これから書く話は社会全体についての話、広く薄い総論っぽいやつです。特定の個人・立場を名指しした話(各論)ではありませんので、ご容赦ください。
わりと最近まで、「父性の喪失」とか「母性のディストピア」とか、父親と母親は一体どうなっているんだ、的な話が語られてきました。「成熟のなくなった社会」という言葉も、もう使われ始めてから数十年が経ってます。
昭和時代の父親や母親にあったであろう親のイメージやロールモデルが失われ、地域社会が希薄になって子育てを抱える機能を失ったという意味では、「父性や母性は失われた」のでしょう。昭和時代の視点からみたところの父性的・母性的な諸々が失われたのは事実です。
昭和世代が、彼ら自身の尺度に基づいて父性や母性や成熟を語る限りにおいて、彼らの物言いが間違っているとは私は思いません。
けれども「昭和は昭和、今は今」でもあります。
過去の世代からどのように評価されようが、今、私達は世代再生産の担い手となり、ひとりひとりが社会の担い手として確かに生きています。この場合、子どもを育てているか否かはたいした問題ではありません。社会の構成員の一人として存在している限りにおいて、なんらかのかたちでこの社会を担って生きているのです。そして、私達が今を生きている姿が、後発世代のロールモデルとなっていきます。
もちろん、ここでいうロールモデルとは「模倣の対象」とは限りません。現在の学生さん達は、年上の人々の生きざまを眺めて、ある部分はコピーしようとするでしょうけど、別の部分では反発・否定もするでしょう。でも、ロールモデルって本来そういうものでしょう? 完全なる模倣しか許さない、“あそび”の少ないロールモデルなんて、どんなにご立派な内容でもロクなものじゃないし、年長者たるもの、そうやって年少者が取捨選択するのを許容する態度が伴っていていいんじゃないかと思います。
私達が、ロールモデルになる番になったんですよ。
私達はみな、平成時代の、これからのロールモデルとして否応なく年少世代からまなざされているのです。若者というものが、年長世代を眺めて模倣や反抗や否定を行う立場なのに対して、もう若者ではない私達は、年上世代を眺めると同時に、年下世代からは眺められる立場にあります。望ましいお手本となるのか、反面教師として忌避されるのかはともかく、もう、一方的に年上世代を寸評していればOKな立場ではなくなったのが、おじさん・おばさんの社会的ポジションではないでしょうか。
念押ししておきますが、これは、子育てをしている父親や母親だけの話ではありません。上司と部下の狭間で働いている独身の人も、いや、働いていない人も、皆、なんらかの参照項として年下世代からは眺められるという意味ではロールモデルなのです。「ああいう年長者になりたい」も「ああいう年長者にはなりたくない」も、角度は違っても、参照項という意味では同じ。
「ロールモデルになんてなりたくない」という声もあるでしょう。もちろん、画一的な「正しいロールモデル」を全てのおじさん・おばさんに押しつけ、期待するのは今という時代には合っていません。多様なロールモデル、多様な参照項があって然るべきです。しかし、だからといって、年を取った私達が年少者の参照項にならずに済ませられるかと言ったら、それもまた不可能なことです。
だったら、どのような星回りであれ、良かれと思う生き方を、その人の星回りのなかで精一杯に果たしていくしかないんじゃないか、と私は思います。
「私は、あまり良い人生を生きていない」「私は社会のためになっていない」と思うような生きざまが、別の誰かには「すがりたくなるようなロールモデル」とみなされることは往々にしてあり得ます。それで助かっている人、それが貴重な模倣の対象になっている人も、どこかに必ずいるのです。社会も人も多様だから、そういう可能性はいくらでもあります。だから、人生の先輩として生きているほとんど全ての立場・生きざまは、ロールモデルとしての存在価値と意味を含んでいる、と私は思います。人生を重荷と感じながら、それでも生きている人達の生きざまにしても同じ。きっと後発世代はそこから何かを学び、必要なら、模倣することだってあるでしょう。
冒頭で申し上げたように、これは、ものすごく総論的で抽象的な、原則論的なお話です。「何も言っていないに等しい」とおっしゃる人もいるでしょう。そうかもしれません。でも、人間社会ってのはこうやって年上から年下へと、色んなものが受け継がれて今に至っているのは確かなのです。ロールモデルになりたいか、なりたくないか、そういった意志の話ではありません。