シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『人生はゲームなのだろうか?』──思考演習なのはわかる。でもゲーム観が古く読みにくい

 

 
上掲リンク先の本に気が付いたのは、発売される直前ぐらいだったように思う。
 
「人生はゲームなのだろうか?」。
 
ゲームを愛好し、さまざまな事物をゲーミフィケートすることで効率化し、理解の助けにしている私のような人間にとって、これはフックに釣られるしかない本、タイトル買いせずにいられない本だった。もとより哲学者の先生が書いてらっしゃる本なのだから、人生とゲームに相いれない部分があると導かれるのは読む前から想定されることではある。が、ゲームに関心があり、かつ哲学の道筋で人生について考えてみたい人なら、(私と同じく)手に取って読んでみたく思うかもしれない。
 
 

論理が首尾一貫し、思考のトレーニングとなる

 
前半において、この本は、ゲームについて最初に以下のように定義を行う。
 

ゲームとは、
[1.]プレイヤーが目指すべき終わりが定められていて、かつ、
[2.]プレイヤーにできること・できないことが定められている人間の活動である。

はじめにゲームを上記のように定義し、そこから論理的に思考を積み重ねることをとおしてゲームとは何か、そして人生とは何なのか、人生とゲームとはどう異なるのか(それとも同じなのか?)を論じてゆく。
 
ゲームに造詣のある人なら、この定義がゲームの定義としてはなはだ不完全で、コンピュータゲームでも、そうでないゲームもカバーしきれていないことに即座に気づくだろう。しかしこの本は、思考の積み重ねのなかでゲームの定義を追加・変更する必要性をも認識していき、ゲームの定義と人生の定義を深化させてゆく。不完全なゲームの定義から始まった思考が、よりふさわしいゲームの定義へと変わるにつれ、メインテーマであろう人生についての思考や定義までもが変わっていき、並行して深まってゆく。
 
たとえば同書には「ゲームはリセットできるが人生はリセットできない」的なフレーズが何度も登場するが、そうしたフレーズも、思考を積み重ねる過程のなかで以下のように変わる。
 

 そこで、浮上してくるのが、「その外があるかないか」です。ゲームには、リセットできるものもある一方、リセットできないものもありました。だけど、リセットできるゲームにせよできないゲームにせよ、いずれにしても「終わり=目的」はありました。で、ゲームが終わると、そこはゲームの外の世界。
 ところが人生の場合は? そう、人生の場合には、人生の外の世界なんていうものはないのです(厳密にいえば、そんなものを前提にして考えるわけにはいかないのです)。

ゲームと人生をわけるポイントとしてリセットできるかどうかを採用するのでなく、外側があるか/ないかをもってすることで、もっと広範囲のゲームが射程に入るようになる。それだけでなく、人生についての思考も深まっていく──その手続きをこの本は記している。こうやって人生について考え続けたとき、たとえば、自殺とは人生のリセット的なものとして取り扱えるのか、人生に終わりがあるのか、といった人生に関わる他のこともおのずと考えずにはいられなくなる。
 
哲学的にあれこれを考える書籍はしばしばそうだけど、一つのイシューを追いかけていくと、おのずと人生とか神とか生死とか、そういうきわの話が浮かび上がってくるのは、こういう本の面白いところだと思う。これから述べるように、この本は現在のゲーム愛好家にとって読みにくい認知負荷を含んではいるけれども、それに耐えられる人や気にせずに済む立ち位置の人なら、読んで味わいや手ごたえがあるんじゃないだろうか。
 
 

だけど、現役のゲーム愛好家にはおすすめしづらい

 
では、この本は現役のゲーム愛好家にお勧めしやすい哲学演習本といえるだろうか。
 
タイトルに反して、私はノーといわざるを得ない。
 
ゲーム愛好家が哲学演習本を読みたいと思ったら、この本を読むよりも別の入り口を探したほうが良いように思う。幸い、初学者向けの哲学本はそれなりある時代なので、候補には事欠かない。
 
せっかくのタイトルにかかわらず、どうして私はこの本を現役のゲーム愛好家におすすめできないのか?
 
それは、このゲームの思考手続きのなかで登場するゲームの定義が、初手から現代のゲームのありよう・遊ばれようと食い違っていて、違和感を飲み込みながら読まざるを得ないからだ。
 
わかりやすく、甚だしいのは「ゲームはリセットできる」という例のやつだ。
確かにファミコンゲームはリセットして最初から遊べたかもしれない。しかし現代のゲーム、特にオンラインゲームやソーシャルゲームにはリセットをして遊び直せるという感覚がない。いや、リセマラ(リセットマラソン)という技法はあるにはあるけれども、リセマラはゲーム開始時に繰り返すもので、ひとたびゲームアカウントの運営が始まったら、そうそう気軽にリセットなどできようはずがない。
 
もちろん先に触れたように、この本を読み進めていくなかで、(たとえコンピュータゲームの現状について知らずとも)ゲームはリセットできるものとは限らないことがおのずと明らかになるし、それがゲームについての知識によってではなく、思考の手続きの賜物であるところがこの本の見所でもあるだろう。けれども、いまどきのゲーム愛好家からすれば、そこに辿りつくまでの何十ページかが大変まだるっこしい。まだるっこしいばかりでなく、自分が慣れ親しんでいるゲーム観をいちいち殺して、「ゲームはリセットできる」という文中の定義に何度も何度もひざまずかなければならないのだ。
 
もちろん、この本は思考演習の本でもある(というよりそちらのほうが眼目なのではないか?)ので、自分が慣れ親しんでいるゲーム観をいちいち殺して、文中の定義に何度もひざまずくのもトレーニングのうちだ、と言われてしまえばにべもない。しかしそれは読みやすいことではない。いまどきのゲームのことを知りもしない読者には引っかからないところかもしれないが、いまどきのゲームによく親しみ、かつこうした思考演習には慣れていないビギナー読者にとって、これは小さくない認知負荷になる。
 
冒頭で示されるゲームの定義が古すぎて現状に見合っていないために、いまどきのゲーム愛好家には、それが読み進める助けになるのでなく、読み進める認知負荷になってしまっているのである。なまじゲームと銘打っていることが、仇になっている部分はありはしないだろうか?
 
同じく、ゲームには「終わり=目的」があるというフレーズも、いまどきのゲーム愛好家には飲みこみにくいかもしれない。
もちろん現在でも、エンディングらしきものを真っ直ぐに目指すゲームはあるし、そのエンディングらしきものを見たら気持ちがすっきりしたり安心したりするゲームもあるにはある。だが、そうでないゲームもたくさんあるのが21世紀以降のゲームシーン、もっといえば2020年代のゲームシーンである。とりわけソーシャルゲームやオンラインゲームやオープンワールドゲーム、ARゲームの領域では、ゲームに終わりがあり、それが目的と言えてしまうゲーム観は希薄だ*1。もっとだらだらと、もっと無目的に、世間を知らない若者がサラリーマンを見て想像するところの人生のように、だらしなく始まってとめどもなく続いて終わる(というより終わりがあるのかわからない)、そんなゲームが巷に溢れているなかで、「ゲームとは終わり=目的があるもの」と初手で定義され、その定義にひざまずき続けるのは小さくない認知負荷といわざるを得ない。
 
少し話が逸れるけれども、最近の私は、ゲームを人生に譬える際に、何か楽しいゲームとか、何か目的の明確なゲームとか、そういうゲームを想像するのもいいが、楽しくないゲーム、目的の不明瞭な、誰のために、何のためにやっているのかわからないようなゲーム体験もゲームだと言いたい気分に陥りがちだ。
 
このようなゲーム体験は、『人生はゲームなのだろうか』の定義に沿っていえばもはやゲーム体験とは言えない何者かである。でもって、大層な人間疎外とうつるかもしれない。でも、自他のゲーム体験やゲームシーンのなかに、こういう、楽しくもなければ目的もはっきりせず終わりもみえない、慢性的労働のような営為をみることが増えてきた。ゲームメーカーやgooglePLAYなどが準備したアーキテクチャに流され、SNSの流行に引っ張られ、人生の時間配分も見失って、楽しくもないのにとめどもなくゲームしてしまう。もうほとんど単にゲームをやめられないとしか言いようがないような淀んだゲーム体験。そういうのが今のゲームシーンにはあり得るようになっているように思う。それって、なんだか人生っぽくないだろうか。人生っぽい、という人もいれば人生っぽくない、という人もいるだろう。で、私はどちらかというと人生っぽいと言いたくなる性質だ。ネットでよく見る『インベスターZ』のテンプレでいうなら「おれたちは雰囲気で人生をやっている」というか、ぬるい一杯のビールのような人生(とその側面)というか。ああ、なんて焦点の定まらない人生観だろう!
 
逸れた話をもとにもどそう。
そんなわけで、この本の内側で行われる議論の手続きにはまったく異存ないのだけど、その議論に読者を引き入れるための釣り餌としての「ゲーム」には、私はかなりの負荷を感じた。1990年代ぐらいのゲームの定義の人にとって、それは負荷にもならないものだろうし、もともとゲームに関心を持っていない人にとっても同様だろう。しかし、なまじゲームを思考演習の導入として用いている点が、かえってゲーム愛好家に苦痛と認知負荷をもたらすものになっているのはもったいないと感じた。思考演習が、人生とか死とか、いかにも哲学らしいテーマへの広がりを持っているだけに、なおさらだ。ゲームにあまり詳しくない人や、もうゲームをやめちゃった人にはおすすめだ。
 
 

*1:実は、スペースインベーダー~90年代前半のアーケードゲームにもしばしばあてはまる