- 作者: 熊代亨
- 出版社/メーカー: ヴィレッジブックス
- 発売日: 2017/02/28
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代 (講談社現代新書)
- 作者: 山竹伸二
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/03/18
- メディア: 新書
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- 作者: 斎藤環
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2016/12/07
- メディア: 文庫
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ここ数年のインターネットの様子をみていると、承認欲求をモチベーション源として活動するのが、あたかも卑しいことであるかのような言説がまかり通っている。
褒められたい。認められたい。一目置かれたい。
そういった、他者からの承認をモチベーション源にすることは卑しいこと・良くないこと・しようもないことであり、他人の顔色に左右されるという点で不自由である、云々といった感じである。
私は、こうした承認欲求-批判がぜんぶ間違っていると主張したいわけではない。
実際、世の中には承認欲求の下僕としか言いようがない人、承認欲求に振り回され、誰のための人生かわからなくなってしまっている人もいる。インターネット上なら、PV数に囚われて自己コントロールができなくなっているブロガーや動画配信者のようなたぐいは、承認欲求の残念な例としてわかりやすい。
そうは言っても、人は承認によって心動かされるものであり、承認を得たい気持ちと、承認を得た時の嬉しさによってもモチベーションを獲得しているのも、また事実である。
子どもなどがその典型だが、承認される行為によって、何が社会的に望ましい振る舞いなのかを窺い知り、承認されない行為によって、何が社会的に望ましくない振る舞いなのかを知る。そういったことの無数の積み重ねのなかで、人はスキルアップし、人は社会性を身に付けていく。
承認欲求「だけ」をモチベーション源とするのは良くないとしても、人間のモチベーション源全体のある割合は、やはり、承認欲求とカテゴライズできるもので占められていて、そこを無碍にするのはいかがなものかな、と私は思う。
自己実現欲求のレベルに辿り着いたとおぼしき人は、実在する
そんなわけで、私は承認欲求肯定派である。承認欲求の奴隷になるべきではないが、承認欲求とは上手くつきあっていったほうがモチベーションは太くなる。ほとんどの人間は、高尚なモチベーションや自家発電的なモチベーションだけでは駆動力が足りない。
で、自己実現欲求、である。
- 作者: フランク・コーブル
- 出版社/メーカー: 産能大出版部
- 発売日: 1972/01/01
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自己実現欲求は、いわゆるマズローの欲求段階説のピラミッドのてっぺんに位置する欲求で、承認欲求や所属欲求の次元を超えた、より高尚でよりレアな欲求とされている。マズローによれば、自己実現欲求はすべての人が芽生えるようなものではなく、リンカーンやシュヴァイツァーといった人達がその典型とされている。
そういう高尚でレアな欲求ゆえに、私は、青少年向けの自著(『認められたい』)では「自己実現欲求なんて、そんな簡単に目覚めるものじゃないよ、それより承認欲求や所属欲求のレベル(=社会的習熟度)を高めるよう」といったことを書いた。青少年という想定読者に対して、それは妥当な書き方だったと思っている。
とはいえ、自己実現欲求とカテゴライズされそうなモチベーション、自己実現欲求に目覚めているとおぼしき個人が存在しないわけではない。
世の中のところどころには、「この人は、自己実現欲求に目覚めているとしか考えられない」というモチベーションをもって活動している人が確かに存在している。
先日私が出会ったご老人にしてもそうで、もう、承認欲求とか所属欲求とか、そういったカテゴリーでは絶対に説明できないような、まさに自己実現欲求によってモチベートされているとしか思えない振る舞いをするご老人で、社会への貢献や組織の発展といったことを真摯に追求しているさまがみてとれた。
私利私欲を感じさせるところがなく、誰に対しても分け隔てなく振る舞い、長年の経験や知識をできるだけ沢山の人の役に立てようとする姿勢を見て、私は感銘を受けずにはいられなかった。ああ、これが、承認欲求と所属欲求の彼岸に辿り着いた人の姿であるか、と。
このご老人ほどではないにせよ、私はこれまでの人生の中で何度か「自己実現欲求まで辿り着いた人」を見かけてきた。それは、地域の医療のために長い努力を積み重ねてきた人であったり、大学医局で教授職に就いた人であったり、後進のために骨折りを惜しまないメディア人士であったり、いろいろである。
ただし、彼らにはある程度共通点があって、
・比較的年齢が高い。若くても30代後半、典型的には60代以降
・自分がすべきことを十分な期間、すでにやってきた
・私利私欲や承認欲求のロジックでは行動が説明できない
・金銭的にも社会的にも不安定な立場ではない
・現在の立場のために汲々としてきた素振りも感じられない
これらの共通点を誰もがみたすのは難しいように思える。
「自己実現欲求まで辿り着いた人」は、私には、カリスマ的な人物とうつる。ここでいうカリスマとは、インターネット上のインフルエンサーにありがちな、ギラギラとカリスマっぷりを自己顕示するような感じのものではない。むしろいまどきのインフルエンサーのギラギラさには、承認欲求の匂いが立ち込めていて、自己実現欲求の匂いがしない。「自分の知名度や金銭のためにインフルエンサーをやっている」というオーラを放っている人々は、私がいう「自己実現欲求まで辿り着いた人」のソレとは全然違う。
「敬して、自己を慎みたくなる」
くだんのご老人をはじめ、自己実現欲求まで辿り着いた人には、コミュニケーション能力が高いとか、知名度があるとか、センスが良いとか、そういった尺度だけでは説明のつかない、もっと違った魅力が宿っている。彼らを見ていても「俺も有名になりたい」「俺も出世したい」といった気持ちは沸いてこない。ましてや、嫉妬の感情など恐れ多い。
どちらかと言うと、自己実現欲求の人々からは「この人のもとで働きたい」「この人といると、きっと何かが得られる」「この人の爪の垢を煎じて飲みたい」といった気持ちが沸いてくる。「リスペクトを感じる」という言葉では巷のインフルエンサーと区別がつきにくいかもしれないけれども、「敬して、自己を慎みたくなる」という気持ちが沸いてくる点がやっぱり違っている。自己実現欲求の境地に至った人々を真似たいとか、彼らのようになりたいなどと願うのは、私には、不遜なことのように感じられる。だからこそ、彼らが一段と尊い存在にみえる。
自己実現欲求の境地は、がんばって辿り着くものではなく、一部の人がいつの間にか辿り着いているものだと私は思わざるを得ない。凡夫は、承認欲求や所属欲求の次元で生きていくぐらいの気持ちで十分なのだ。
1990年代~00年代にかけて、「自己実現に目覚めよう」的な自己啓発書が大量に出版されたが、ああいうノリも、実在の自己実現欲求にそぐわない。「自己実現したい」と考えているうちは、承認欲求の次元にとどまっているとみて間違いないだろう。自己実現欲求の次元に到達してしまった人々の、どことなく尊い雰囲気を目の当たりにすると、ただ凡人の一人として、彼らの薫陶を精一杯吸い込み、なるべく善く生きていきたいと願うばかりである。