シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「45歳以上はリストラしたい」+「高技能の若者が欲しい」=「子どもが増えない」

 
 
kabumatome.doorblog.jp
 
 先月、富士通グループが45歳以上の社員をリストラするという話を見かけた。
 
 大企業の45歳以上の社員といえば、それなりの人生プランにもとづいて暮らし、年齢的にも住宅ローンや子どもの学資がきつい頃だろう。古い人生プランだと言われてしまえばそれまでだが、「一家の大黒柱」として期待されている人も多かろうし、大企業だからとあてにしていた部分もあろうし、大企業だからつぶしがきかない人もいそうではある。
 
 とはいえ、富士通が特別に邪悪なリストラをやったのかといったら、そういうわけでもない。いまどき、40~50代のリストラなんて珍しくもなんともないし、割り増し給付金が付いているだけマシといえばマシだ。
 
www.businessinsider.jp
 
 「50歳過ぎた社員は新しい価値を生まない」というこの記事も、各企業のリストラを報じたもののひとつだ。優秀なベテランは手許に残したいが、そうでない40~50代の社員はリストラしたい ── 企業の新陳代謝のためにも、若い世代を養うためにも、リストラが必要なのは理解はできる。
 


 
 だが、それは企業の都合であって働く側の都合ではない。「安定した雇用を求めて」わざわざ大企業に就職したと感じている側にはたまったものではないだろう。
 
 優秀な人材を自認する人は、しばしば「リストラを怖れなくても良い優秀な人材になれ」と言う。だが、すべての社会人が優秀な人材になれるとは到底思えない。控えめに言っても、社会人の半数以上がリストラを怖れなくて構わないほど優秀になるなんてことはあり得ないのではないか。
 
 結婚して家庭を持ち、いちばん稼いでこなければならない時期にリストラの対象になるかもしれないのは大変なリスクだ。いまどきの社会人は、そういうリスクを念頭に置きながら人生設計しなければならないらしい。
 
 その一方で、高い技能を持った若者が求められているという。
 
 人手不足のこのご時世、高い技能の若者は引く手あまたなのは理解できるが、そのような若者をつくるにはそれ相応の時間とカネがかかる。若者という「資源」は子どもという「原材料」を加工(養育)しなければできあがらず、21世紀現在、その困難な加工プロセスは親に任されている。
 
 いまどきの企業が欲しくて仕方がない若者という「資源」は、いまどきの企業がリストラしたくて仕方がない40~50代の社員の家庭で、子どもという「原材料」からつくりあげられている。
 
 

「優秀でなければ子どもをつくるな」という圧力がかかっているに等しい

 
 ①企業は優秀でない40~50代をリストラしたがっている
 ②子どもをいまどきの若者に育てるには時間とカネがかかる
 
 この二つを、現代社会の大前提として真正面から受け取ると、「よほど優秀な人材になれる見込みがない限り、子育てなんて始めるものじゃない」という結論に辿り着く。
 
 世の中には、リストラがぜんぜん怖くない社会があると聞いたことがある。たとえば私が風のうわさで聞いたアメリカ合衆国は、リストラは日常茶飯事だが再就職も日常茶飯事なので問題ないのだという。もし、この伝聞のとおりだとしたら、アメリカ合衆国という国はとんでもない国だ。子どもを大学にやるための費用は日本以上に高額そうではあるけれども。
 
 とはいえ、それはよその国の、それも噂話でしかなく、現在の日本社会で40~50代にリストラされるのはやはり大きなリスクになる。子どもを、いまどきの優秀な若者へと育て上げるためには、そのリスクを冒すか、そのリスクをはねのけられるほどの強さが必要になる。
 
 40~50代のリストラを怖がらなくて済むためにはどうすれば良いか?
 
 リストラされても怖くないほど優秀か、リストラされる心配が無いほど優秀であればとりあえず大丈夫だ(ろう)。しかし、そこまで自分に自信が持てる人間は多くあるまい。ならば、とびぬけて優秀というわけではない大多数は、子育てを回避するのがリスクマネジメントとして妥当であり、控えめに言っても、子育てをためらうのは致し方のないところだろう。
 
 


 
 
 子どもを若者に育てるためには膨大な時間とカネがかかるとわかっているにも関わらず、企業が優秀でない40~50代をリストラしたがっている社会情況を見据えるなら、平凡な人間が子育てを回避しようと思うのはきわめて合理的、かつリスクマネジメントに秀でた判断といわざるを得ない。
 
 むしろ、このような社会情況のなかで、自信も無いのに子育てを始めるほうがどうかしているのではないだろうか? ───少なくとも、合理主義的・資本主義的に人生を考え、リスクマネジメントの精神で人生設計をするような人ならば、自信も無いのに子育てを始めたりはしないのではないか。40~50代で安定した収入を維持できる見込みもないのに、時間とカネがすさまじくかかり、そのうえ親としての責任を問われてやまない子育てをスタートするのは狂気の沙汰である。生物としてはきわめて自然な繁殖ではあっても、合理主義的・資本主義的主体として考えるなら、ナンセンスとみなさざるを得ない。
 
 してみれば、現代社会の少子化とは、生物としては不自然な現象でも、合理主義的・資本主義的社会の行き着く先としては理にかなった現象のようにみえる。日本よりも凄まじい勢いで少子化が進んでいる台湾や韓国の若者は、より一層合理主義的・資本主義的に考えて、将来の年収と諸リスクをしっかり勘案して人生設計しているのではないか。
 
 頑張って大企業に就職してさえ、子どもを育てる盛りの時期にいきなりリストラされて再起不能になりかねない社会とは、「優秀でなければ子どもをつくるな」という圧力がかかっている社会にも等しい。そのうえ、子どもを放任しておけばそれはそれで虐待だと言われてしまう社会なのだから、産みっぱなしというわけにもいかない。よほど自信があるか、よほど子育てしたくてウズウズしているのでない限り、こんな社会情況でホイホイと子どもをつくって育てにかかるほうが、どうかしている。
 
 ……どうかしていると思いませんか。
 
 

「優秀な人」を基準にした社会では子どもは増えない

 
 もちろん、こうした問題は優秀な人には関係あるまい。
 
 優秀になれば大丈夫だよ。
 ↓
 優秀になりなさい。
 ↓
 優秀でないあなたが悪い。
 
 こうした考え方を良しとする人々にとって、リストラが心配だから恋愛・結婚・子育てを回避するのは負け犬仕草とうつるだろうし、実際、そのような論調をメディアでは稀ならず見かける。
 
 しかし、優秀な人を基準にした社会は、全体としてはけっして子どもは増えない。
 増えるわけがない。
 優秀な人は、その定義からいって少数派だ。
 少数派だけが子育てしたくなる社会なんて終わっている。
 
 もし、社会全体として少子化を解消していくとしたら、優秀な人だけが子育てを選べるような、優秀な人ベースの社会はどうにかしなければならない。平凡な人が子育てを選ぶ気がなくなる社会は持続不可能だし、あまり巷間では語られていないけれども、とんでもなく人間を疎外している社会ではないかとも思う。
 
 合理主義的思考と資本主義的イデオロギーが日本・韓国・台湾並みに浸透していて、それでもなお、優秀な人もそうでない人も恋愛・結婚・子育てに向かえるような社会はあり得るのだろうか。あったとして、それは東アジアでも真似できるようなものなのだろうか。
 
 大企業の40~50代がリストラされるニュースは、該当世代だけでなく、若者だって眺めているだろう。いまどきの、合理主義的思考や資本主義的イデオロギーをしっかり身に付けた若者たちは、ああいったニュースをどう眺めて、何を思うのだろうか。