シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

「街角の自己実現人間」にあなたは気づいていますか

 
Point of view - 第123回 熊代 亨|人事のための課題解決サイト|jin-jour(ジンジュール)
 
 
 リンク先の寄稿文章で触れた、自己実現の境地に辿り着いた人について、こちらでも少し捕捉を。
 
 かつて、自己実現という言葉が若い世代に持てはやされたことがあったけれども、「なりたい自分になる」とか「自分発見」みたいな自己願望成就のニュアンスに傾いてしまっていた気がする。
 
 それとは別に、マズローの欲求段階説のてっぺんを目指す的な向きもあった。自己実現という、モチベーションの至高に辿り着くことをありがたがっていた人達だ。インターネットのある界隈を眺めていると、どうやら、今でもそういう向きは残存している。承認欲求や所属欲求を下等なものとみなしながら、自己実現欲求・自己実現、といった言葉にこだわる人々が。
 
 たぶん、「自己」という語彙が良くないのだろう。
 
 現代社会においては、「自己」とは各人の中心であり、各人にとっての世界の中心でもある。自分がかわいい、という意味だけでなく、他人に迷惑をかけてはいけない、という規範意識も含めて、現代人は「自己」を神聖な冒すべからざるものとみている向きがある。
 

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

自己コントロールの檻 (講談社選書メチエ)

 
 自己実現・自己実現欲求は、この「自己」という語彙の現代的解釈の影響をモロにこうむって、「世界の中心の、冒すべからざる自己(自分)の目指すもの」といったニュアンスに巷では変質してしまっている。
 
 それゆえ、そのように語られる自己実現・自己実現欲求という言葉には、自分自身への強い執着がついてまわっていて、これらの言葉を持て囃している人からも、だいたい同じ気配が感じられてならない。
 
 

「街角の自己実現人間」は、たぶん天命を知っている

 
 自己実現の境地に辿り着いた人について、私は以下のようなことをリンク先で書いた。
 

自己実現の境地にたどり着く人は、その性格上、比較的人生のキャリアを重ねた人が多いように見受けられます。ただし、役職の高い人とは限りません。案外、事務のおばさんがそのような境地にたどり着いていて、周囲の人々を導いている……なんてこともあったりするのです。

 
 自己実現の境地に辿り着いている人というは、なにも、偉い人ばかりではない。つい、偉い人・業績をあげた人・有名になった人を想像したくなるかもしれないが、そういうものではない。
 
 もっと目立たない場所、小さなコミュニティのなかにも、自己実現の境地に辿り着いている人はいる。包容力のある立ち振る舞いで職場のムードメーカーになっているおじさんやおばさん、地道にコミュニティをメンテナンスしている年長者といった人々に、私は自己実現の境地を見出さずにはいられない。
 
 「街角の自己実現人間」は、承認欲求や所属欲求にガツガツしている素振りがまったくみられない。他人に褒められれば喜ぶし、自分の居場所やコミュニティを大切に思っているふしもみられるが、そういうものでは彼等の行動原理はほとんど説明できない。好奇心や知的探究心といったモチベーションでも彼らの行動原理を説明づけることは難しく、なにやら、確固とした行動指針のコンパスがあるようにもみえる。
 
 もう少し踏み込んだ物言いをするなら、“「街角の自己実現人間」は、己の天命をきき、それにしたがって生きているようにみえる。”たとえ、著名人のようなスケールのでかさや派手さは無いとしても。
 
 

「上を見上げるより周りを見ろ」

 
 自己実現・自己実現欲求という言葉には、いまだ、きらびやかな印象がこびりついているし、そのような言葉を口にする人々は上を見上げて歩いているようにみえる。
 
 でも、それはハイレベルな承認を求めているだけの話でしかなく、実際に自己実現の境地を目指すのなら、「街角の自己実現人間」のほうを向き、そういう人の生きざまを知っておくべきではないだろうか。
 
 つまり、己の天命をきいてそれにしたがっているような人々、確固とした行動指針のコンパスがあって、みだりに承認や所属の欲求に流されない人々を、間近の生活圏で探して、そういう人の生きざまを頭の隅に入れておくのも案外大切なことなんじゃないかと、私は思う。
 
 だからといって、上を向いて歩くべきではない、と言いたいわkではない。特に伸び盛りの年齢の人は、自己実現の境地なんて考えずに、承認欲求や所属欲求のおもむくまま、上を向いて歩いたって構わない。
 
 というより、そういう気持ちの時期は上を向いて歩いたほうが絶対にいい。
 
 だけど、上を向いて歩くこと、あるいはインターネットスラングでいう「何者かになること」と自己実現という語彙をイコールで結びつけるのは、ちょっとおかしいんじゃないか、とは申し上げておきたい。
 
 上昇志向の結実と、いつか辿り着くかもしれない自己実現の境地は、必ずしもイコールとは言えない。どれだけ偉くなってもちっとも自己実現の気配が感じられず、我執・妄執にみちた人間というのも実際にはごまんといる。他方で、それほど偉くなっていない「街角の自己実現人間」もちまたには存在している。
 
 我執・妄執を突き詰めるのもそれはそれで良いけれども、そのことを自己実現というワードで糊塗し、怪しげな正当化をするのはたぶん自分自身のためにもならないと思う。でもって、自己実現の境地について本当に知りたいのなら、「街角の自己実現人間」を探し出して、そういう人の背中から学ぶべきことのほうが多いのではないかと思う。「街角の自己実現人間」に、あなたは気づいていますか。