シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

恋愛は要らない。ならば、親しさも要らないのか。

 
 恋愛は要らない。これはわからなくもない。
 なら、親しさは要らない。これはどうだろうか。
 

1.若者の恋愛離れが指摘されて久しいが、確かに、恋愛は中学校でも高校でも必須単位になっていないので、やらない人がいることに不思議は無い。
 
 恋愛が面倒くさいからやらない、もよくわかるし、学生生活はいろいろ忙しいんだ、もよくわかる。だが、恋愛は年齢が上がるにつれて男女双方の要求水準や、期待される社会性の内容が変わっていくので、「やらない」を放っておくと「できない」に変わっていってしまう側面がある。そういう意味では、恋愛を若いうちに経験しておかない人は、そのぶん、招来の生き筋を狭めていると言えるかもしれない。
 
 だが、恋愛をしなければならないご時世でもなくなった。いまどき、セックスとか見栄とか、そういうゴリラのような動機にもとづいて恋愛をわざわざやる意義は減ってきているように思う。恋愛とは似て非なる結婚についても同様だ。
 
 社会全体のマクロな目でみれば、恋愛や結婚、もっとあけすけに言ってしまえば生殖や繁殖はきわめて重要なのだけど、現代社会では、個人はそれを無視して構わないということになっているので、やらないからといっていけないないわけではないのである。
 
 ※本来、人間集団や社会体を維持するうえできわめて重要な生殖や繁殖が、20世紀~21世紀にかけて、個人が無視して構わないものとみなされている現状は、22世紀以降にどのように評価されるのだろうか。たぶん、産業革命期にやたらと機械作業に期待が寄せられたのと同じぐらい奇妙な捉え方と捉えられるのではないかと思ったりもする。
 
 
2.では、親しさも不要なのだろうか。
 
 親しさもまた、学校で必須単位になっているようには見えない。学校では、しばしばチームワークや団結、社会性の向上といったことが課題として児童生徒に課されているが、親しさは、必ずしもそうではない。親しさもまた、小学生時分と大学生時分、社会人時分では求められる社会性等が違っているので、「やらない」を放っておくと「できない」に変わってしまうリスクはある。恋愛に比べれば取り戻しがきくようにもみえるが。
 
 そのかわり、恋愛と違って、人と親しくなるノウハウ、親しさに慣れるノウハウはどこでどう生きるとしても結構重要だ。親しさが要らないという人は、恋愛は要らないという人よりも少ないのではないだろうか。
 
 恋愛や結婚に意味を感じない人の場合でも、恋人のような人、家族のような人、長く付き合える友といえる人を持つことには、相応の意味があるように思う。親しいと感じる水準には個人差があり、淡白な付き合いがちょうど良い親しさという人もいれば、かなりの高密度がちょうど良い親しさという人もいる。だが、どのようなかたちであれ、自分にとって最適な親しさを知り、適した相手を探し、そうした相手と親睦を結べるか否かは、その人のソーシャルキャピタルやメンタルヘルスに直結している。 
 
 人間は社会的生物であり、親しさによって人と人とは繋がってきた。いや、過去においては恐怖や暴力もまた人を繋いできたけれども、恐怖や暴力によって人と人とが繋がらなくなった今日では、親しさが、人と人とを繋ぐエモーションとして特権的地位にあると考えざるを得ない。
 




 
 
3.にも拘わらず、親しさが学校教育で必須単位になっているという話は寡聞にして聞かない。文部科学省管轄の幼稚園においてもそうだ。現在、親しさは専ら家庭の問題とみなされている。それは、現行の子育てシステムでは仕方のないことではあるけれども、だからといって、親しさをこのまま家庭任せにして構わないのか、正直、よくわからない。読み書きそろばんよりも、親しさのほうが、よっぽどサバイブには重要なのに。
 
 「親しさは生得的な問題だ」と言う人もいるだろう。が、むしろだからこそ、その人の生得的度合いにとってちょうど良い親しさを学び取り、自分の親しさに見合った相手と見合った親しさをつくりあげなければならないはずだが、その難事業を、核家族という、必ず家庭内病理を含んだ小さな入れ物に任せている現行は、考え直してみるととんでもないことをやっているなぁという気がする。もし父親や母親が授ける親しさが、子どもの生得的な親しさのdegreeと合致していなかったら、「たいへんなこと」になってしまうわけで。
 
 世の中には、まだまだ学校では教えてくれないことがあり、教科書を読んでもわからないことがある。「親しさ」もまた、その筆頭格にして、必須度が高いもののひとつだ。恋愛は要らない、まではいいとして、親しさまでも要らないと言ってしまって良いのか、私にはちょっとわからない。