シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

一切が過ぎ去っていくインターネットに、念仏を

 
 三十代後半になったあたりから、ときどき「歳月!」と叫びたくなるようになった。
 
orangestar.hatenadiary.jp
delete-all.hatenablog.com
 
 昨日から今日にかけてインターネットの歳月について考えさせられる文章を立て続けに読んで、まさに私は「歳月!」と叫ばずにはいられなくなった。
 
 今をときめくバーチャルユーチューバー。リンク先でorangestarさんが書いているように、最近のインターネットの流行り廃りは早い。ニコニコ動画の生主が輝いていた時代も、もう遠い昔のことのように感じられる。そういえば、Ustreamもなくなってしまったのだった。
 
 そしてDelete_Allさんが書いているように、金銭欲に流されていったブロガー達の行方は知れない。一時期はそれなりに繁栄していた「金銭欲をモチベーション源とするブロガーたち」は、その頭領たちも含めて勢いを失ってしまった。
 
 もともと早かったインターネットの栄枯盛衰が、いよいよもって加速しているようにみえる。
 
 インターネットにへばりついて思春期を過ごしていた私のような人間は、そのインターネットの流行によって思春期をかたちづくり、折々の流行を魂に刻み込んできた。私の場合、『セカイ系コンテンツ』とか『テキストサイト』とか『はてなダイアリー』あたりがまさにそうで、それらは意識するまでもなく自分自身の魂に入り込んできて、私の歴史の幹になっていった。
 
 だが、そうやって既に歴史の幹をつくりあげてしまった私という存在にとって、2010年代後半のインターネットの栄枯盛衰は魂に刻まれることの少ない、通り過ぎていくものになってしまっている。その時々のコンテンツやオモシロ人間は勿論面白いとしても、それらは魂に刻まれることなく、たちまち飛び去ってしまう。
 
 ネットで流行のコンテンツをたまたまフォローできたとしても、あるいは人生を火の玉にして燃え尽きていく勇者が現れたとしても、以前のように、骨までしゃぶることはなくなってしまった。私の執着が薄れたから? そうではあるまい。流行りのコンテンツも、火の玉になって燃え尽きる勇者も、ひとときのものだとわかってしまったから。あっという間に消えてしまう可能性の高いものに、以前ほどの興味を感じなくなってしまったから。
 
 それでも元気の良い時期には、新しいものを楽しむことはできる。燃えゆくインターネットの勇者は美しいし、散りゆく花には格別の趣もある。
 
 けれども冬至が近づいている今の時期の私には、そうした新しさを楽しむ気持ちより、一切が過ぎ去っていくことへの寂寥感が勝ってしまう。こういう心境を、ほかの同世代のインターネット愛好家や、元愛好家の人達も経験しているのだろうか。それとも、私がdepressiveになっているだけなのか。
 
 

過ぎ去っていくネット=忘れられていくネット

 
 なにもかもあっという間に過ぎていくネットは、忘れられていくネットでもある。ひいては、自分自身がどんどん忘れていくネットとも言える。
 
 忘れること・忘れられることにはポジティブな側面もあり、それはインターネットにとって必要なことでもある。それでも、今、目の前で繰り広げられているインターネットの景色があらかた忘れられ、自分自身も忘れていくとしたら、その営みにどのような意味があるのだろうか。
 
 もちろん若い人には意味があろう。今まさに流行を魂に刻み込んでいる人達にとっては、かように流速の速いインターネットも空しくはあるまい。だが私はもう若くはないし、今、栄華のきわみにある人々もいずれ色褪せ、消えていくことを知ってしまっている。この厳粛な事実を前に、私は念仏をとなえたくなる。一切が過ぎ去っていくインターネットと、そこで渦を巻く人の業に対して、念仏に勝るものが果たしてあるのだろうか。愛好家のみなさんは、こういうニヒリスティックな気分をどのように取り扱い、対処しているのだろうか。