シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

コピーのはびこるインターネットで、個人ブログにできること

 
DeNAがヘルスケア絡みのキュレーションメディア商売で大炎上(山本一郎) - 個人 - Yahoo!ニュース

WELQの面接で落とされ、その後WELQが炎上して、思うところ

グーグルの世界では「コンテンツイズキング」ではなく「コンテンツイズプア」である - P系リンク乞食スペシャル

切込隊長の凋落は「個人メディア」だったネットの終りを象徴している
 
 先月末から今月にかけて、インターネット上に無断コピーが出回る話とか、インターネットではコンテンツがプアだとか、関連のありそうな話題が立て続けに出回って、四番目の記事のような「個人メディアとしてのネットの終焉」って意見も出てきて、興味深く眺めていた。
 
 何か書きたいけれどもブログ記事として綺麗にまとめられそうになかったので敬遠していたが、それでも書きたくなったので、まとめるのを放棄してとりとめなく書き連ねてみる。
 
 

秒速でコピーされる環境が最高な人もいる

 
 上掲の、『グーグルの世界では「コンテンツイズキング」ではなく「コンテンツイズプア」である』という記事は特に興味深かった。この記事どおりに考えるなら、なるほど、小手先でいじったコピー記事がインターネットに氾濫するのはよくわかる。
 
 DeNAの炎上案件をはじめ、現時点ではこうしたコピー・剽窃にバッシングが集中しているけれども、こうしたバッシングが「コンテンツイズプア」なインターネットの状況を土台からひっくり返すとは私はあんまり思っていない。結局のところ、グーグルが何を考え、どのように検索結果を並べたがるかにかかっているだろう。
 
 もちろんグーグルとて、自社の検索エンジンには良い性能でいてもらいたいと望み、努めているはずだ。だとしたら、SEO対策しまくった劣化コピーが目立ちやすい現況をいずれは改善させていくだろう。
 
 そういう近未来のことはさておき、当面は、人目を惹きやすいコンテンツがコピーや剽窃の対象になるフェーズが続くと想定すると、この状況を、個人のブロガーなり配信者なりはどう生かせばよいのか……が私としては気になる。
 
 この状況下で、署名入りの記事やコンテンツを発信し、それでもって自分自身にお金がキチンと入ってくる構図をつくるのはなかなか難しかろう。時間をかけて人目を惹くものを作っても、それが秒速でコピー&拡散&希釈されてしまうとしたら、純-生産者*1よりも模倣者のほうが少ない時間で大きな利益を獲得できる。文章のような媒体は特にそうだろう。
 
 でも、この状況は「署名入りの記事やコンテンツを配信し、それでもって自分自身にお金がキチンと入ってくるような構図をつくる」という一点に拘らないなら、そう悪くはないんじゃないか。
 
 人目を惹くもの・PVが得られそうなものをアップロードできる限りにおいて、秒速でコピーされる世界とは、自分のオピニオン、情念、ポリシーといったものを爆発的に拡散させる可能性を秘めているようにもみえる。
 
 なにせ自分自身が頑張って宣伝するまでもなく、模倣者の群れが勝手に増幅器の役割を果たしてくれるのだ。これは、署名や金銭収入ということに拘らなければ、そしてコピーの質がどれぐらい変化するかを問題にしなくて構わないなら、大きなチャンスだ。個人の発信力ではあり得ないほどの拡散力、あるいは伝染力を発揮できるチャンスがある。
 
 google検索をはじめとする現在のインターネット環境、そして「コピーすればコピー屋が得をする」環境は、まっとうなコンテンツを配信してまっとうに儲けたい人には直接利益が少ない。けれども、コピーの質を問わず、とにかくオピニオンや情念やポリシーをメディア空間に木霊させたいと思っている人には、現在のインターネットは巨大なアンプ装置みたいなものだ。
 
 たぶんだけど、世論のうねり、いや世論の脊髄反射みたいなものを望んでいる人達のなかには、もう、そういう未曽有のチャンスを知悉していて、今日のネット環境を巨大なアンプ装置として使っている人がいるんじゃないのかなぁ、と私は思う。今年はいろいろな政治的/商業的拡散が国内外で起こったけれども、それらもまた、現在のインターネットが巨大なアンプ装置として働いていて、良い意味でも悪い意味でもコピーが幅を利かせた結果ではないか、という風に思ってしまう。
 
 「頼んでもいないのにコピーが大量生産される」環境は、“正当な著作権稼業”というゲームのプレイヤーには最悪だが、“とにかく拡散すれば勝ち”というゲームのプレイヤーには最高だ。コピーする側だけが勝利者とは限らない。
 
 しかし、こんな賭場みたいなインターネットがいつまでも放置されているとは考えにくいので、幾星霜か経った後、「あの頃のインターネットってヤバかったよね、狂気の沙汰だったよね」と回想されるのだろう。というか、そうなって欲しい。
 
 

各方面の専門家が優秀なコンテンツを出すようになったら

 
 それと、「インターネットに各方面の専門家が優秀なコンテンツを出すようになったら個人メディアは終わり」的な話について。
 
 これはもうちょっと整理しやすい。
 
 旧来のインターネットと呼べるものは、そもそも、各方面の専門家がコンテンツを配信するような方向性とは180度正反対の、インフォーマルな、アングラなコンテンツだった。
 
 確かにインターネットには各方面の専門家が優秀なコンテンツを出すようになってきているのだろう、そして、それがアマチュアの適当なコンテンツのニッチを塗り替えるというのも理解できる話だ。フォーマルなコンテンツに置き換えられるべきものは、専門家やプロによって置き換えられるに違いないし、それはインターネットというメディアが成熟した証でもある。
 
 だが、専門家の優秀なコンテンツに塗り替えられるアマチュアのコンテンツとは、フォーマルなコンテンツの代替品のたぐいであり、逆に言うと、専門家がネクタイを締めてスーツを着て解説するようなコンテンツとは、どのみち(各界の)フォーマルな領域、権益のかかった領域に限られる。
 
 旧来のインターネットと呼べるもののなかには、フォーマルなコンテンツに置き換えられようのないコンテンツがたくさん含まれていたし、今も含まれている。意味が少し損なわれるのを承知で、あえてわかりやすい言い換えを試みるなら「専門家は、専門家としてのカネと権益の介在しないコンテンツには手を伸ばさない」。まともな専門家ほど、そうだろう。
 
 もちろん、エンタメの専門家などが「草の根の面白コンテンツ」などと称してヒットを狙うこともときにはあるだろう――草の根というには出来過ぎたコンテンツを盛大な仕掛けによってバズらせる、なんてのは大いにあり得る――。だが、たとえそうだとしても、専門家が手を突っ込むのは採算性や権益性が期待できる領域に限られるわけだから、素人くさいもの・採算性や権益性を度外視して素朴にアップロードし続けてきた個人メディアほど専門家とニッチが被らない。
 
 もし問題があるとしたら、ネットメディア上の可処分時間をプロのコンテンツと競合するという点だが、素朴な素人コンテンツを楽しんでいる人は出来過ぎたプロっぽいコンテンツとは別個にこれを楽しんでいるか、コンテンツというより人間を楽しんでいるので、需要は残ると思われる。だから、個人的なものを素人としてアップロードしているブロガーなどには、このへんはあまり関係のない話だろう。
 
 

インターネットの大河のなかで、個人的なものでありたい

 
 いずれにせよ、現況は、ブロガーをはじめとする個人メディアの人がコンテンツ制作をとおして営利をあげるには不利なものだと思う。営利をあげるならコピーを優先させるべきだろうし、専門家と刃を交えなければならない領域で火遊びをしている人達は、大きなリスクを覚悟しなければならないだろう。
 
 ただし、これらは「自分の署名が入ったコンテンツで営利を獲得する」という命題に則って考えれば……の話なのであって、そこを度外視してインターネットで活動している人達にはそれほど厳しい状況とは言えない。個人的なものを素朴にアップロードして楽しんでいる人、目立つ必要も儲ける必要もない人には、あまり状況は変わらないのではないか。
 
 それと。
 
 私には、インターネットメディアがものすごく大きなミームの河にみえることがあって、この視点で眺めると、その大河のなかで、独創性とか、個人の営利とか、そういったものを個々人が争っている姿がプランクトン同士がいがみあっているように感じられる。利益をあげようとする大企業は、さしづめ魚といったところか。
 
 そういう、個々人という単位で考えるなら、Aさんが書いたのにBさんがパクった、Cさんが獲得するべき人気をDさんがコピーして奪い取った、というのはきわめて重要になってくるし、現代社会の枠組みに則って粛々と対処すべきだろう。
 
 でも、インターネットメディアを流れる言葉の群れ、世論、流行り廃りとは、いつも個人によって興るというより、複数の人達のコピーともインスパイアともつかない連なりによって興っているようにも思える。あるいは時代精神とかテクノロジー的な背景こそが重要で、誰かがコンテンツにしたから大河の流れが変わったのでなく、大河の流れが曲がっているところで、たまたま「これからワシが大河を捻じ曲げてみせようぞ」と叫んだ予言者が得をする……という風にもみえる。
 
 そうしたなか、一人の個人、一つの団体が、インターネットから営利を得たり、「大河を捻じ曲げてみせた」栄誉をいただいたりするのは、個人主義的には正当でも、そこにコミットしたすべての人からみれば不当なことのようにもみえて、そのあたりに執着するのはあたかも曼荼羅の真ん中に自分自身のドヤ顔写真を貼り付けるような、不遜な態度に思える瞬間もあったりする。
 
 なんだか俗世を離れた話にズレてきたけれども、いや、それだけ私も、インターネットを世俗の法に照らして考える時間が増えてきたってことなのかもしれない。カネ。利権。栄誉。でも、そういったものにとらわれずにインターネットを呼吸する場所と方法が無くなったわけではないはずだ。
 

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はてなブログのpolicy より引用

 
 そうとも。引用のような精神のインターネットは、まだ死んじゃいないし、これからも簡単には死なないだろう。死ぬべきではないし、滅ぼしてはいけない。
 
 こういった、あくまで個人的なブログのたぐいもまた、大河を構成する要素のひとつひとつなのだ。大河のうねりのなか、カネや利権や栄誉は集まるところに集まるだろうけれども、焦点だけが大河を形づくっているわけでもコントロールしているわけでもない。だからまあ、コピーだ営利だといった領域に過敏になることなく、個人的なもの・自分的なものを好きなようにこれからも楽しんでいきたいし、そのようなブロガーや配信者を、個人的なもの・一人の人間的なものとして私は楽しんでいきたいと思う。
 
 当初の予想どおり、まとまりの悪いものができあがったが、疲れたのでこのままアップロード。
 

*1:なにをもって純-生産者と称するかは本当は込み入った問題だが、ここでは、そのあたりについて深堀りしない。