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(はてなブックマークでの反応:[B! 漫画] 週スピ&月!スピ読切・【読切】東京最低最悪最高!/鳥トマト)
月曜の朝に、この『東京最低最悪最高!』が目に飛び込んできた。現実を忠実に模写した漫画ではあるまい。ただ、読者がぶら下がれそうなフックはたくさん目につく。東京と地方。束縛的な親とそれに束縛される子ども。結婚して問題が解決された女性。そうしたフックに大量のネットユーザーが引っかかり、読みたいように読む恰好となっている。
そこから逆に考えるに、この作品は、作中で与えられた情報から何を思い、何を考えたって構いやしないのかもしれない。だから私も自分が読みたいようにこの作品を読むことにした。
この主人公の女性、なんだか強いよねって物語として。
エクソダスを決めた主人公の卓越
主人公は、地方の保守的な価値観の家に生まれた「ずべずべびったん」な女性だ。作中では福岡らしきことになっているが、こんな家庭は地方に行けば(いや、本当は結構な大都市にだって)いくらでも残っているので、まあどこでもいいだろう。地方の保守的な家庭では、公務員や医師や看護師といった職業だけがマトモな職業で、デザイナーは職業のうちに入らないとされる。それは地方の雇用情勢の忠実な反映でもあり、世間体の問題でもあり、視野の狭さの問題でもあるかもしれない。
それでも主人公は多摩美術大学を志望校とし、上京を志す。地方の学生、特に女性が、親の反対を受けながら上京するのは非常に難しいことだ。つべこべ言いながらも、この作品の両親は主人公の上京にお金を出したのだろうし、それか、この主人公が両親にお金を出させたのだろう。作中では端折られているが、まず、ここがとても強い。
地方でメンタルヘルスの問題をみていると、親にこうしてお金を出させることができなかった若者をしばしば見かける。家庭という密室のなかで親に反抗できるだろうか? 反抗できないことはない。しかしその場合、同性の(親以外の)ロールモデルや強い仲間が必要で、もちろん本作品の母親は主人公のロールモデルではなく、乗り越えるべき対象だ。これも作中に描かれていないが、本当なら、主人公には人生の模倣先になるような出会いがあったか、上京を一緒に目指せるような強い仲間がいたか、とにかく、単独で上京を志したとはあまり思えない。
大学に合格し、デザイナーになりおおせたのも大したものだと思う。地方在住で美術大学に合格し、フリーの仕事ができるようになったのは才能あってのことだろうし、上京する前から才能は磨かれていなければならなかったはずだ。少なくない人が「結婚」という彼女のソリューションを嫉視するかもしれないが、嫉視すべきはそこだけじゃない。デザイナーとしての才能とその研磨、そしておそらくフリーの仕事ができるほどの対人コミュニケーション能力やそつのなさも羨むに値するものだろう。
ここは、福岡という地方というには大きすぎる設定が私にはしっくり来る。たとえば日本海側の人口数万人都市に生まれて同じことができるかって言ったら、たぶんできない。できたとしたら才能が服を着て歩いているような人物だろう。もちろん福岡だから簡単だとも、言うつもりもない。親に忌避される才能をここまで育てあげたのは大変なものだし、たぶん、この才能の育成という点でも(作中にはまったく示されていないが)主人公には大なり小なりの味方が存在していたと想像する。
さっきから私は、味方や仲間やロールモデルについてやたら書いている。なぜなら、親の価値観や重力圏の外に出るうえで、親以外のロールモデルや仲間が重要だからだ。親の旧態依然とした価値観や労働観を嫌悪しながら、結局、親の重力圏から逃れることなく生き続けるしかない人たちのブルースが私には今も聞こえる。昭和時代に比べれば親の価値観が軟化していることが多い反面、そのぶん経済事情は悪化しているからフィフティフィフティといったところだ。そうした若者でも親の重力圏の外に出る方法はあり、たとえば親に反抗しながら地元の同世代とつるみ続ける人などは、親の価値観と距離を取りながら人生を歩みやすい。ところが孤軍奮闘では親の重力圏の外に出るのは非常に難しくなる。だからコミュニケーションの苦手な若者、強い味方に出会えない若者は不利だ。そして家庭環境が難しい家に生まれる子は、えてしてコミュニケーションが苦手だったり強力な味方に出会いにくかったりしがちだ。
異性との巡り合い、という点でもそうかもしれない。
この漫画の「結婚相手」は中途まではのっぺらぼうだが、主人公の嘘を見抜いたさまが明らかになってからは顔が描かれるようになる。この結婚相手が、なかなかの人物だった。主人公が結婚を決めた動機や結婚観はロマンチックラブからほど遠く、サバサバしたものだとしても、実際になれそめた相手は彼女の呪われし結婚観から家庭観から遠い男性だった。自由恋愛のもとでのパートナー選びは、自由であるがゆえに、自分自身に宿る病理性やコンプレックスからは最も不自由なので、人は、えてして自分自身の病理性やコンプレックスどおりのパートナーを掴んでしまう。たとえば両親の間にDVが絶えなかった家庭で生まれ育った子どもは、しばしば異性の親にどこか似たパートナーを掴んでしまい、家庭の病理がパートナーシップに継承される……というのがありがちパターンだ。
はてなブックマークには、この「結婚相手」のことを「理解ある彼くん」みたいにコメントしている人も多かったが、事態はそう単純ではないと思う。女性が「理解ある彼くん」に巡り合う場合も、男性が「だめんずな女性」に巡り合う場合も、そこには選んだ側、巡り合った側の病理性が現れ出てしまうものである。「理解ある彼くん」は、女性の病理性が具現化したものとまずは疑うべきで、「だめんず」も、男性の病理性が具現化したものとまずは疑うべきだろう。でもって、多くの場合、男女の病理性は大同小異で、共依存の重力系ができあがる。
ところが、この主人公は悪性の「理解ある彼くん」を掴んでいない。ここにも、この主人公の上手さ、非凡さを想定しておくべきだろう。
文中にもあるように、主人公は「結婚相手」が浮気や不倫をする可能性はあるとまだ考えている。他方、空港から帰るシーンは将来の不安を煽るより払拭するような描き方で、主人公に「この人とはずっと一緒にいられそうだ」と言わせている。だからきっと大丈夫なのだろう。
これらを全部を振り返ると、この作品の主人公はすごく強い人物として描かれていて、なんというか、地方にありがちな抑圧に潰されずに見事に開花した一輪のひまわり、といった印象を禁じ得ない。そしてこの一輪のひまわりの足元には、上京することも、自分のしたい仕事に就くこともかなわなかった無数の人々が存在している。そのレアリティ加減は、嫉視もあいまって非現実だというそしりにも繋がるかもしれない。そして現在のインターネットの情勢では、「女性には結婚という解決法があって良かったですね」というコメントをも招くのだろう。
私は、この作品を読んでなにより「この主人公はたくましくて賢くて、ともあれ、なんとかなりそうで良かったですね」という感想を持った。親の価値観に縛られることなく生きるとは、今日でも、簡単のようで簡単ではない。家父長制が圧倒的に強かった時代も、核家族が密室化している現在も、どちらにもどちらなりの難しさがある。そして私の見知った範囲では……女性のほうが親の重力圏の外に出るロケットを手に入れにくい何か(ジェンダー的なもの? それとも生物学的な?)が存在する予感がある。引っ越しの段ボールの積まれた新居で歌う主人公の姿を、私は素直にハッピーエンドとして受け取った。この作品は読者が読みたいように読んで構わない作品にみえるから、そう受け取ったっていけないわけではないだろう。看護師になった妹が腐っていたりしたらそうとも受け取れないのだけど、幸い、この作品はそうではないのだし。娑婆世界のうちに、こういうハッピーエンドもあったっていいじゃないか、と私は思う。