以下のリンク先記事は、現状分析としては間違っておらず、実際、仕事への要求水準は高くなっているのだろう。
人手不足なのに給料が上がらないのは、経営者の強欲のせいではなく、仕事に要求される能力が高くなったから。
ですから現在の状況を単純に言えば、
1.事務職の消滅とともに、「普通の人」が遂行できて、「それなりのお金がもらえる」職場は消滅してしまった。
2.今は「低賃金・肉体労働」の仕事に就くか、専門家として「知識労働」に従事するか、その2つしか選択肢がない
ということになります。
日本だけでなく、欧米諸国でも「普通の人」が働いて「それなりのお金がもらえる」職場は少なくなっている。低賃金の肉体労働や単純労働に従事するか、高度なスキルを必要とする知識労働にジャンプアップするか、そのどちらかを迫られがちな世相なのは、そのとおりなのだろう。
加えて、リンク先ではマーケティングセンスの重要性も指摘されている。
例えば今の時代は、人工知能や統計解析の専門家は稼げても、刀鍛冶や畳職人はそれほど稼げません。
要するに、専門家でありさえすればよいのではなく、「マーケットがある上での専門家」である必要があります。
高度なスキルを持っていてもマーケティングセンスがなければ稼げない。ここでは刀鍛冶や畳職人が「稼げない専門家」として挙げられているが、マーケティングセンスというのは、ある種、魔法のセンスであり、市場のニーズをくみ出せるなら刀鍛冶や畳職人でも「事業」を興せないことはないだろう。刀鍛冶や畳職人で想像しづらいなら、和菓子職人について考えればもっとわかりやすい。どれほど素晴らしい和菓子職人でもマーケティングセンスが無ければ零細のままだし、過疎化にまかせて廃業を余儀なくされるおそれもある。だが、マーケティングセンスと技芸を両方持っている和菓子職人であれば、支店を全国に持つような「事業者」になることも叶おう。
【「アタマが良くて商売センスのある少数以外は低収入待ったなし」】
なので、リンク先の文章を額面どおりに受け取るなら、現代社会において「稼げる」のは、アタマが良くて商売センスにも恵まれている人、ということになる。
だが果たして、世の中にそのような人がいったいどれぐらい存在するだろうか。
大半の人は、それほどまでに高度なスキルを身に付けられるわけではないし、マーケットを読めるわけでもない。
となると、この現状分析から導かれる帰結は「ごく少数のアタマが良くて商売センスのある人ばかり高収入になって、そうでない大多数は低収入に甘んじるしかない」というものである。
昨今の世帯年収の中央値を思い出すにつけても、ここでいう低収入とは、昭和時代末期の「中流意識の家庭」よりもずっと少ない水準を想定せざるを得ない。
もはや中流意識を持つことすら困難な、息子や娘を大学に送り出すことも困難な──それどころか、結婚や子育てを夢見ることすら許されないような──世帯収入に甘んじる人がどんどん増える未来が透けてみえる。実際問題、昭和時代まで中流意識を持っていた家庭の子女の少なくない割合が21世紀には"下流"へと流れ着き、"失われた20年"をたまたま生き残った者たちが、減りつつある"中流"の席を奪いあっている。
そして稀有な才能やコネクションに恵まれ、マーケティングにも通じているごく少数が、資本主義の果実のジュッとした部分を頬張っているのである。
21世紀の資本主義の状況として、橘玲さんが記すようなビジョンを否定することは難しい。
【そんな社会を認めて構わないんですか?】
現状がこうである、と分析するのはいい。
だが、その現状を是とするか非とするかは、また別の問題である。
日本は資本主義の国であるとともに民主主義の国でもある。
成人すべてに投票する権利が与えられ、デモクラティックに意思決定が進んでいく日本において、そんな、ごく少数の人間だけが資本主義の果実のいちばんおいしいところを持っていってしまう社会をしかと認識し、それをそのままにしておく道理はあるものだろうか。
アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとって、21世紀の資本主義の状況は天国も同然である。グローバリゼーションは、アタマが良くてマーケティングのわかる少数派にとってうってつけの状況を提供している。
だが、国民の大半はそんなにアタマは良くないし、マーケティング適性も持ち合わせていない。そして高騰する大学教育が象徴しているように、高度なスキルを次世代に授けるためのハードルも高くなりつつある。次世代に高度なスキルを易々と身に付けさせられるのは、すでに高度なスキルやマーケティングセンスを手中におさめた少数派の家庭だけだ。もし、政府なり財界なりが高度なスキルの人材が欲しいというのなら、低収入の家庭の子女が高度な教育を受けやすいようなパスウェイの整備に予算と情熱を傾けるべきだろうに、実際にはまったくそうなっていない。"下流"的な家庭からアタマが良くてマーケティングセンスにも恵まれた人材を輩出することは、昭和時代よりも困難になっている。
だったら革命しかない!
……というのは冗談としても、この民主主義の国において、ごく少数の人間だけが資本主義の果実を堪能し、大多数の人がそれを指をくわえてみているしかない状況は、かなりおかしい。少なくとも、中流的な生活が困難になる人がドシドシ増えざるを得ない状況を静観するばかりで、それが世間だと開き直る人々ばかりの社会状況を是とするのは奇妙なことのように私には思える。
これは、民意が反映されていない状況ではないだろうか。
もちろん、民意が反映されれば万事うまくいくというわけではない。アタマが良くてマーケティングのわかる人々の言うとおりにしたほうが、国民総生産が上昇しやすい、といったことはあるかもしれない。でもって、アタマが良くてマーケティングのわかる人々はプレゼン能力にも優れているから、「自分たちの言うことをきかないと結果として国全体が貧しくなって、あなた達はもっと貧しくなるんですよ」的なことを滔々と語ってみせるだろう。今、流行のエビデンスというボキャブラリーを交えながら。
だが、国全体が貧しくなるかどうかなんて、大多数の人は興味の無いことである。ましてや、「事業」をやってのけられる人々の都合を気に掛ける必要性なんてどこにもない。大多数の人が気に掛けるのは、自分や近しい人が豊かと感じられているかどうか、そして「自分が決してなりようのない連中」との差異、あとは「連中」が自分たちのことを大切にしているか馬鹿にしているか、である。
EU離脱したイギリスやトランプ大統領が当選したアメリカで起こったことの一側面は、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い政治状況や社会状況に対する「そんな社会は要らない」というメッセージではなかったか。
英米の有権者の選択が、最終的にそれらの国の大多数への福音になるのかは、私にはわからない。しかし民主主義を良いものとみなす限りにおいて、有権者にはそのような選択をする権利があり、それらの選択はやはり尊い。そして日本国民だって本当はそうしたって構わないはずなのだ。
私はいちおう医者だから、アタマが良くてマーケティングのわかる人々にとって都合の良い社会でもなんとか生きていけるだろう。むしろ、この筋のブルジョワ社会化がますます徹底してくれたほうが、私のような立場は社会適応しやすくなるはずである。
だが、そのような社会が大多数にとって望ましいものだとは思えない。資本主義の果実がもっと広い裾野に広がって、中産階級的な人々が増えることを多くの人が期待しているなら、そのために声をあげても構わないのが民主主義ではなかったか。
21世紀の資本主義の現状を醒めた目で分析した後、私達はどう考え、どう立ち回るべきなのか。
アタマが良くてマーケティングのわかる人々だけがおいしい果実をむさぼり、そうでない大多数が貧困に甘んじることの是非について、少なくとも英米の大多数と同じぐらいには日本の大多数も声をあげていいのではないだろうか。ごく少数の人間だけが稼げて、そうでない大多数が低収入に甘んじるしかない社会に、「そんな社会は要らない」というメッセージを出していっていいのではないだろうか。
たとえそれが、英米で起こったこと同様に、相応の副作用を伴うものだとしても。
現状を現状として分析するのは分析家の仕事だ。
だが、現状を分析した後、その現状の是非について考えるのは、政治家の仕事であり、ひいては、有権者である私達の責務である。だから一有権者としての私は、アタマが良くてマーケットがわかる人しか稼げない社会に対して、「そんな社会は要らない」と声をあげておきたい。少なくとも、稼げない大多数が世代再生産もままならない状況へと追いやられる前提のもと、ごく一部のアタマが良くてマーケットのわかる人々が大多数の成り行きを黙って見ているばかりの社会には、それっておかしいんじゃないかと考える一人でいたいと思う。