなってしまったことだ。私は四十代の後半に差し掛かっていて、これは、自分が心技体がいちばんいい状態でアウトプットができる時期の後半だと思っている。なかには六十代になってから開花する人もいるのだろうけど、私はそういうのは当てにしない。ワインだって飲んでるし、当直業務だってやっているし。
だから生物学的にはとっくに盛りを過ぎている私に残された時間は少ないと見積もったほうが無難だろう。中年老いやすく芸成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。じゃ、遊んでいる暇なんてないでしょう? 自分がくずれ落ちていく前にやるしかない。
こうして私は、今の手持ち戦力と、その手持ち戦力を支えるためのコスパやタイパを意識したインプットをとおして「仕事」や「生活」をやっている。残り時間が少ないと考えるなら最適かもしれない一方で、「遊び」をとおしたディープラーニングの効果を軽視し、人格や人生の余剰エリアを切り詰めるような選択で、ぶっちゃけ、貧しいことをやってるなと思う。そうは言っても、限られた時間のなかで脳内から出たがっているものを無事に出そうと思った時、あてどなく遊ぶのと目的志向でインプットするの、どちらがニーズを解決する手段として信頼できそうかといったら、後者になってしまう。
そうだ「遊び」は可能性で、例えるなら山に伏せてあるカードを引いてくる行為なのだった。対してタイパやコスパを意識した直線的なインプットは、手持ちのカードを強化するような行為だ。向こう5年だけ考えるなら「遊び」を切り詰めたほうがアウトプットの効率は高くなるだが、向こう20年まで考えるなら「遊び」を維持したほうがアウトプットの効率は高くなりそうだ。で、私は20年先、ひょっとしたら10年先には自分がアウトプットできなくなっていると想定しているわけか。悲しいことを書いているな。けれども今は20年先を考えず、今できるすべてのことをやってみたい。
これを書き始めた時、私は若い時分に自分を育ててくれた「遊び」の重要性と、それが困難になってしまったわが身を比較して嘆いちゃおうと思っていたのだけど、ここまで書いてみて、いや、私はいいんだ、これでいくんだなという気持ちになってきた。「遊び」のすり減ったアラフィフに私はなっていく。目の前の「仕事」や「生活」をやっていく。それは悲しいことだし自分自身の可能性を毀損している気がしなくもないけれども、今の私は走ってみたい気持ちが勝っているので、走ってみる。もし倒れるなら、前に向かって倒れたいものだ。
[追記]:4年前にも、結局似たことをいぬじんさんに返信していたのを思い出した。私は同じ場所をまだぐるぐるしているのかもしれない。
それでも私は、「いま」を越えて海王星に辿り着きたい - シロクマの屑籠
*1:ここではコンピュータゲームを念頭に置いている。為念。