シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

命を管理する社会の行きつく先として『PLAN75』を見た

 
疲れ切った身体でブログを書こうとしている。約17年前、ブログを書き始めた頃には何時間でもキーボードを打てたが、当時の私はもういない。午後9時には休みたいと主張するこの身体には老の影が忍び寄っている。しかし70代80代ともなればこんなものではないはずだ。それでも生きている高齢者は実はとてもすごいと思う。現在の私より疲れやすい身体と神経で生きているのもすごいし、現在の私より疲れにくい身体と神経で生きているのもすごい。長く生き、老いても生きることの途方も無さ。そうしたことを思っている折、映画『PLAN75』がアマゾンプライムに来ているのを発見して見てしまった──。
 
 
 

PLAN75

PLAN75

  • 倍賞千恵子
Amazon
 
『PLAN75』は、75歳を迎えた高齢者が自分で生死を決定できる制度が国会で可決された近未来? を描いた作品だ。作品世界では"プラン75"という高齢者が自主的に安楽死を選べる制度を巡って、いくつかの物語が展開される。ドキュメンタリーっぽいというべきか、上品な作品というべきか、登場人物たちが露骨な感情を示したり、劇的な展開が待っていたりはしない。くっきりとした結末が示されることも、ゴリゴリと主義主張が押し付けられることもない。題材から言って当然かもだが、エンタメとしてこの作品を観ようとしても大きな成果は得られないだろう。
 
また、SFというわけでもない。日本で高齢者の安楽死が制度化されるとしたら今から10年以上先、そうですね、就職氷河期世代に自主的安楽死を勧める20年ほど先ではないかと私なら推測する。その間に技術がそれなり進むはずで、それは自動運転車のかたちをとったりIoT化した高齢者介護のかたちをとったりしていそうである。また、その頃の日本には外国人就労者や移民はめっきり減っているかもしれない。このような制度ができあがり、運用され続けているほどの未来なら、高齢者に対する若年世代の態度も、道徳も、死生観も、現代のソレとは必ずズレているはずで、現代の視聴者がドン引きするようなことや、非常識と思うような考えが定着しているはずである。たとえば現代社会に比べて、人はもっと長生きしようとあくせくしてなくて、今日では長寿の邪魔になるとして忌避されがちな諸々をもっと楽しんでいそうなものである。死というものに対する感性だって変わっているのではないか? そうしたわけで、『PLAN75』をSFとして視聴するのもたぶんあまり面白くない。
 
では、どう見れば面白いのか。逆にこれは、現代社会の価値観のもとで高齢者安楽死が起こったらというifを覗き見る作品で、その覗き見をとおして現代社会を振り返り、私たちの心のなかに根を広げようとしている『PLAN75』的な着想をかえりみる、そういう作品じゃないかと思った。
 
あるいは、生き届いた医療と福祉の制度がほんのちょっとだけ発展したら、案外、人の死はこのように変わっていくかもしれませんよと心配しておくのに良い作品なのかもしれない。
 
『PLAN75』の世界では、高齢者は不安や失業の心配を抱え、生にしがみついているという肩身の狭さを感じながら生きているよう描かれている。さしあたり働ける高齢者・自立した高齢者はなおも生き続けられるのだろう。けれども高齢者の健診の会場には"プラン75"ののぼり旗が並び、待合室では"プラン75"を勧める映像が流され続けている。高齢者のなかには制度に反抗する者もいるが、反抗は個別の小さな怒りの発露に過ぎず、デモやストライキや暴動を起こすようなものではない。現代の日本人と同じく、おそらくデモやストライキや暴動は本作品の世界の高齢者たちは起こしようがなくなっているのだろう。登場人物のなかには自殺する高齢者の姿もあった。"プラン75"によらない自殺である以上、本作品世界でも自殺は制度からの逸脱なのだろう。が、死にゆく人にとってそれはどれぐらい重要なことなのか。
 
"プラン75"は高齢者の自主性に基づいた安楽死制度ということになっているし、その説明をする職員たちは丁寧で、手続きも正当なものとして描かれている。しかし制度が正当なものとはいえ、その制度が高齢者に自死を勧めているようにみえるし、この世界の高齢者たちはどうにも肩身の狭い思いをしている。"プラン75"関連の仕事をしている役人たちの真横では、人が横たわれないよう、ベンチを改造している様子も映されていた。『PLAN75』の世界(と私たちの社会)において環境管理型権力や(ミシェル・フーコーでいう)生権力が働いているさまの直喩だと思いたくなる。"プラン75"が高齢者の自由意志を尊重しているとはいっても、高齢者たちの自由意志はアーキテクチャや制度によって囲い込まれていて、それらの強い影響下に晒され、マイルドで優しげではあってもコントロールの対象になっていると私は連想した。と同時に、そのマイルドで優しげなコントロールは独裁者の強権によるのでない。民意を反映した、ボトムアップな出自を持ったコントロールなのだろう。ここにはわかりやすい悪役の独裁者はいない。
 
しいて悪役っぽいかもと思えたのは、"プラン75"を進めている役場の、課長か部長とおぼしき人だ。この人自身、高齢者なのに高齢者に安楽死をすすめる制度を仕切っているさまは、高齢者に自主的な安楽死をすすめる制度ができあがるとしたら、それらを仕切るのも高齢者だろうということを私に連想させた。が、この人はこの人で制度の蚊帳の内側の小市民的役人に過ぎない。もちろん、この小市民的役人をも凡庸な悪と言ってしまうことは可能だ。
 
高齢者に"プラン75"を提供する若者たちも、到底、これを悪役ということはできない。少なくとも本作品において、若い世代が悪役然として描かれている感じはしない。準主人公のようにみえる若い男性やコールセンターの女性も、"プラン75"に直面した時には大きく動揺していた。自主的な死とはいえ、人をその方向に導くこと・付き合うことは簡単ではない。もちろん、自主的な死がスプレッドシート上の数字でしかないなら人間はいくらでも酷薄になれるだろう。しかし自主的な死に向かっていく高齢者と知り合い、知り合ったうえでプラン75のような安楽死制度に付き添っていくならそうはいかない。コールセンターの女性のやっていることは重労働だった。感情労働というべきか、良心労働というべきか。あのような仕事を長く続けるとしたら、心を堅く閉ざすか、心を鬼にするか、どうあれ素のままではいられない。
 
制度によって正当化されているといっても、人を死へと導くのはとても苦しく、容易なことではないと本作品は示している。実際、そうなのだろうとも思う。しかし制度ができあがる時にはできあがるものだし、その制度も含め、社会というのは顕名の悪役不在で変わっていくことも多い。現場も変わっていく。そして変わっていく社会や現場の前では、個別の人間のひとつひとつの思いはいつも木端微塵だ。
 
 

十分ありえる社会だし、正しく現代社会の向こう側ではないか

 
人間世界では、自ら死ぬことを自殺と呼び、これを忌避してきた。人間は、もともと自ら死ねるようにはできていないし、産卵後の鮭のように特定の年齢で速やかに死んでいくようにもできていない。人間が生きたいと願い生きようとしてきた従来のありようは生物としては自然だったし、人間を取り巻く環境はよくも悪くも人間を中途で殺してきた。
 
私たちは忘れてしまっている──生きるとは、いつでもどこでも死の可能性と背中合わせだったはずだ。今日では出産のリスクが突出して大きくみえるが、かつては子ども時代だってリスクだったし、青年時代だってリスクだったし、職場で働くのも、盛り場で飲むのもリスクだった。そういった大抵のリスクが管理の対象となった結果、出産のリスクが飛びぬけて大きくみえるようになったに過ぎない。長寿は、祝われるに値するほどめでたい出来事だった。人は、長寿がめでたいぐらいにはよく死ぬ存在で、死と隣り合わせに生きていたはずだった。
 
ところが、そうしたリスクの大半が管理の対象となり、命が長くなった結果として人は自動的に長寿にたどり着くようになった。なかには長寿に辿りつかない人もいるが、そのような人は異常だとか、早死にだとか、不幸だとかみなされるようになっている。これは人類史のなかは特異な現象だが、ともかく、命を管理してやまない現代社会とその制度や行政機構が、その命の管理の行きつく先として死=命のゴールにまで管理の手を伸ばしてくるという未来予想は、私にはとても想像しやすい。その道徳的な是非はさておいて、命を管理する、命をより良くあるようにサポートしようとするシステムが、どうしてその命のピリオドだけをほったらかしにしておくものだろうか? もちろん2023年を生きている私には、命のピリオドを社会や制度や行政機構が管理するのはいかがなものか、と思えてならない。だが、命を管理し、命をより良くあるようサポートしてきた機構の向かう先が命のピリオドであることは、自然な帰結であるようにうつる。
 
少なくとも命のスタートを管理するぐらいの社会や制度や行政機構なら、命のピリオドを管理しても不思議ではないはずである。今、そうした事態を防いでいるのは既存の道徳や倫理なのかもしれない。だが道徳や倫理とは川底の砂のように流れていくものである。川底の砂が、一分一秒では何も変わっていないようにみえても、長い目でみれば砂が流れ、川底の地形も変わっていくのと同じく、道徳や倫理は変わっていくものだ。そうこうするうちに私たちの社会だって"プラン75"を忌避しない、というより"プラン75"こそが道徳的で倫理的であるとみなす社会に変質している可能性もあるやもしれない。
 
こうした、社会や制度や行政機構が(あるいは民意が)命の管理を推し進めた結果としてついに命のピリオドにまで管理の手を伸ばしていく未来を想像するには、『PLAN75』は良い作品だと思う。是非視聴してみて、自分ならどんな事を感じ、どう考えるのか試してみて欲しい。そういう視聴態度で向き合う場合、本作品の押しつけがましくなく控えめな作風は好都合だ。きっとこの作品を作った人たちは、本作品をとおして何かを主張する以上に、本作品をとおして視聴者が考えたり感じたりする便宜をはかってくれているのだろう、と私は思うことにした。長生きが難しくて必死に生きなければならなかった生物から、自動的に長生きする生物に変わった私たちの未来について、いろいろ考えさせてくれる作品だと思う。興味を抱いた人は是非視聴を。
 
※ところで、現実に比べて本作品には明確にやさしいところがある。これからも膨らみ続ける社会保障費といったカネの問題、やがて1000万人を突破しようとしている認知症老人の将来推計の問題といった灰色の数字は、この作品ではそこまでクローズアップされていない。もし、灰色の数字を前面に打ち立てていたとしたら、本作品は2023年の私たちには耐えられない作風になってしまっていたかもしれない。