シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「オタク差別」の過去と現在

 
 先月~今月にかけて、にわかにネット上で「オタク差別」というフレーズを見かけて、昔のことを思い出したりした。
 
山本弘のSF秘密基地BLOG:オタク差別は消滅しつつある
「オタク差別など今も昔も存在しない」といういつもの話 - Togetter
オタクのキモさと差別について - novtanの日常
あのころ、僕達には「好きなものは好き」と言う自由すら存在せず、『隠れオタク』を余儀なくされていた。これが差別でなくてなんなん? - 自意識高い系男子
 
 
 上記のようなディスカッションが続いた後に、
 
具体例も根拠もなしにいきなり「オタクアニメ演出多かった。生理的にムリ」と言い放つのはアリ?/「今、世界中が、これだけmetooとか女性社会進出とかで盛り上がってるのに、技術界隈だけ歪んだ欲望に応じたデフォルメつづく不思議」 - Togetter
 
 「オタクアニメ演出は生理的に受け付けない」という発言から始まり、議論が散らかっていくtogetterが現れた。発言者のわきが甘く、議論をどこまでも拡散させて反感を買っているあたり、稚拙としか言いようがないが、そんな彼に遮二無二噛みついているオタク擁護者もピラニアのように容赦がなく、さながら地獄絵図である。
 
 「オタク差別」はあったのか無かったのか? 「オタクアニメは生理的に受け付けない」と言った人がいたら「オタク差別」を理由に、徹底的にたたいて構わないのか? このあたり、色々な要素が混在していて難しい問題ではあるけれども、自分なりの意見をブログに書き残す。
 
 

1.「オタク差別」という言葉は妥当か

 
 まず、オタクと言われる趣味集団、または特定のサブカルチャー領域を見下し、頭ごなしに下に見ることを「差別」と呼ぶべきか否かについて。
 
 差別というと、人種や性別といった先天的要素を指すものと思う人もいるようだが、ブリタニカ国際大百科事典によれば、

特定の個人や集団に対して正当な理由もなく生活全般にかかわる不利益を強制する行為をさす。その差別的行為の対象となる基準は自然的カテゴリー (身体的特徴) の場合もあれば,社会的カテゴリー (所属集団) の場合もあるが,いずれにせよ恣意的な分割によって行われる。現代フランスの社会学者 R.ジラールはスケープゴート (贖罪の山羊) 化の理論によって差別現象のメカニズムを解明した。それによると社会の危機状況にみられる相互暴力のカオスを回避するために,無際限な暴力の拡散を恣意的に選択された特定の個人あるいは集団に集中させる犠牲の論理 (第三項排除) が差別現象の根底にあるとされる。たとえばドイツの社会不安に乗じてナチス政権が利用した反ユダヤ主義,関東大震災直後の朝鮮人虐殺などがスケープゴート化の現象として考えられる。

https://kotobank.jp/word/%E5%B7%AE%E5%88%A5-169844

 とある。
 
 この引用文からオタク差別について考えると、趣味集団としてのオタクも、サブカルチャー領域としてのオタクも、ひとつの社会的カテゴリーに該当し、恣意的な分割が行われてきたわけだから、差別という言葉が該当してもさほどおかしくない。また、引用後半のスケープゴート化の理論に関しても、社会の危機状況という文言にはあたらないものの、20世紀のサブカルチャーのメインストリーム側によって、オタクが文化的ヒエラルキーの最底辺に位置付けられたという意味ではスケープゴートにされたという見方もできるわけで、一部のいう「オタクに差別という言葉は似合わない」という主張に、私はあまり納得できていない。
 
 社会不安をもよおすような事件が起こった時に、被疑者のオタク的な要素をマスメディアが好んで報道する現象も、オタクという社会的カテゴリーをスケープゴートにしている象徴的出来事にみえる。「オタクだからやった」ということにすればオタク以外は安心できる。社会不安をもよおす被疑者をオタクというカテゴリーに突っ込み、切断操作する潜在的需要が世間にあればこそ、マスメディアは「犯人はオタク的な人物」という体裁を好んで報道するのではないか。
 
 そもそも、オタクという言葉には明白なスティグマがあった。誰かのことを気持ち悪がる時に「いやだわ、あの人オタクっぽい」といった言い回しを、私は1980年代~00年代にかけて、それこそあちこちで見かけてきた。私が「脱オタ」と称してオタクと気付かれにくい擬態を行いながら、アニメやゲームとは無縁な人々が集まっている場所で耳を澄ませている時、他人のことを馬鹿にする言葉としてオタクという言葉が使われている場面を嫌と言うほど目撃してきた。
 
 オタクという言葉がマイルドになり、アニメやゲームの意匠が広く世間に流通した2010年代においてさえ、このような用法でオタクという言葉を用いる人は残存している。
 
 つまり、今日においてさえ、オタクという言葉にはスティグマが残っているわけだ。オタクとはネガティブなもの、オタクとは理解不能なもの、オタクというからには蔑視して構わないもの、といった不文律の残滓が世間にたゆたっている。もちろん、昔に比べれば大幅にマシにはなったが。
 
 スティグマが貼り付けられてきた社会的カテゴリーが、スティグマに基づいて軽んじられたり馬鹿にされたり、スケープゴートと切断操作の対象とされたりする現象を、差別と呼ばずにどう呼べばいいのか、私の貧困な語彙力ではちょっと思いつかない。だから私は、「オタク差別」という言葉を受け入れるし、さしあたり、以後の文中では「オタク差別」という言葉を使用することとする。
 
 

2.オタク差別は「あった」のか

 
 続いて、オタク差別は「あった」のか「なかった」のかについて。
 
 これは、オタクという言葉にスティグマが貼り付けられてきたことがオタク差別が存在したことを雄弁に物語っている。
 
 オタク差別のはじまりを定義づけるのは難しいが、しかし、言語化され、影響力があり、文献的にもしばしば引用されている初期の重要な記録は以下のものだろう。
 

おたくの本 (別冊宝島 104)

おたくの本 (別冊宝島 104)

 

 コミケット(略してコミケ)って知ってる?いやぁ僕も昨年、二十二歳にして初めて行ったんだけど、驚いたねー。これはまぁ、つまりマンガアニメのためのお祭りみたいなもんで、早い話、マンガ同人誌やファンジンの即売会なのね。それで何に驚いたっていうと、とにかく東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さがね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じこもって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊ちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った九八〇円一九八〇円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前流行ったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチ眼鏡のつるを額に喰い込ませて笑う白豚かてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさあ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らがどこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!
 ここぞとばかりに大ハシャギ、アニメキャラの衣装をマネてみる奴、ご存知吾妻まんがのブキミスタイルの奴、ただニタニタと少女にロリコンファンジンを売りつけようとシツコク喰い下がる奴、わけもなく走り廻る奴、もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたい十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。
 (中略)
 それでこういった人たちを、まぁ普通、マニアだとか熱狂的なファンだとか、せーぜーがネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。
 
 『漫画ブリッコ』83年6月号 中森明夫「『おたく』の研究1 街には『おたく』がいっぱい より。これは、別冊宝島『おたくの本』からの孫引き

 
 「おたく*1」について明文化された最初期の文章は、このようなものだった。その後、宮崎勤の幼女連続誘拐殺人事件がオタクという言葉と強引に関連づけられ、さらに宅八郎のようなオタクのステロタイプを演じる人物も登場した結果として、オタクのステロタイプ、あるいはオタクのスティグマの原型がかたちづくられ、人口に膾炙していった。
 
 のみならず、オタクと呼ばれる側、つまり世間から身を隠すようにアニメやゲームや同人誌を愛好していた人々にも、「オタクは気持ち悪いもの」「オタクは日当たりの良いところで堂々としていてはいけないもの」といった意識が内面化されていった。この内面化されていったという事実もまた、オタク差別が、実際に差別と呼べるものだった証拠だろうと私は思う。「新人類」*2がおたくをヒエラルキーの底辺におとしめた構図が世間的に正統とみなされ、底辺に押しやられた側もそのことを自覚し、内面化してしまったわけだから、まさにスティグマというほかない。
 
 90年代~00年代前半の、そうしたオタクスティグマを思い出すキーワードは幾つもある。
 
 ひとつは「隠れオタク」。
 
 オタクは隠れて行うもの・オタクはバレたら困るものをあらわす言葉として、「隠れオタク」「擬態」といった言葉がオタクの間では頻繁に用いられた。オタクではない人を指す言葉として「一般人」「カタギ」といった言葉もよく用いられ、自分たちは一般人ではないという意識が、あちこちのオタクの集まりで共有されていた。自分達が愛しているコンテンツは世間に見せびらかして構わないものではない、という意識も共有されていたし、当然ながら、「一般人」の側もそのようなものとしてオタク達を眺めていた。
 
 [関連]:一般人/ 逸般人/ 同人用語の基礎知識
 [関連]:あるオタク精神科医の歴史 - シロクマの屑籠
 
 もうひとつは「オタク自虐芸」。さきに述べたように、オタクは隠れてやるもの・バレたら公然と馬鹿にされるものという意識は、90~00年代前半のインターネット上のカルチャーに「オタク自虐芸」を成立させていった。
 
 テキストサイトでも、匿名掲示板でも、個人ウェブサイトでもそうだが、オタクが文章を書き綴る際に、「自分はオタクなんだけどね」「こんなオタクですいませんが」といった自虐スタイルをとった文章がとても多かった。現在ですら、それらの名残を見かけることはある。オタク自虐芸が多かったということは、「オタクと名指しされる人やカルチャーはネガティブに受け取られるもの」という前提が共有されていたわけである。
 
 当時のインターネットはそれこそ「一般人」の少ない、研究者とオタクの新天地だったにもかかわらず、コミュニケーションの用法として「オタク自虐芸」がしばしば見られたわけだから、インターネットに集っていた人々の間に「オタクとは自虐し、エクスキューズしたうえで語るもの」という意識はそれなり広くあったのだろう。
 
 さらにもう一つ、「脱オタ」の存在である。
  
 [関連]:「あの時代」のオタク差別の風景と「脱オタ」について - シロクマの屑籠
 
 詳しいことは上掲リンク先を読んでもらうとして、90年代~00年代にかけて「脱オタ」という語彙が存在していた。脱オタという言葉は「オタク趣味をやめて差別されるのを避けよう」という意味で使っている人と、「オタク趣味は続けても差別されるのは避けたいから、オタクっぽくなくなろう」という意味で使っている人、両方の意味が混じっている人もいた。ワンフレーズにまとめると、「『脱オタ』とは、オタクのスティグマから逃れるためのムーブメントだった」と言えるだろうか。
 
 私自身もこの「脱オタ」に深くかかわっており、wikipediaの「脱オタク」の外部リンクには私のウェブサイトの名前が載っている。「脱オタ」は『電車男』がブームになった直後の2006年頃にピークを迎え、『脱オタクファッションガイド』は相当数を売上げ、二匹目のドジョウを狙った出版企画が相次いでいた。
 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

 
 
 「隠れオタク」「オタク自虐芸」「脱オタ」は2006年頃から急激に下火になっていき、見かける頻度が激減した。「オタク自虐芸」はまだしも、「隠れオタク」「オタクと一般人」といったフレーズはネットで見かけなくなり、「脱オタ」は死語になった。
 

 
 

3.メジャーに、ポップになったオタク

 
 『電車男』がブームになり、アニメ系・ゲーム系の動画コンテンツが脚光を浴びるようになった頃から、サブカルチャー全体におけるオタクとオタク的コンテンツの位置づけが急激に変わり始めた。その理由の一端は、人気タレントが「実は自分もオタクで……」とカミングアウトしたことにもよるだろうし、パチンコやパチスロへのオタク的コンテンツの進出もあっただろう。また、ある時期からは「聖地巡礼」「萌えおこし」といった、地域振興とオタク系コンテンツのタイアップ、もっと言えば「オタク(系コンテンツ)はカネになる」という認識が広がったことも追い風になったのかもしれない。
 
 いずれにせよ、昔は社会の片隅でひっそりと、周囲からの蔑視を避けながら楽しむものだったオタクと、オタク的コンテンツの後継が、大手を振って世間に溢れるようになった。
 
 今日、かつてならオタクしか愛好しなかったであろうコンテンツや表現を見かける範囲は相当広い。
 
 インターネットの広告欄に、肌も露わなアニメ絵のキャラクターが登場していることは稀ではない。いや、テレビに映るソーシャルゲームのCMにしてもそうだ。オタクのために作られた深夜アニメからそのまま飛び出してきたかのような、そういうキャラクターや表現が白昼堂々と放映されるようになっている。
 
 地方自治体のキャラクターやマスコットにも、遠い昔のロリコン漫画の末裔、あるいは90年代~00年代のエロゲ―やギャルゲーを彷彿とさせるような、それかライトノベル風の表現が当たり前のように用いられるようになった。「聖地巡礼」をあてこんだ地方都市が、街じゅうに深夜アニメのポスターを貼り、のぼりを並べているのを見ると、隔世の感がある。
 
 そういったコンテンツに抵抗の無い、一人のオタクとしての私からみれば、こうした変化は概ね望ましいことであり、変化をもたらす要因となったすべての人に感謝したい。オタクやオタク的なコンテンツが"市民権"を得たことによってオタク差別が絶無になったわけではないとしても、オタクとして生きること、オタク的なコンテンツを楽しむことが大幅にラクになったのは否めない。
 
 ただ、カルチュアルな位置づけが変わってオタク的なものが白昼堂々とまかり通っている現状に辟易している人がいるであろうことも、容易に想像される。
 
 これまでオタクを差別し、オタク的なコンテンツを理解しがたいものと見做していた人達にとって、今日のサブカルチャーの状況は不快きわまりないものであろう。そこまでいかなくても、内心、面白くないと思っている人は少なくないはずだ。オタクとオタク的なものが広く受け入れられるようになったからといって、すべての人がオタクになったわけではない。
 
 また、これまで日陰でこっそり楽しまれていたから議論の俎上にのぼることの少なかったコンテンツや表現が、無遠慮に世間にばら撒かれ、様々な領域に進出していることを問題視する人は、オタクではない人はもとより、オタクのなかにもいよう。深夜アニメやコミケの会場で許容されるコンテンツや表現が、どこまで街中や公共の媒体で許容されるものなのか、リテラシーを考え直す余地はあって然るべきだろう。オタク的なコンテンツや表現がメジャーになったからこそ、表現規制の問題とはまた別に、デリカシーやリテラシーを問う声があがってくるのはわかる話ではある。
 
 オタクにとって違和感のない表現も、オタクではない人々、あるいはオタク的コンテンツとは縁の乏しい人々には、目障りだったり、不安をもよおすようなものだったりする可能性を、2018年のオタクのいったい何割程度が自覚し、配慮しているだろうか? 実のところ、オタクを自認している人の相当部分は、そういったことを多かれ少なかれ気にしているのではないかと思う。しかし、すべてのオタクが自覚しているわけでもなく、ただただ世間への進出を当然とみなしている人がいるのも、また事実だ。
 
 

4.私個人の意見

 
 こうした情勢のなかで、ときに、オタクアニメ演出は気に入らないといった声をあげた人が叩かれたり、オタクバッシングが論難に晒されたりする。冒頭リンク先などは、そうした声に一般論を無理矢理に混ぜ込んだせいで絶好のバッシング対象となっており、自業自得の印象が否めず、私も弁護する気にはなれない。
 
 他方、こうしたバッシングに際して、オタクサイドから「表現規制反対」がドサクサにまぎれて語られることがある。そういった具合に、それぞれの立場から議論を拡散させる「めんどくさい人」が現れて、議論がグルグル回りながらバターのようになっていくのは、ネットにおける定番である。
 
 この件について、私自身はオタクバッシングが批判・非難されることに痛痒を感じない。長らく抑圧されてきたオタクとオタク的コンテンツが大手を振って世間に存在している現状を手放したくないからだ。また、表現規制の問題に関しても、常に警戒が必要だと思わざるを得ない。
 
 ただし、オタクとオタク的なコンテンツや表現は、社会のなかでの立ち位置が10~20年前とは大きく変わってきている。そのことを念頭に置いたうえで「表現規制反対」や「オタク差別反対」を現代風にプレゼントしていくのが筋であるように、私には思われる。
 
 かつてのオタクは、現在よりも高頻度に差別され、オタクへのスティグマも深刻だった。数的にも少なかったオタクは、サブカルチャー全体に占める社会的カテゴリーとして少数派だったとみて間違いないだろう。当時のオタクが、オタク差別に大声で反対せずにはいられなかったことは全くおかしくないし、声のトーンが高くなるのも無理もないことだった。
 
 しかして現在のオタクは、過去より低頻度にしか差別されず、スティグマは緩和された。少なくともサブカルチャー全体に占める社会的カテゴリーとしては多数派となり、コンテンツに関しては『君の名は。』や『けものフレンズ』のヒットが示しているように、あるいは地方自治体等とのコラボが顕著なことが示しているように、メジャーにもなっている。2018年のオタクを巡る状況は、1998年のそれとは明らかに違う。
 
 すでに権利を獲得し、勢力としても大きくなった社会的カテゴリーの成員が、なおも自分達はマイノリティだと主張し続け、さらなる権利の獲得を要求しつづけるのは、部外者からどう見えるのか。歳月を経て一大勢力となり、マイナーではなくなった社会的カテゴリーの尖兵が、今までどおりのトーンで大声を上げ続ければ、見苦しく、厚かましく、欲深くうつるのは、世間ではよく起こることではある。だとしたら、これからはもう少し鷹揚に、あるいは慎み深くなったほうが良いのではないだろうか。
 
 もちろん私は、オタク差別がなくなったと言いたいわけではない。世の中のあらゆる社会的カテゴリーが、それに属さない人々からしばしば見下されることがあるのと同じくらいには、なくなりはしないだろう。たとえばインターネット上において、体育会系や(マイルド)ヤンキーといった社会的カテゴリーに対するスティグマが無くならないのと同じように。それでも、オタク差別を巡る状況を20年前と同列に扱うのはナンセンス、というのが私の意見である。
 
 ただし、私は個人としての意見を言う以上のことはできない。人によって意見はさまざまだろうし、それをとやかく言える筋合いではない。「オタク差別」関連のこれからを決めていくのは、個々の意見の集大成、つまり世論ということになろうし、そのことについては特に意見は無い。
 
 

*1:当時はまだひらがなで表記することが多かった

*2:注:「おたく」を定義づけて若者文化のヒエラルキーの底辺に追いやったのは「新人類」であり、中森明夫氏はその旗手と目されていた