シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

それでも私は、「いま」を越えて海王星に辿り着きたい

 

宇宙 (福音館の科学シリーズ)

宇宙 (福音館の科学シリーズ)

 
 
 私は、就学年齢が終わってからの人生は惑星探査機の旅のようなものだと思っている。
 
 惑星探査機がロケットの力を借り、大地を蹴って旅立つ時、打ち上げを見上げる人々には行先がわからない。地球を巡る軌道に乗って人工衛星になるのかもしれないし、水星や太陽、木星や土星を目指して飛んでいくのかもしれない。
 
 だけどロケット打ち上げの時点でどこに向かって飛んでいくのかはある程度決まっているし、いったん目標に向かって飛び始めると、簡単には目標を変えられない。たとえば、火星を周回する軌道に入った惑星探査機が、そこから急に他の惑星を目指そうとしても簡単ではないように。
 
 人生だってそうだ。教師という目標、獣医という目標、Bさんの配偶者という目標を選んだ後、おいそれと他の目標を選ぼうとしても簡単にはかなわないことが多い。あらかじめ次々に転職することを前提としている人なら、仕事という面では融通性が利くかもしれないけれども、それだって加齢というファクターによって次第に選択の余地は狭くなっていく。
 
 そう、人生は惑星探査機、それも太陽系の外に向かって飛んでいく惑星探査機に似ている。加齢によって後戻りが利かなくなる、という意味において。
 
 

もう少しだけ飛んでみたい。そして「海王星」に辿り着きたい

 
kaigo.homes.co.jp
 
 こんな事を書きたくなったのは、上記リンク先「人生のピークを過ぎ、ぼくは「未来のためだけに生きる」のをやめる」を読んだからだ。
 
 リンク先のいぬじんさんは、人生のピークを過ぎた今、輝かしい未来のために現在を犠牲にするような生き方はやめよう、と述べている。
 
 これは、40代も半ばを迎えている私にとって実感の沸く文章だった。もう、それなり自分の伸びしろも見えていて残り時間も計算できてしまう四十代になって、未来のために現在を見失うような生き方はできない。仕事にしろ、子育てにしろ、現在をこそ踏みしめて生きなければならないし、そう生きることに価値がある、と感じている自分がいる。
 
 これが20代~30代の前半だったら、もっと輝かしい未来へ・もっとお金や社会的地位が得られそうな人生へと夢見て、そのために努力する意識が勝ったように思うけれども。
 
 ともあれ私にとって伸び盛りの季節は(たぶん)終わった。宇宙探査機のボイジャー2号に喩えるなら、私はもう、土星や天王星を通過したぐらいの年齢に辿り着いてしまったと思っている。私はインターネットの遊び人精神科医として、自分がやりたかったことを、やるべき年齢の時にやったと思っている。逆に言うと、そこまでやって到達したここらへんが私の器量の輪郭なのだろう。私自身にとっての土星探査や天王星探査に比喩されるミッションをこなしてなお、私はもっと強い光を放つインターネットの偉人たちを越えることはできなかった。もちろんやれるだけのことはやったし、やったという手応えもあるのだけれど。
 
 ボイジャー2号が土星や天王星を探査した後、グルリと向きを変えて太陽を探査することなどできないのと同じように、私もまた、自分自身の活動をグルリと向きを変え、ぜんぜん違うかたちで活動するなんてことはできない。たとえば私の場合、ユーチューバーとして「シロクマの極寒適応3分クッキング」を始めたり、web小説書きにクラスチェンジしたりする余地はあると思うが、今から理化学研究所に入って正統な研究者としてキャリアを重ねようと思ったって不可能だろう。
 
 だから自分の生きてきた軌跡の結果としての「いま」を大切にすべきだと理解しているし、実際、大切にしている。もし、未来があるとしても、それは慣性飛行し続ける「いま」の行く先に辿り着くもので、「いま」を翻して犠牲を積み上げて辿り着くようなものではない。
 
 
 それでも、いぬじんさんの文章にはちょっとした反発もある。
 
 ボイジャー2号の喩えでいうなら、確かに私は土星軌道や天王星軌道は通り過ぎてしまったかもしれないけれども、まだ海王星軌道には辿り着いていないのではないか?
 
 本物のボイジャー2号の場合、海王星探査は綿密な計算のもと、天王星を通り過ぎた後に必ず辿り着けるよう計画されていたのだろう。だが私の人生は……そこまで緻密に計算されていない。
  
 それでも40代の後半をやがて迎えようとするこの年齢は、もう少しだけ、自分の人生で観測すべき、到達すべき場所を夢見る猶予があとワンチャンスぐらい残っているのではないか、という思いがあって、私は私の海王星を目指して飛ばずにはいられない。
 
 つまり現在の私の「いま」のなかには、「いま」を大切にするのとは正反対の、「未来のために現在を犠牲にする」側面が残っている。この年齢でそれを行うのは、果たして利口なことなのだろうか? いや。これ以上人生の惑星探査を企むのでなく、人生の慣性飛行に身を委ねてしまったほうが良いという直感もある。
 
 にも関わらず、私は私の海王星をまだ捨てきれていない。私にとっての土星軌道と天王星軌道を通り過ぎた今も、「もうちょっとだけ頑張れば海王星近くを通過できるんじゃないか」みたいなことを、頭のなかで誰かが囁いている。その、間違っているかもしれない囁きに衝き動かされ、「いま」をいくらか軌道修正させようとする私は愚かなのかもしれない。
 
 中年を迎えたみぎり、「いま」を大切にするという感覚に基本的には頷きつつ、それだけでは立ち止まれない、まだ見ぬ海王星を夢見ている自分自身が、何か叫びたくなったみたいだったので、この文章を吠えながら書いていぬじんさんへの返信とすることにした。もし私が海王星にたどり着けなかった時は、笑ってやって欲しいし、もしたどり着けた時は、そうですね、またお目にかかって酒宴でもやりたいものです。