シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『レイフォース』のサントラと、物語体験メディアとしてのゲームについて

 
ゲームサントラ語り・「ダライアス外伝」オリジナルサントラについて: 不倒城
 
 以前、しんざきさんが1994年のシューティングゲーム『ダライアス外伝』について語ったことがあった。リンク先は、その時の文章だ。
 
 『ダライアス外伝』はゲーム自体がよくできていると同時に、すごく印象的な音楽に心奪われるゲームで、およそゲームセンターに似つかわしくないBGMを聞きながらシューティングゲームとしてのダライアス外伝を楽しんだものだ。
 

ダライアス外伝

ダライアス外伝

 
 で、リンク先にもあるように、そのサントラ盤にはユング心理学を援用した細かい解説が載せられていて、サントラを読むとBGMとゲームの辻褄がますます合い、『ダライアス外伝』という作品についての理解も深まるようになっていたのだった。
 
 この『ダライアス外伝』とそのサントラが素晴らしいのは間違いない。けれどもほぼ同時期にリリースされた『レイフォース』とそのサントラもそれに伍する仕事をしていたので、ここではレイフォースのサントラの話をしようと思う。
 
 

「ハイスコア狙い」と「悲壮感の漂う演出」という二つの顔

 

レイフォース

レイフォース

 
 『レイフォース』は1994年にゲーセンに登場した、縦スクロールのシューティングゲームだ。その後流行になっていく弾幕シューティングのようなつくりではなく、敵をロックオンし、まとめて敵を倒すと高得点が得られる誘導レーザーで専ら敵を攻撃していく、ハイスコア狙いを意識させる作品だった。敵も曲線的なレーザーを多用し、さまざまな特殊弾に遭遇するあたりは『ダライアス外伝』と雰囲気が似ていて、この時代のタイトーのシューティングゲームらしさが感じられる。
 
 この、ロックオン式のレーザーを使った高得点ギミックが良質なゲームバランスに支えられた結果、『レイフォース』は当時のシューティングゲームマニアから非常に高い評価を得ていて、『レイストーム』や『レイクライシス』といった続編もつくられている。演出やBGMだけでなく、ゲームそのものの骨格が非常に優れていた作品だったといえる。
 
 だがゲームそのものが優れていただけでなく、何かをディスプレイ越しに訴えかけてくるような、否、プレイヤーの側がストーリーを読み取りたくような演出のゲームでもあった。
 
 小惑星基地のような1面から、衛星軌道上の2面へ。地球らしき星の地表を疾走する3~4面を通り過ぎると、惑星中心に向かって地下を突き進む5~6面が続いていく。そして最終面である7面は、どうみても惑星の中心だ。
 
 『レイフォース』がゲーセンに設置されていた時、ゲーセンのインストカードには通常弾やロックオンレーザーの使い方といった操作法が記されているだけで、ストーリーらしきものはどこにも書かれていなかった。
 
 しかし、ゲームの演出、ステージ構成をみる限り、なにか重大なストーリーが『レイフォース』にはあるように思われた。2面後半、大気圏突入前のシーンでは、友軍艦隊とおぼしき宇宙船団が敵艦隊に一方的に破壊されていく。BGMも、このゲームになんらかストーリーがあることを訴えてやまない。2面、4面、6面と惑星中枢に近付くにつれて悲壮なBGMはますます悲壮になり、なにやら、後戻りのきかない戦いであるように聞こえるからだ。
 
 BGMもステージ構成も、なんとなれば敵のデザインすら、「はっきりとしたストーリーはわからないけれども、このゲームの筋書きは悲壮なものだ」という想像をかきたてる点では『レイフォース』は首尾一貫していた。ハイスコアラーがやりこんでなかなか席の空かない、スコアに目を血走らせるゲームであると同時に、異様な悲壮感が漂っているのは不思議な感じがした。
 
 だが、『レイフォース』というゲームの正体はそういうゲームだった! というよりそういう正体であるとサントラ盤によって後付け的に語られたのだ。おそらく『ダライアス外伝』と同じように。
 
 

「サントラにストーリーが書いてあった!」

 

 
 ある日、『レイフォース』をやり込んでいる友人からBGMのサントラを借りる機会があった。そこにはレイフォースのストーリーが実質的に書かれているのだという。半信半疑ながら借りてみると、サントラには「MISSION DATA FILE」なるものがついていて、年号から始まって、びっくりするほど細かなストーリーが記されていた。
 
 

 
 『レイフォース』は、万能の物質生成システムとAIによって人類社会が管理されるようになった後の物語だ。ある日、そのAIが人類に敵対するようになり虐殺を開始、生き残った人類は外惑星系へと逃れなければならなくなった。地球と一体化したAIによる殲滅戦が続くなか、AIを地球ごと破壊するべく、人類は衛星落としをメインとする第一次攻略作戦を挑んだが、主力艦隊の70%を失って敗走。
 

 
 ゲーム本編は、その後の第二次攻略作戦、「残存艦隊を囮とし、小型機動兵器を惑星の中心核に送り込み、惑星もろともAIを破壊する」作戦であることを、私はサントラのミッションファイルを読んで初めて知った。
 
 21世紀の私は、これがそれほどSF的に珍しいストーリーではないことを知っている。しかし、SF小説をただ読むのと自分自身でジョイスティックを動かして機動兵器を操り、BGMを聴きながら惑星中枢を目指すのでは、体験の質、没入感の度合いがまったく違う。
 
 もともと悲壮感の漂う何者かだった『レイフォース』は、サントラに記された資料によって明確なストーリーになった。そしてそのストーリーを自分自身のものとして体験するのに『レイフォース』の演出やBGMはあまりにもぴったりだった。例の、高得点ギミックであるロックオンレーザーが自機より下向きの方向にしか撃てないのも、「惑星の中心に向かってひたすら降りていく」という作戦主旨と一致しているからたまらない。
 
 このストーリーを知った段階では、まだ私は『レイフォース』をワンコインクリアしていなかったし、エンディングも見ていなかった。惑星中枢の手前に立ちはだかる難関ボスに手こずり、しかもゲーセンではハイスコア狙いの上級者になかば占拠されていたから諦めていたのだが、ストーリーを知り、この結末をどうしても自分の力で迎えてみたくなった。
 
 こういう時、ゲーム、それもゲーセンのシューティングゲームというプラットフォームは、その難易度でプレイヤーをしっかり抱き留めてくれる。小型機動兵器だけで惑星中枢を破壊するという作戦の困難さを、ゲーセンのシューティングゲームは難易度というかたちで疑似体験させ、えもいわれぬBGMとグラフィックによって作戦の世界に没入させる。
 
 『レイフォース』をワンコインクリアしたいと思っていた頃は、とにかく暇をつくってゲーセンで練習し、家に帰ってからも惑星中枢を攻略するためにあれこれ考え続けた。一度はクリアを諦めていた私にとって、まさにそれは第二次攻略作戦だった。
 
 幸い、『レイフォース』の難易度はゲーセンのシューティングゲームとしては良心的な部類で、ほどなく私は惑星中枢のAIに辿り着き、激戦の末、破壊した。惑星の爆発と閃光に包まれた自機を待っていたのは……やはり、帰らぬ旅路だった。
 
 予想された結末ではあった。サントラ盤所収の「MISSON DATA FILE」には、惑星を破壊するための手順は記されていたが、生還のための手順はどこにも記されていなかった。もちろん、エンディング後の未来のことも記されていない。だからこれは「特攻作戦」なのだ。この世界の人類は、未来のために自機のパイロットを死地に送り込んだというわけだ。
 
 それでも、やり遂げたという充実感、満足感は素晴らしいものだった。良心的な難易度とはいえ、『レイフォース』もまたゲーセンのシューティングゲームのひとつであり、ワインコインクリアするまでには相応の手応えがあった。『バトルガレッガ』や『雷電IV』をワンコインクリアした時に比べれば、相対的に難易度じたいは低めだったかもしれないが、ストーリーに駆り立てられてプレイしていたためか、クリアした時の感動はそれらに勝るとも劣らないものだった。この世界の人類を救ったというイメージと、特攻ではあっても悔いの無いイメージを、私は1994年のゲームセンターの片隅で確かに体感した。
 
 その後、『レイフォース』よりも素晴らしいSFは何度も読んだし、『レイフォース』よりもシューティングゲームとして優れているもの・難しいものも何度もクリアした。けれどもこんなに感動し、世界に没入したうえで達成感を得られたゲームは他にない。
 
 

物語を体験するメディアとしてのゲーム

 
 この『レイフォース』を思い出し、その後のゲーム体験とも照らし合わせて思うのは、物語体験装置としての「ゲーム」というメディアの可能性だ。
 
 世の中には、物語を体験させる、物語を読ませるメディアがたくさんある。小説しかり、アニメしかり、テレビドラマしかり。
 
 そうしたなかで、ゲームというメディアを特徴づけるのは、なんといっても「自分で操作する」ということ、そして「自分で操作することによってストーリーが変わる」ことだろう。
 
 こうした物語体験装置としてのゲームメディアの可能性については、たとえばノベルゲームの分野では、東浩紀さんが『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』で記している。
 

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

 
 それはそれとして、一人のアーケードシューティングゲーム愛好家として振り返ると、『レイフォース』をはじめ、少なくとも幾つかのアーケードゲームには、他のメディアよりプレイヤーを没入させやすい性質があったのではないだろうか。アーケードゲームの場合、困難な作戦への没入感を支える舞台装置として、ステージ構成やBGM、さらにアーケードゲーム特有の難易度の高さが役に立つ
 
 今日の家庭用ゲームやソーシャルゲームでさえ、多くのゲームは後半で難易度を上昇させ、プレイヤーの試行錯誤や努力を促すとともに達成感を高めるような――つまり手応えを体感させるような――仕掛けを備えているものが少なくない。この、難易度というファクターがゲームのストーリーや客層と噛み合った時、そのゲームは「バランスの良いゲーム」と讃えられる。ただし噛み合わない時には「クソゲー」との誹りを受けるかもしれない。
  
 90年代のタイトーという会社とその社内音楽グループであるZUNTATAは、そういった物語を体験させるためのメディアとしてのアーケードゲームづくりがとても上手かった、のだと思う。もちろんそれはシューティングゲームに限ったものではない。『サイキックフォース』や『電車でGO!』にしてもそうだ。ナムコだって、セガだって頑張っていた。物語に没入するための舞台仕掛けという点では、どこのゲーム会社も頑張っていたし、今でも頑張っている。
 
 ゲームというメディアは、映像では映画にかなわないかもしれないし、ストーリーの新機軸ではSF小説にかなわないだろう。音楽という点でも、単体では専門家にかなわないかもしれない。だけど、それら全てを総合して、なによりプレイヤー自身の操作と選択、体験の積み重ねによって、個別のメディアには提供できない体験を提供してくれる、と私は思っている。
 
 今後、そうした体験はARやVRによってますます拡がっていくのだろう。
 だがさしあたり今は、『レイフォース』をはじめ、今遊べるゲームを讃えておきたい。
 あのとき、確かに私は第二次攻略作戦をやってのけ、惑星中枢を破壊したのだ。
 
 
※[『レイフォース』についてもっと知りたい人には、こちらのファンサイトをオススメしてみます]:POLAIRE.ORG - レイフォースを愛するすべての人々へ