シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

ゲームを眺める・ゲームを囲むのもまた楽し

 
 
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 はてな匿名ダイアリーに投げつけられた「他人がゲームしてるの見てそんなに楽しいか?」という釣りに対して、ブロガーのしんざきさんが「俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ」と応じているのを見て、強いシンパシーを感じると同時に逆張りをしてみたくなったので、逆張りディベートごっこをしてみる。
 
 いきなり脱線するが、私は「ブログで逆張り」が好きだ。
 
 大学受験の小論文の練習をしていた時、どこかの参考書で「逆張りできるテーマなら、みんながやりそうにない逆張りをやったほうがウケるよ(意訳)」というアドバイスを見かけた。当時の私はそれを真に受けて、受験勉強と称して逆張りの練習を繰り返していた。幸い、大学には受かったけれども、あれは危ないアドバイスだったかもしれない。
 
 たぶん、この逆張りの練習はブログを書く際にすごく役に立っているし、そういえば一昔前のアルファブロガーにも、逆張りの名人がいた。逆張り小論文の練習を繰り返すと、たぶんブログが楽しくなるよ!
 
 それはさておき。
 
 私は、しんざきさんが「俺はただただ自分がゲームで遊びたいだけなんだ」と書いていて、社会全体はともかく、御本人自身は見るゲームの楽しみに否定的なのに驚いた。
 

ただ、それとは全く別問題、別会計として、私の中には「ゲーム実況」を楽しむというチャネルが存在しないのだ。これはむしろ、私がゲームを遊ぶ際のキャパシティがより偏狭であるということに他ならない。例えば私は、長男がゲームを遊ぶところを観察するのは好きだが、それは飽くまで「子ども観察」であって「ゲーム観戦」ではないのだ。ゲーム観戦に限っていえば、私はただひたすら「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」と思うばかりなのだ。

 
 しんざきさんは、子どもがゲームを遊んでいるのを眺めているのは「子ども観察」であって「ゲーム観戦」ではないと書いている。だが、私はそうではない。子どもがゲームを遊んでいるのを眺める時、私ははっきりと「ゲーム観戦」を楽しんでいる。たとえば我が家の『スプラトゥーン2』で射撃がいちばん正確なのは子どもで、バイトが一番巧いのは嫁さんだ。どちらのプレイも眺めていて楽しいし、「さっきのガチエリアは、ジェットパックからのトリプルキルが勝因だね」といった話がよく弾む。
 

Splatoon 2 (スプラトゥーン2)  - Switch

Splatoon 2 (スプラトゥーン2) - Switch

 
 「俺が遊びたい」「俺に遊ばせろ」という気持ちはもちろん私にもあるけれども、誰かがゲームの腕をふるっているのを眺めるのも、それはそれで楽しく、ゲーム観戦という意味合いは必ずある。
 
 動画のゲーム実況に心惹かれる瞬間もある。ゲームの動画は、今でも「参考資料」的に視ることが多いけれども、実況者やプレイ内容によっては心が躍る瞬間がある。達人級のプレイヤーの動画よりも、自分の腕とどっこいどっこいなプレイヤーのほうが心が躍るかもしれない。
 
 

「ゲームを眺める」「ゲームを囲む」のルーツ

 
 私が他人のゲームを眺めて楽しいと感じるルーツを振り返ると、それは駄菓子屋とゲーセンにあったと思う。
 
 小学生の頃、駄菓子屋で夢中になって見つめていた、年上プレイヤーのゲームプレイ。小学校低学年では、ゲーセンのゲームに100円玉を入れるのはおいそれとできることではなく、たとえ入れたとしても長く遊べるものでもなかった。対して、年上のお兄さんは100円玉をたくさん持っていて、しかもゲームが上手くて先のステージまで進めていた。アーケード版の『ムーンクレスタ』や『ディグダグ』などは、自分でプレイするのと同じかそれ以上に年上のお兄さんがプレイしているのを楽しみにしていた。
 
 高校生時代や大学生時代のゲーセンでも、他人のプレイを結構楽しみにしていた。自分にはできない連続技が得意なプレイヤー、自分と同等以上のスコアを出せるプレイヤーのプレイを眺めながら、技能を盗もうとしたり、うっとりとしたりしていた。また、ゲームに疲れて一服している時に他のプレイヤーのプレイを眺めるのも好きだった。『戦国ブレード』『ライデンファイターズJET』のような、自分が絶対にやりがたらないゲームに打ち込んでいるプレイヤーを眺めるのも案外楽しかった。そういう「眺めるゲーム」もひっくるめて、ゲーセンでのゆったりとした時間が流れていたのだと思う。
 
 そんな私が、自分がゲームを遊ぶほどではないにせよ、ゲームを眺めたり、家族や知人とゲームを囲んで談笑したりするのは、とても自然なことではある。
 
 

そうなると、しんざきさんのゲーム哲学が気になってくる

 
 さて、そうなった時に気になるのがしんざきさんのゲームライフである。
 
 しんざきさんは、『ダライアス外伝』の全一を獲るほどのプレイヤーで、当然、ゲーセンには少なからぬ縁があり、そこにゲームライフの心臓部があると推定される。
 
 [関連]:「人生の息抜きにゲーム」ではなく、「ゲームの息抜きに人生」を送っていた時期の話。 | Books&Apps
 
 この記事にもあるように、しんざきさんは『ダライアス外伝』に心臓を捧げていた時期があり、ハイスコア目指してPDCAサイクルをガンガン回していたという。その最中において、ゲームは自分でやるもの・自分で戦うものという意識が強まっていたことに疑問はない。
 
 それでも、『ダライアス外伝』とそこまで向き合う前後の時期に、ゲーセンなり駄菓子屋なりで仲間のプレイを観戦したり、年上のプレイヤーに憧れたりした時期はなかったのだろうか?
 
 上掲リンク先を読む限り、しんざきさんが『ダライアス外伝』をやり込んでいたゲーセンは、ハイスコア狙いがそれほど盛んではなかったけれども絶無でもないように読めた。絶無でないなら、ゲーセンで仲間ができた可能性や、巧いプレイヤーのプレイに見惚れる可能性はあったかもしれない。
 
 それとも、しんざきさんは他者に全く見向きもせず、非常にストイックにゲームをプレイしていたのかもしれないし、そこまでストイックになれなければ、有名店でない場所で『ダライアス外伝』で全一を獲ることなど、不可能だったのだろうか?
 
 いや、自分が知っている全一プレイヤーのなかには、他者に見向きもしないわけではないプレイヤーも確かにいた。だから全一を獲ったことがあるか否かがことの分水嶺、というわけでもないように思う。
 
 ここまで書いてみて、ゲームについての一般論をしんざきさんから演繹するのは意味がないような気がしてきた。それよりも、しんざきさんという一人のゲームプレイヤーのゲーム観やゲームモチベーションをもっと伺いたいとか、その異質性の成り立ちを知ってみたい気持ちが湧いてきてしようがない。
 
 しんざきさんのゲームモチベーションの構成と成り立ちは一体どのようなものなのか? ゲーオタにおいて、ゲームの道、ゲーム哲学は全ての道に通じているので、おそらく、そこにしんざきさんの奥義がある。いつかお目にかかる日があったら、そこのところは是非うかがってみたい。
 
 

「小さなてのひら」

 
 とはいえ、大半のゲーム愛好家は、修行僧のように自分のプレイだけに没頭しているわけでも、「ゲームを見る専」でもない折衷的なゲームライフを楽しんでいるのだろう。
 
 私も、しんざきさんに比べて微温的ではあるけれども、「ゲームはプレイしてナンボ」「プロスポーツのような感覚でゲーム観戦する気にはなれない」という気持ちのほうが強い。シューティングゲームの二周目に挑む時や、『スプラトゥーン2』のガチバトルに挑む時の、あの真剣な時間がゲームの真骨頂という気持ちがなかなか捨てられない。
 
 けれどもこれから歳をとっていくなかで、自分自身がゲームをプレイするだけでなく、観戦する方向にシフトしていく予感もある。
 
 こないだ出版した「若者」をやめて、「大人」を始める 「成熟困難時代」をどう生きるか?に、私はこんなことを書いた。
 

 自分が愛したジャンルを引き継いでいる人が間近に存在するというのは、なかなか気持ちの良いものです。たとえば私はゲーム専攻のオタクでしたが、よく知っている年下の人がゲームに夢中になり、コミュニティに参加していくのを視ていると、それだけでかなり満足できてしまいます。SNS上で、たくさんの若者がゲーム談義に花を咲かせているのを見ているのも好きです。「文化はこうやって引き継がれていくんだな……」という実感が湧きます。あなたがたにも、そういう境地がいつの日か訪れることでしょう。 

 
 長らく私は、ゲームプレイ至上主義者でいつづけてきた。けれども、たとえば子どもがスプラマニューバで次々に敵を撃ち抜いていくのを眺めていると、いつか自分を追い越していく子どもの可能性を直感せずにはいられない。いわば、『CLANNAD』の「小さなてのひら」の心境だ。こうしたことが、ゲームでも、ゲーム以外でも起こっていくのだろう。ゲームは、いつだって人生の大事なことを教えてくれる。
 

CLANNAD-クラナド- ORIGINAL SOUNDTRACK

CLANNAD-クラナド- ORIGINAL SOUNDTRACK


小さなてのひら
 
 それでも。
 それでも私は、ゲーオタで、ゲーム愛好家であり続けたい、と願う。
 
 「ゲームはプレイしてナンボ」という気持ちが磨り減っていくとしても、ゲームを眺めて、ゲームを囲んで、そうやって楽しむ道筋を膨らませて、ゲームライフ自体は趣味生活として守っていきたい。それは、しんざきさんの現在のゲーム哲学とは異なる何かかもしれないけれども、そういうのもいいんじゃないか、と思うのだ。
 
 以上、本当は「ゲームはプレイしてナンボ」という気持ちがまだまだ強い40代ゲーオタからの逆張りでした。ザトウマーケットで会いましょう。