シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

高度な社会の一員になれていますか。これからもなれますか

 
  
「高度な社会は、それにふさわしい高度な人間を要請する」
 
それが言い過ぎだとしたら、「高度な社会に適応するためには相応の能力や特性が求められ、足りなければ支援や治療の対象になる」と言い直すべきでしょうか。
 
少し前に「SNS上では境界知能という言葉が悪口的に用いられている」といった話が盛り上がったようですね。
 
president.jp
 
リンク先で述べられているように、知能指数はその人の生きづらさを探る手がかりとして用いられるもので、そうして算出された境界知能も、支援の見立てに用いるための語彙なのでしょう。そしてリンク先では、境界知能という言葉を時代遅れにする動向にも触れられています。どんな言葉にも全人的な否定のニュアンスをとりつけたがりなインターネット民の挙動を見ていると、境界知能という語彙を消すべきだとする人々の考えにも同意したくなります。
 
そうした語彙の汚染問題はさておき、境界知能や知的発達症のような、知能指数が平均を下回っている人の生きづらさそのものは実際に高まっているのではないでしょうか。
 


 
上掲ツイートには、境界知能どころか、IQが100ぐらいでも現代社会に適応するのはしんどいのではないか、といったことが述べられています。現代社会に適応するのが厳しいボーダーラインが、IQ75なのか、IQ85なのか、IQ95なのかはここでは論じません。ただ間違いなさそうなのは、SNSに氾濫する情報の真贋を見極めたり、複雑な契約や制度を理解したうえで主体者として必要十分に振舞ったりするには、それ相応の知識・知恵・判断力などが求められるだろうってことです。
 
たとえば最近、iDeCoやNISAによる投資が政府によって奨励されていますし、政府が推奨するということはそうした制度を運用できることが国民に暗に期待されているようです。では、それらの制度をまがりなりにも理解し、運用するのに(またはよく考えて運用しないという判断をする際に)必要とされる知能指数とは一体どれぐらいでしょうか? あるいはますます高度な人材の育成が期待され、誰もが大学生相当の学歴を要する社会で必要とされる知能指数は一体どれぐらいでしょうか?
 
資産運用や学歴を抜きにしても、相応の知識・知恵・判断力を要する場面は少なくないでしょう。何が危険物なのか。危険物だとしてどのように対応すれば安全なのか。なぜ、それが危険になり得るのか? こうしたことを知識として覚え、理屈まで理解するにあたって、知能指数が低いことはハンディたり得るでしょう。危険は化学薬品のようなものかもしれないし、SNSやアプリに潜在するものかもしれないし、繁華街に遍在するものかもしれません。高度化した社会において、リスクは五感で察知できるものではなく、しばしば直感に反するかたちをとっています。伝承や物語をとおして子ども時代に自然に暗記させられるものでもないでしょう。高度化した社会のリスクのかなりの部分は、学校の授業に代表される座学をとおして、またはメディアをとおして学ばなければならないものです。
 
そのうえ、そうした知識はアップデートさせていかなければなりません。ハンディのある人でも、時間と経験さえ積めばSNSやアプリの危険を暗記すること自体は可能です。ところが高度化した社会のアップデートの速度はとても速いので、ハンディのある人がSNSやアプリの危険をどうにか覚えた頃には、それらはアップデートされていて、危険の側もアップデートされているでしょう。
 
アップデートというのは面倒で負荷のかかるものです。にもかかわらず、高度化した社会は情け容赦なくアップデートを続けていきます。知識の把握や学習や判断にハンディのある人にとって、情け容赦のないアップデートは大変なものであるはずです。
 
 

大変なのは、知的発達症や境界知能だけじゃない

 
 
アップデートをとおして難しくなっているのは、知能指数にまつわる領域だけではありません。
気分や感情、情緒を巡る領域でも、社会はアップデートしています。
 
たとえば近年はコンプライアンスを遵守したホワイトな職場が理想視され、ちゃんとした企業ほどそのような体制を整えようと努めています。ホワイトな職場といえば、誰もが心地よく働ける職場、といったイメージをお持ちの方もいらっしゃるでしょう。
 


 
ですが、本当にそれだけでしょうか。
コンプライアンスにかなったホワイトな職場には、剣呑な人間や、泣いたり騒いだり怒ったりする人間はいてはいけません。そうした人間がそうした振る舞いをみせていては、ホワイトな職場はホワイトではなくなってしまうからです。ホワイトな職場は、ホワイトな人間だけで構成されなければなりません。そのためにもアンガーマネジメントが推薦され、ストレスチェックのような制度も浸透してきています。それらは福利厚生の一端であると同時に、ホワイトな職場を維持するための管理と統治の一端、社員をホワイトに漂白し、2020年代にふさわしい"社畜"を彫琢するための統治のシステムともなっていませんか。でもって、そうした統治のシステムがあってもなお、ホワイトな職場の枠組みにおさまりきらない人、いわばホワイトな社畜になりきれない人は、いったいどこへ行くのでしょうか?
 
こうした社会のホワイト化とでもいうべき事態は、職場以外でも起こっているよう、私にはみえます。家庭でも学校でも公園でも、私たちは怒り過ぎてはいけないし、泣きすぎてはいけないし、悲嘆に暮れすぎてはいけません。はしゃぎすぎてもいけないでしょう。
 
ホワイトな社会は、まるでホワイトな人間だけで構成されなければならないかのようです。それが言い過ぎだとしても、「この高度化した社会は、最もホワイトな人間を基準点としてつくられているのではないか?」、と疑問を投げかけることはできるでしょう。さきほどの知能指数の話まで含めるなら、「知的機能が一定水準を上回り、気分・感情・衝動が安定していることが高度化した社会の人間の基準」という不文律が存在しているかのようにみえませんか。そうした状況のなかで語られる多様性とは、いったいどんな多様性なのでしょう?
 
話が逸れかけました。
ともあれ、ホワイトな社会とその不文律に苦もなく適応できる人にとって、ここまで書いてきた高度な社会はハラスメントやストレスが少なく効率的な、たいへん好ましい社会なのかもしれず、もっともっと社会は高度化して欲しい・高度化すべきだと主張しうるものかもしれません。でも、その高度化・ホワイト化する一途の社会に誰もが苦もなく適応できているわけではありません。ついていくのに人一倍の努力が必要な人、ついていけないために治療や支援を必要とし、活動の場が実質的には制限されている人も少なくないのです。
 
 

治療と支援をとおして高度化する社会の一員になれる、とはいうものの

 
より高度な知識や知恵や判断力を成員に求め、気分や感情や衝動の平穏さを成員に求め、ますますのホワイト化とコンプライアンスの遵守を指向する社会。この高度な社会につつがなく適応するには、高い知能と情緒の安定性が求められるでしょう。
 
そういう社会についていけない人のために(たとえば精神医療による)診断と治療、さらに福祉的支援があるのは知っていますし、それらが個々人の役に立っていることも知っています。それでも、診断と治療と福祉的支援を受けている人がホワイトな社会に馴染みきっているとは言いがたい部分もあります。幸運にもそうなっている人もいる反面、不幸にして部分的にしか社会に馴染めず、社会参加が制限されている人も珍しくないのが現状です。
 
そもそも、診断と治療と福祉的支援さえあれば、いくらでも社会が高度になって、その高度な社会についていく難易度が高くなって構わないものでしょうか? 社会・文化・環境の進歩は必要なのは言うまでもありません。だとしても、そうした進歩がますます加速し、結果、診断と治療と福祉的支援をまったく受けなくて済む人の割合が減っていくとしたら、それってどうなんでしょうね?
 
このように考えながら振り返る精神医療を受ける人の数のグラフは、見ていて気持ちの良いものではありません。
 

 
厚生労働省「患者調査」を見返すと、精神疾患で医療機関にかかる人の数は右肩上がりに増大し続けています。令和2年の段階では614万人に達していて、平成14年の2倍以上、日本人の約20人に一人が精神疾患の治療を現在進行形で受けていることになります。
 
好意的にみる人は、このグラフは精神疾患についての啓蒙が行き届き、早期発見・早期治療が実現した反映とみるでしょうし、悪意をもってみる人は、精神医療が今まで以上に広範囲を医療の対象とし、社会のなかでプレゼンスを稼いできた反映とみるかもしれません。
 
私なら……このグラフは社会が高度化し社会適応がより難しくなって、精神医療や福祉による支援が必要な人の割合が増大したせいじゃないの? と考えます。精神医療が"顧客を開拓した"側面は確かにあるでしょう。でも、ニーズのないものを開拓しても"顧客"は増えません。そして実際に診ている限り、こうも思うのです:精神科を受診する人の数が増え、なにやら"うつ病や統合失調症の軽症化"なるものが語られているからといって、受診する人の悩みや生きづらさが切実なものではなくなったようにはみえないのです。
 
現代社会は、数十年前に比べて高度化してきました。それ自体は良かったとしても、高度な社会に適応するためのハードルまで高くなってしまっているとしたら、それはそれで何とかしなければならない課題のはずです。が、今日では、そうした課題は社会の問題ではなく精神医療と福祉の問題、ひいては患者さんやクライアントの個人的な資質や性質の問題ってことになっています。これは、問題の矮小化ではないでしょうか。
 
加えて私は未来のことが心配です。
これまでの数十年がそうだったように、これから数十年で社会はもっと高度化するでしょう。では、数十年後の社会において、いったい何割の人が診断と治療と福祉的支援なしに社会適応できるでしょうか。その数十年後の未来において、たとえば私は(その未来における)ホワイトな職場・ホワイトな社会にそれそのままでいられるのでしょうか。私は心配でなりません。私自身だけでなく、子々孫々がどうなるのかも気になります。
 
あなたは、この高度な社会の一員に、なれていますか。
のみならず、これから先もますます高度化していく社会についていき、そこでも一員になれていると思いますか。
 
私は、たぶん自分はそんなに高度化した社会についていけないと思うので、社会の高度化に警戒感をもっていますし、留保なく社会の高度化を推し進めようとする人々や、ついていけない者のブルースを聞かなかったことにして時計の針を進めようとする人々に警戒感を持っています。進歩、それ自体は否定できないとしても、それについていけない人々のことを、もっと社会全体の問題として見つめていただきたいし、進歩に対して配慮を期待したい。あるいは、配慮が無理だというのなら、せめてついていけない人々のブルースに耳を傾け、その苦悩、その生きづらさをなかったことにしないでいただきたい。最近のインターネットの話題を眺めていて、そのように私は感じました。
 

※こうした問題について、2月21日に新著『人間はどこまで家畜か』が発売されます。社会と社会適応とそれらの未来に関心のある人なら、お楽しみいただけるのではないかと思います。おすすめです。
 
 
 
※以上でブログ記事はおしまいです。以下は『人間はどこまで家畜か』を作っていた頃にまつわる小話で、サブスクしている常連さん向けです。

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