シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

現代アニメときどきエロゲ――『若おかみは小学生』感想

 
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若おかみは小学生!  映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

若おかみは小学生! 映画ノベライズ (講談社青い鳥文庫)

 
 今季はソシャゲと読書で趣味生活が荒みきっていて、テレビアニメを見る気が沸かなかった。そんな折、劇場版『若おかみは小学生』をふらりと観に行ったら予想外に琴線に触れてしまったので、あまりネタバレにならないよう注意しながら思ったことを書いてみる。
 
 

エロゲエロゲと騒ぐ前に:おことわり

 
 感想を書く前に、私のアニメの好みや趣味性について断っておく。
 
 最近は、オタク-サブカルという区別も曖昧になってきた感があるが、それでも私はオタク側の人間だと思っている。少なくともアニメやゲームを選ぶ時の選考基準はオタクのままだ。
 
 つまり自分の好みに忠実であるのがオタクとして正しいスタンスなのであって、教養とかポーズとか、そういったものを基準に作品を選ぶのは褒められた仕草ではない、という考えだ。
 
 で、『若おかみは小学生』は、私の好みでは当落線上ギリギリに見えた。
 
 twitterのタイムラインにいる熱心なアニメ愛好家の反応をみる限り、どうやら優れた作品らしかった。キャストの評判も良いと聞いている。だからといって、それで映画館に行くほど私は熱心でもサブカル的でもない。そのうえ私はロリコンではないから、小学生女児が主人公の作品が特別好きというわけでもない。
 
 だからこの映画を見られたのは、たまたま時間が空いていた時に、たまたま映画館の近くに私がいて、満席に近いにもかかわらずチケットが取れてしまったからに他ならない。ところが、これが忘れられないアニメ体験になったので、こんな文章を書き連ねている。
 
 

「現代アニメときどきエロゲ」

 
 とても大ざっぱな個人的感想を書くと、『若おかみは小学生』は、ときどき「エロゲ」っぽいフレーバーの漂う、洗練された現代アニメだった。
 
 ここでいう「エロゲ」*1とは、エロゲがオタク文化圏のなかで先端を担っていた時期の趣向・表現・感性をひっくるめてエロゲと書いている。90年代後半~00年代前半ぐらいの頃に、エロゲというメディアの近辺で流行っていた趣向・表現・感性、とも言い換えられるかもしれない。
 
 もちろん『若おかみは小学生』は2018年に作られた、親子で安心して楽しめるよう作られたアニメ映画ではある。映画館には親子連れの姿が散見されたし、ときおり笑い声や叫び声があがっていた。また、ストーリー的にも脇役配置的にも、親の立場に訴えかけてくるところも多分にあって、青少年のアニメ愛好家だけに訴えかけているわけではないと見てとれた。そういった間口の広さも、この作品の良いところなのだろう。
 
 その一方で、90~00年代のエロゲ周辺の空気を覚えている視聴者に妙に訴えかけてくる作品ではないかとも思った。
 
 このアニメの舞台は田舎の温泉地で、まあその、郷愁を誘うシーンが数多く登場する。神社も温泉街も鯉のぼりの吹き流しも、もはや、現代アニメでは珍しく無い郷愁ではある。が、この作品のソレは、やけにエロゲっぽいと感じてしまったのだった。
 
 私がこの作品からエロゲ的な郷愁を感じるのは何故なのか?
 
 振り返ってみると、いろいろな理由が思いあたる。
 
 ひとつは、この作品があちこちに潜ませている、ロリコンな愛好家へのそれとないメッセージだ。
 
 原作が児童向けの作品にも関わらず*2、この作品、その筋の人達を喜ばせるための仕掛けが随所に施されている。特に前半は、その筋の愛好家を痺れさせそうなカットがたくさん埋め込まれていて、頑張っていると感じた。長らくオタク文化圏にいる人間にはご褒美カットと気付きそうなものが、健全な描写として堂々と表現されている手際には、感服するほかない。
 
 それとサブヒロインたちの登場や物語のなかでの位置づけ。真月にしてもグローリーにしても、彼女らが登場するシーンは、エロゲのサブヒロインが「よくわからない女」という風采で新登場するさまを連想させた。
 
 どぎついキャラの「よくわからない女」なサブヒロインと出会い、フラグが進行し、やがて仲良くなるうちにメインヒロイン(=おっこ)のストーリーも進展していく……という構図もエロゲめいている。鈴鬼・美陽・ウリ坊といった「人ならざる者」が介在し、彼らによっておっこが変わり、おっこが変わるにつれて彼らとの関わり方が変わっていくさまもエロゲ的だ。
 
 ネタバレを避けるために曖昧な表現にとどめるが、メインヒロインのおっこも、シャンパンに溺れていたグローリーも、旅の途中の男の子も、本作品に出てくるキャラクターたちは「変わっていった」。どう変わっていったのかを書いてしまうとネタバレ直球になってしまうのだけど、その変化の内容や、変化のプロセスは、すこぶるエロゲ的、90年代~00年代風だった。そして、おっこ自身も含め、キャラクター達の変化の物語は「春の屋旅館は誰でも受け入れ、誰でも癒す」というキーワードと綺麗に結びついていた
 
 
 私は原作の予備知識無しにこの作品を観たので、10年代のアニメ、それも、小学生女児を主人公に据えたアニメで、こういう「変化」が真正面から描かれるとは予想していなかった。だが、子供向け原作の作品だったからこそ、かつてオタク界隈で大量生産・大量消費されたのと同じタイプの「変化」がてらいなく描かれ得たのかもしれない。青少年や中年をターゲットにした作品では陳腐とみなされかねない「変化」でも、児童向け作品では依然として重視され、正面から切り込まれることは、あってもおかしくなさそうではある。
 
 そう考えると、私が『若おかみは小学生』にエロゲ的な雰囲気を感じた原因のひとつは「本作品が児童向けの出自を持っていて、90年代~00年代にさんざん描かれた『変化』を描いても違和感が無かったから」なのかもしれない。
 
 

『Air』に似ているとも感じる

 
 個人的には、『若おかみは小学生』を(エロシーンのない)エロゲに見立てるとしたら、『Air』っぽくなるんじゃないかと思う。
 
 その場合、メインヒロインはおっこで、グローリーと真月がサブヒロインルートになるだろう。それに峰子さんルートが加わってもおかしくない。鈴鬼・美陽・ウリ坊は、ヒロインにくっついてくる重要な脇役といったところだろうか。
 
 サブヒロインのフラグやストーリーが進行するにつれて、メインヒロインであるおっこのフラグやストーリーも少しずつ進行し、最終的にはおっこ自身が「変化していく」。――ある種のエロゲであれば、そうした変化は男性主人公によってもたらされなければならないが、『Air』になぞらえる限りにおいて、男性主人公は必要とされない。『Air』の後半、男性主人公が傍観者となったのと同じく、視聴者は変わっていくおっこの物語をただ眺めているしかないし、ただ眺めていたって構わない。そういえば、ウリ坊のポジションも、微妙に『Air』のカラスに似ていないとも言えない。このあたりもネタバレを踏みそうなので「観てください」としか言えないのだけれども。
 
 

「よくできたエロゲ」として観る必要はもちろん無い

 
 映画を見終わってからこのかた、私はずっと「『若おかみは小学生』はよくできたエロゲ」という言霊に取り憑かれていた。今もそうだ。おっこの着せ替えシーンをはじめ、2010年代アニメの芳醇な成果をたっぷり採り入れた劇場版アニメだのに、エロゲ的な何かが炸裂しているとは! いや、2010年代の、丁寧につくられた劇場版アニメに、図らずもエロゲ的な文脈を見いだしてしまうとは!
 
 『若おかみは小学生』は、90年代~00年代のエロゲ的文脈を知らない者を拒むようなアニメでは決してない。「よくできたエロゲ」として観る必要性は微塵も無いし、そもそも、制作陣がエロゲを意識してこの作品を作ったとは思えない。
 
 だからこれは、90~00年代にオタクをやっていた者の思い込みではあろうけれども、こういう思い込みは、たとえば『ゆるキャン』や『ガルパン』を観ていても湧いて来るものではなかったし、『花咲くいろは』でも沸いて来なかった。児童向け原作だった点も含めて、私がエロゲ的文脈を思い起こすに足りる条件が、この作品には整っていたとは思う。
 
 そういうわけで、現代アニメのおいしいところをたっぷりと詰め込み、とても丁寧に作られた本作品を、私は「現代アニメときどきエロゲ」と表現したくなった。繰り返すが、『若おかみは小学生』をエロゲの発展物として観る必要性は無いし、そういう客層にアピールしたい作品でも無いはずである。それでも、二十年ほど前、粗末なグラフィックと三行しか表示されないテキストの虜になっていた者の一人として、2010年代の劇場版アニメ、それも、大変よくできたアニメのうちにエロゲ的な筋を見いだすというのは眼福だった。
 
 エロゲに限った話ではないけれども、界隈のエッセンスは有形無形のかたちで受け継がれ、発展しているのだなぁ……と思う日曜日だった。
 
 

*1:以下、鍵かっこは省略する

*2:いや、だからこそ自然に、と言うべきか