以下のリンク先では、タイトルどおりの論説が展開されている。
アニメ業界体験録 -エロの言い訳だった泣きゲーだけど、結局の所「泣ける」より「抜ける」が目的だろ?- - サブカル 語る。
はぁ、そんなものですかね?
リンク先を私なりに要約すると、【アニメとエロが強く結びついたのは十年ほど前の「泣きゲー」ムーブメント】ってことらしい。ええっ!? 私が記憶している「泣きゲー」はそんなものではないのだが……。
エロゲ―に男性性欲にもとづいた御都合主義がはびこっているのは確かにそうだろう。アニメ柄・漫画柄の美少女キャラクターを湯水のように消費する文化習俗が立ち上がってきたのもそのとおり。
[関連]:なぜ少女が湯水のように消費されるのか――男性オタク界隈における少女の消費状況について―― - シロクマの屑籠
だが、そうした美少女コンテンツの消費状況のうち、エロに関連した方面で「泣きゲー」はそんなに貢献していただろうか?
「泣きゲー」と言って私が思いつくのは『加奈~いもうと~』や『Kanon』『Air』などだ。時期が前後するが『One』や『CLANNAD』も「泣きゲー」に含めて構わないかもしれない。
で、これらの作品がどれぐらいエロと結びついていたのか?
私が知る限り、これらの“エロゲ―”はぜんぜんエロくなかった。『加奈』は、あの葬式のような雰囲気に耐えられるなら「抜きゲー」たりえたのかもしれないが、私はまったく性に合わなかった。まして、『One』や『Kanon』の性描写のおざなりさ・お粗末さといったら……。
私はこれらのゲームに二十代で出会ったため、当初、「泣きゲー」にもエロを期待していた。ところが、この筋のゲームのエロシーンときたら、とってつけたような、無いほうがまだマシな代物で、とてもじゃないがエロを楽しめるようなものではなかった。『Air』が発売された時にはエロなんて期待するまいと思っていたが、その予測はまったく正しかった。その後の『CLANNAD』に至っては、もはやエロゲ―ではない。
私の周辺には大勢の「泣きゲー」プレイヤーがいた。皆、アニメやエロゲーやオンラインゲームといった界隈の愉しみを一通り嗜むオタク仲間だったが、エロ成分を「泣きゲー」に期待している人間はいなかった。
そりゃそうだろう、もっとエロいコンテンツや疑似恋愛気分を楽しめるコンテンツなんて他にも色々あったのだから。いまや風前のともしびとなっているエルフも当時は健在だったし、LEAFやアリスソフトなど、他のメーカーも頑張っていた。
もし、エロゲー界隈がカジュアルな美少女コンテンツ消費に与えた影響を考察するなら、私なら、ド直球な「泣きゲー」を語るよりも『To heart』や『D.C.』などを語るべきではないかと思う*1。そして前後の脈絡として『ときめきメモリアル』『同級生』といった更に古いゲームに言及したり、あるいはライトノベル界隈とエロゲー界隈との関連に文字を費したりしても良いのではないだろうか。
私は、アニメとエロが強く結びついた“戦犯”としては、もっと沢山のジャンルや作品が挙げられて然るべきと思っている。関与しているもちろんエロゲーだけでなく、少年漫画やアーケードゲームに登場した美少女キャラクターだって挙がりそうだし、かとゆーさんがまとめているような、アニメの「ラッキースケベ」表現の歴史を追うことにもなるだろう。その錯綜した歴史を語るのは難作業になると思われ、いろいろな語り口が想定される。
とはいっても、そうした美少女コンテンツの性的消費-史に占める「泣きゲー」の影響は、小さいものと私は見積もらざるを得ない。なにせ、ちっともエロくなくて、それはそれは酷いエロシーンだったわけで。だから私は、アニメとエロが強く結びつく契機として「泣きゲー」を語るのは、往時のプレイヤー達の評価を知らなかったか、「泣きゲー」そのものを全然プレイしていないか、どちらかだろうと疑ってしまう。
いや、過去の出来事を全く知らない人でさえ、google検索を駆使すれば往時のプレイヤー達の反応や評価をそれなり発掘できる。オタク系個人ウェブサイトが消えていったとはいえ、“遺跡”が全滅したわけではない。
リンク先のブログタイトルは『サブカル 語る』だという。プロフィール欄には『サブカルチャーのどマイナーな話題などについて語る』とも記されている。だが、ここで以前見かけたサブカルチャー論説からは「ひどく雑に語るブロガー」という印象が否めなかった。
誰が買うんだこんなゲーム その2 -金八先生の体験ゲーム- - サブカル 語る。
検証 -「金八先生の体験ゲーム」記事はゲームを駄作扱いしているかを考える- - サブカル 語る。
炎上してみて考えた - サブカル 語る。
そして今回の「泣きゲー」論説についても、どこかズレている以前に、ほとんど何も調べず*2、取ってつけたような論説を吐きだしているように見えてしまった。
だから私は、リンク先の記事を読み、改めて「これって『サブカル 語る』じゃなくて『サブカル 騙る』じゃないの?」と思わずにはいられなかった。ここのサブカルチャー関連記事からは、精緻な観察や調査も、熱気を帯びた実体験も読み取れない。過去ログを漁ってみても、個々の作品・個々のシーンへの愛がなかなか見えて来ないのだ。にも関わらず「サブカル 語る」とは、これいかに。私には理解できない。
- ちょっとだけ「泣きゲー」について回想を
ついでに何か喋りたくなったので、「泣きゲー」についてとりとめもなく書いてみる。
私はこの「泣きゲー」が大好きでもあり、大嫌いでもあった。ということは……大好きだったと認めざるを得ない。とりわけ『Air』と『CLANNAD』は歳を取るにつれて登場人物の見え方が変わってきたこともあり、語りたいことがたくさんある。『新世紀エヴァンゲリオン』ほどではないにせよ、墓場まで持っていく作品なんだろうと思う。
そうした思い入れはあるにせよ、「泣きゲー」の一時代、あるいは「泣きゲー」と共振した90年代後半~00年代前半の界隈のセンスは行き止まりなんだろうな、と思う。
「泣きゲー」は一時代を築いた……というより『イリヤの空、UFOの夏』なども含めた一連の作品群のなかに位置づけられるようなムーブメントの片棒を担いだ。「泣きゲー」が築いた一時代とは、「セカイ系」的センスが開花した一時代と明らかに地続きだった。「泣きゲー」が「セカイ系」の中心付近に存在していたか否かの判断は識者に任せるが、「セカイ系」的発想を煮詰めたファンのなかには、『Kanon問題』という益体も無いテーマにとりつかれる者もいた。ちなみに私は、この『Kanon問題』へのアンチテーゼに相当する作品として『君が望む永遠』や『シュタインズゲート』を挙げたくなる。
私は『Air』にのっぴきならない惹かれ方をしていた。にも関わらず、いや、それゆえに、巷で「泣きゲー」が話題になりはじめた際の安直な構図に辟易していた。夜のニュース番組に『加奈』で涙を流す男性オタクのインタビューが出てきた時などは、「お前なんて出てくるな!引っ込め!」と思ったものだ。これは同族嫌悪ではない。というのも、インタビューにうつるオタクの「泣きゲー」語りがあまりにも粗雑で、一面的で、ステレオタイプなものだったからだ。これでは視聴者に「泣きゲー」が馬鹿にされても仕方がない。
だが、そうやって周囲から「趣味の良くない奴の喜ぶ作品」とみなされ、私自身も愛憎入り混じった気持ちで眺めていた「泣きゲー」、そして「セカイ系」は、今では遠くなってしまった。ライトノベルでも深夜アニメでも、今日、「泣きゲー」や「セカイ系」が帯びていたようなセンチメンタリズム、あるいは“無駄な神経の細かさ”は希少だ。いや、はっきり言ってしまえば時代遅れである。およそ、界隈の主流ではない。
そして、今、もう一度「泣きゲー」をやりたいかと言われたら、私はNoと答えるだろう。なぜなら、私は歳を取ってしまったからだ。私の年齢で「泣ける」ゲームとは、過去の「泣きゲー」的なものではない。「きみとぼく」が一つの未来を捧げ持つような作品ではなく、既に選びとった現在という泥濘を這い回るような作品だろう。ああ、なんと陳腐な自意識の変化だろう!だとしても、きっと私は、ちいさな内閉セカイと大文字の世界を同一視するには歳を取り過ぎた。
それでも私は、あの頃に「泣きゲー」的なセンチメンタリズムや「セカイ系」的な“無駄な神経の細かさ”に出会えて本当に良かったと思っている。それらがどこまで人生に役立ったかはわからない。が、あのとき私が「泣きゲー」に心動かされたのは、それは一種の烙印なのだ。消すことができぬ烙印なら、これからも愛し続けるしかないではないか。
参考までに、私が“呼吸していた”あの頃の空気を体現しているhtmlを紹介する。
第18講 1999年ベスト恋愛ゲーム投票─(2)総合
第21講 2000年ベスト恋愛ゲーム投票─(2)総合
これらのhtmlに残された無数の声は、私が呼吸していた「泣きゲー」の一時代とほとんど一致している。
2010年代に「泣きゲー」的センスが流行になる事などあり得ないし、私自身も「泣きゲー」的センスで生きようとはしない。だが、当時の私が『Air』の夏の日に胸を打たれたのは事実だった。その記憶はこれからも大切にしていきたいし、折に触れて言葉にしてみたいとも思う。