シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

俺がインターネットをとおして出会う人が、みんな賢くみえる件について

 
 私はインターネットが好きで、オフ会も好きで、そういう生活をずっと過ごしてきた。色んな場所で、色んな人にも出会えてきた。最近は忙しくもなり、フットワークも少し重くなったけれども、今でもインターネットは新しい世界への入り口だと思っている。
 
 ただ、自分では常に新しい世界を開拓してきたつもりでいたのが、最近、自分が開拓している世界に偏りが生じている気配が感じられるようになってきたので、メモしておく。
 
 

最近、やけに賢い人とばかり会っている気がする。

 
 どうも自分が見ている、というよりフォーカスをあてて深堀りしているインターネットが、賢い領域や表現力の豊かな領域に限られてきているのではないか、と、今更ながら思うようになってきたのだ。
 
 もちろん、ネットで馬鹿な人を見かけることはある。
 

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

ウェブはバカと暇人のもの (光文社新書)

 
 中川淳一郎さんの著書を読むまでもなく、インターネットには愚昧な暇人が溢れているし、昨今のインターネットのインフラ全体に、本来は賢い人をも愚かにしていくような「愚の巻き込み力」が宿っているようにもみえる。だから、インターネットで馬鹿を見かけること自体は珍しくないし、自分自身もまた、馬鹿と一緒に馬鹿騒ぎをやっているのだろう……と自省させられることも多い。馬鹿をやる羽目になっている本当は賢い人が、インターネットにはたくさん存在するのではなかろうか。
 
 反面、ここ5年ぐらいの間にインターネットを介して新たに知り合った人達には、ストレートな馬鹿がいないように感じられるのだ。無能がいない、表現力の乏しいやつがいない、とも言い換えられるかもしれない。オフ会などを通して確認した限りにおいて、ここ5年ぐらいでネットで知り合った知己に、なかのひとが馬鹿だったり面白くなかったり無能だったりした形跡は感じられない。いわば「アタリ」を引く度合いが高くなっている。昔はこうではなかったはずだ。
 
 00年代のインターネットでの出会いを思い出すと、もっと手応えのない人が沢山いたように記憶している。大袈裟なレトリックを振り回しているけれども思考内容は平凡そのものな人、元気はあるけれども何も考えていない人、表現すべき情熱も表現するための手段も持ち合わせていない人――そういった、スカッスカッとした人がもっとたくさんいたのだ。

 もちろん当時とて、よく考えている人、面白い人、手強い人はたくさんいた。ときには相手に圧倒されることもあった。それでも、初対面時の「打率」は2010年代以降ほど高くなかった。どうやって会話を続ければ良いのか戸惑う場面が00年代以前にはもっとあった。コミュニケーションの扉を開いても、なかなか情熱や知性や面白みが伝わってこないこともあった。そのひとの知性、そのひとの面白さに気付くのに3年かかることもあった。それが当たり前だとも思っていたし、おそらく、世間とはそういうものなのだろう。
 
 ところが、10年代に入ってからのオフ会で出会う人々は、初手から考えている徴候がみられたり、会話の機敏が面白かったり、情熱に溢れたソウルを宿していたりした。見解の相違や立場の違い、年齢の違いはあるにせよ、「なるほど」と思わせるものを宿した人々に魅了された。3年待たなければそのひとの知性、そのひとの面白さが伝わって来ないという経験が減った。インターネット人士として、これは幸せで、イージーなことではある。
 
 

いつの間にか、出会う人が狭くなっているのかもしれない

 
  
 ただ、そんなオフ会冥利に尽きる日々を振り返ってみて、何かがおかしい、と思うこともある。
 
 私のほうから出会いに行く人も、私のほうに出会いに来る人も、いつの間にか、かなり偏ってしまっているのではないだろうか。
 
 世の中には「類は友を呼ぶ」とか「朱に交われば赤くなる」といった諺が存在していて、インターネットもまた例外ではない。むしろ、インターネットこそ、どこかが似通った者同士や共通点を持った者同士を繋げるツールではある。だとしたら、現在の私は、知的で面白い人達のグループと繋がりやすいぐらいには知的で面白くなっていると自惚れてかまわないのだろうか?
 
 そうではあるまい。たぶん、自分にとって馴染みやすい知的さ、自分にも理解しやすい面白さを私がどこかで選んでいるのだろうし、私に声をかけてくださる方においても、それは同じなのだろう。お互いに、上手く選んで、上手く選ばれるようになってしまったから、お互いにとって「アタリ」な人間同士が繋がってしまう。それは豊かなことでもある反面、考えようによっては、閉じたことでもある。
 
 してみれば、00年代に私が経験したオフ会は、豊かかどうかはさておき、多様性が凄かったのは間違いない。「アタリ」も「ハズレ」もある世界、面白さや知性に気付くのに3年かかる人のいる世界のほうが、ある面において娑婆世界の実態にも近いだろう。人間がしっかりとシャッフルされたオフ会だった。だからこそ、オフ会はいつも異世界への扉でもあった。
 
 今はそうではない。もちろん、出会う人は全員違っているが、「アタリ」ばかりというのは娑婆世界の実態からは乖離しているし、なんらかのかたちですぐに面白さや知性を知覚するというのも偏った事態だ。
 
 どうしてこうなった。
 
 私が年を取って、いろいろな面白さが既知になったせいもあろうし、冒険心が委縮している部分もあるのだろう。インターネットが繋げる縁、インターネットで繋がる縁というものが、ウェブサイト時代とブログ時代とSNS時代で違っているのもあるかもしれない。なんにせよ、インターネットをとおして出会う人が、みんな賢くみえるという一事について、良い側面だけを見つめて自惚れているのはまずくて、なにかしら偏りが生じていると警戒しておくのが、臆病なシロクマという動物の、あるべき姿勢ではないかと自省する年末であった。