シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「面白さ」の国境線

 
 最近、「インターネットで面白いコンテンツとは何か?」についてずっと考えていた。
 
 この問いに「私にとって」という接頭語をつけるなら、もう答えは出ている。四十年を生き、二十年もインターネットをやっていれば、自分の好きなもの・自分が面白いと思うものなんて大体わかる。
 
 けれども「私にとって」面白いインターネットのコンテンツが、他の人にも面白いとは限らない。逆もまた然りで、たくさんの人が面白がっているコンテンツが私にはちっとも面白くなかったり、興醒めだったりすることも多い。
 
 だから、「インターネットで面白いコンテンツ」にはかなりの個人差があって、もっと言うと「面白さ」の国境線みたいなものがあるのだと思う。
 
 さっき、これを言語化してくれたブログを発見したので引用する。
  
tio-jobtzp.hatenablog.com
 

プロブロガーのブログ記事は、正直言って僕のような考え方の人間が読んでも面白くはないです。そして、プロブロガーには僕の思う「面白い記事」はかけないと思います。
同様に、僕は彼らの思う「面白い」記事はかけません。
しかし、宮森さんのブログの面白さのベクトルが違うだけで、「まったく面白くない」わけではありませんでした。やぎろぐの記事も面白くはないかもしれないが、わかりやすさや、愛されないが奇特であるライフスタイルに寄ってみれば、「面白い」です。

 そうそう、これこれ。
 
 ここではプロブロガーなるものが挙げられているけれども、twitterや動画配信でも同じ。
 
 ある人々には「こんなつまらない代物のどこが面白いんだ?」と思えるコンテンツが、別の人々には「このコンテンツ最高!」であることは意外に多い。コンテンツの題材も、コンテンツの語り口も、コンテンツの情報量も、ある人々にとって最良のものが別の人々にとっては最悪のものとして感じられる。そういう相違が複数のディメンジョンで確認されると、人は――いや私はと言い直すべきか――「あれは面白くないネットコンテンツだ」「つまらないインターネットですね」と言いたくなる。
 
 けれども、それは反対側からも言えるはずで、私にとって「つまらないインターネット」をやっている人達からみれば、私の愛好しているネットコンテンツこそが「つまらないインターネット」とうつっているに違いないのだ。
 
 リンク先の蒼眼龍介さんは、

「意識の低い人間が意識の低いままネットという社会で優勝」するのが昔のインターネット
で、今のインターネットはキラキラした思想や、収入や意識の高い集団を作る事プロブロガー問題を筆頭に「意識の高い人間が、意識の高いまま素直に優勝している」と感じます。

 と書いておられる。
 
 こういう「面白さ」の国境線は、意外に深刻だと思う。少なくともキノコタケノコ戦争などよりは人を苛立たせるだろう。政治や宗教の話に比べたら「面白さ」の話なんて大したことがないと言う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。昔の「新人類vsおたく」という「格好良さ」を巡る文化主導権争いが気楽でもクリーンでもなかったのと同じように、「面白さ」を巡る対立や文化主導権争いはしんどくてダーティーなものになり得る。
 
 いや、「なり得る」などと書くのは間違いで、「既にそういう気配が漂っている」し、私もその当事者なんだろう。
 
 「棲み分ければ良い」というのは素敵なソリューションのようにみえるし、twitterなどは一定の棲み分けが進んでいるけれども、インターネットという大陸自体はひとつで、お互い、面白いものしかみたくない・面白くないものには引っ込んでもらいたいという願望は拭いきれないから、「面白さ」を棲み分けた国境線上では「面白さ」を巡るバトルが起こっていて、ある意味、インターネット洗脳合戦が日夜繰り広げられている。
 
 「俺達が面白くて」「あいつらは面白くないよね」の応酬によって、「面白さ」のプレゼンスが試されているわけで、これは、インターネットのトラフィック上における、一種の陣取り合戦でもある。
 
 もちろんインターネットは多様で、そのインターネットに現れる個人はもっと多様なので、くっきりとした二つの陣営が「面白さ」を巡って戦っているわけではない。それでも「昔のインターネットvs最近のインターネット」「オタクサブカルvsウェイウェイ」「日陰者vs日向者」といった大まかな区切りは、それぞれ一定の説得力は持ち合わせているように思う。まあ、それらは本格的な党派性を持ったものではなく、社会心理学的な潮目のようなものが可視化されているに過ぎないものではあるのだけど。
 
 

儚い「面白さ」を巡って争う愚かな人々

 
 ……と、ここまで書いて、とふと思った。
 
 「面白さの文化主導権争い」「面白さのプレゼンス」について書き連ねたこの文章は、私自身にとって「面白いコンテンツ」だろうか?
 
 現在の私が書いている以上、もちろん私自身には「面白い」コンテンツではある。
 
 だが十年前の、そうそう、もっと「昔のインターネット」を酸素のように呼吸していた頃の私は、こういう文章をあまり面白がっていなかったのではないか。
 
 この文章を書いていて気付いたが、私自身の「面白さ」が歳月によって変化してしまった。ということは、十年前に私のブログを愛好していた人達からは、現在の私の「面白さ」は「面白くなくなってしまった」と観測されている可能性が高い。
 
 なんと「面白さ」とは儚いのだろう!
 いや、私自身の「面白さ」のいかに流されやすいことか!
 
 「面白さ」に対して身持ちの堅い人は、私のことを「面白さの変節者」と呼んで蔑むのかもしれない。しかし、良くも悪くも大半の人達は、私同様、そうやって「面白さ」の国境近くのある座標から別の座標に向かって流されながら、あれは面白い・あれは面白くないとブツブツつぶやきながら年を取っていくのだろう。
  
 そういう、儚くて流されやすい「面白さ」を賭け金として、私達が陣取り合戦や文化主導権争いに(たいてい無意識のうちに)のめり込んでいる姿を顧みると、人間の度し難さ・救いがたさを思わずにいられない。「こりゃあ全人類がニュータイプにでもならない限り、争いは絶えることはなかろうな」という諦念にたどり着く。
 
 しかし、この諦念も「ブログを公開する」ボタンを押せば霧消してしまい、再び私は「面白さ」の国境線上で、「面白さ」に言及することで、この蒙昧な百年戦争の一参加者となるのだろう。
 
 それでも、私にとってつまらないコンテンツこそが面白くてたまらない人々が「面白さ」の国境線の向こう側に存在している可能性を、どうか私が忘れませんように。それでいて、私自身が現今の「面白さ」に対して忠実なネットユーザーであり続けますように。
 
 合掌。