シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

『東大ファッション論集中講義』が読みやすかった

 
 

 
ファッションの本は色々な方向性・難易度のものがあってとっつきにくい。
 
大きな書店があれば、ファッションのジャンルの棚を探せば望みの本に出会える……気がするかもしれない。ところがうまくいかない。なぜなら、ファッションの本は新書コーナーや○○文庫や××シリーズのコーナーに配置されていたりもするからだ。店内検索も案外役に立たない。タイトルや著者がわかっていなければ検索が難しく、そもそもタイトルや著者がわかっていれば苦労しないからだ。
 
そうしたなか、最近、『東大ファッション論集中講義』という本に出会った。これが良かったので、ブログに読書感想文的なものを置き残したい。
 
 

『東大ファッション論集中講義』はこんな本

 
はじめに、『東大ファッション論集中講義』という本を無理矢理ワンセンテンスに要約してみる。
 
「近世~現代までのファッションの歴史を振り返り、それが社会や文化やメディアとどんな風に関連しているかを解説し、ついでにファッションの学問についても紹介する本」
 
言い足りない部分もあろうが、私はそんな風に感じた。
この本はちくまプリマー新書という、若い人向けのレーベルから出ている。実際、かなり読みやすく、ファッションの歴史についてはじめて本を読むにはちょうど良い本だろう。
 
ちなみに私は、20年前、放送大学の教科書だった『現代モード論』というファッション史の本を読んでいる。
 

現代モード論

現代モード論

  • 放送大学教育振興会
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でも、今読むなら、断然『東大ファッション論集中講義』のほうだろう。
こちらのほうがわかりやすく、アップトゥデイトだからだ。
 
 
私がこの本を読んで面白かったことの第一は、ファッションの歴史と欧米の文化や社会規範が重なりあっているさまについての記述だ。
 
私は近世~現代の欧米の文化史が好きで、とりわけ1.生活や社会規範や常識の変化や、2.近代という時代の到来とその時代精神 について追いかけるのが好きだったりする。
  
この本は、この1.2.の両方にかかわることが書いてある。

近世~近代にかけては礼儀作法が上流階級からトップダウン的に浸透していき、その礼儀作法のなかには清潔も含まれていた。はじめ、その清潔はファッションの一部で、(今日のように身体を洗い清めるものでも消毒液を用いるものでもなく)清潔な下着を身に付け、それを見せびらかすところからスタートしていて、そうしたことをファッションの側からこの本は記している。
 
関連して、フランス革命以降のファッション、特に男性がスーツを着るようになったいきさつや女性がコルセットなどを用いるようになったいきさつが、当時の絵画付きで解説されているのがまた良い。フランス革命後のブルジョワ男性(第三身分)においては、それまでの貴族のような、華美で見せびらかしなファッションはお呼びではない。禁欲的で実用的なスーツが主流になり、そのファッションは今日まで続いている。ブルジョワ男性が見せびらかすべきは、派手な服ではなく、自分の能力や身体であるべきだというわけだ。(そして華美な見せびらかし機能は、少なくとも20世紀以前は女性が担うことになった)。
 
個人的には、当時の絵画に記されたブルジョワ男性のスーツ姿も興味深かった。この本には、「ベルタン氏の肖像」という1832年のブルジョワ男性の肖像画が載っているが、今日のブルジョワ男性の模範とは違って、なかなか恰幅の良い男性なのだ(同ページに記されている女性画も、現代の基準でみればふくよかかもしれない)。1868-69年の絵画に登場するスーツ姿の男性像も、なんとなく恰幅の良い感じだ。
 
「男性=スーツ姿」という点では19世紀も現代も変わらない。しかし、この本で引用されている19世紀のブルジョワ男性の姿は今日でいえばメタボリック症候群になりそうな体型で、この時点ではまだ、スポーツをとおして強靭な身体を誇示する男性像、または、健康的な身体を見せびらかす男性像には至っていない。
 

 
こうしたことは、アラン・コルバン編の『身体の歴史』や『男らしさの歴史』に登場する男性の身体についての記述と合致していて、19世紀男性らしさが炸裂しているなと私は感じた。
 
第二に面白かったのは、ココ・シャネル以前/以後の女性のファッションの移り変わりについてだ。
 
著者は大学院生時代に「ファッションの研究をするならば、シャネルについて語れなくちゃだめだ」と教員に言われたそうだが、そのせいか、シャネルについての記述は本当に面白い。読みやすく書かれているだけでなく、後発のディオールとの対比に物語性があってぐいぐい引き込まれる。
 
で、シャネルの人気が高まっていった際の時代背景についても色々と記されている。シャネルの服は、リゾートで伸び伸びしたい女性向けの服として人気が出たという。これは、19世紀末~20世紀初頭における観光ブームやリゾートブームに対応した出来事で、シャネルはその波に乗れたのだろう。それからシャネルスーツ。
 

……シャネルのスーツは「楽で間違いがない」「すばらしくフェミニンな装い」などと言われ、服の特徴の描写に用いられる単語とアメリカの理想的な女性像を形容する言葉が一致しました。というより、アメリカの理想的な女性像を形容する言葉が、シャネルのスーツの本質的な特徴として選び取られたと言った方がよいかもしれません。
 また、シャネルのスーツがアメリカの女性解放運動を象徴するものとして解釈されたことにもあります。『ヴォーグ』には「1919年、つまりアメリカの女性が投票権を獲得したその年に、シャネルのジャージーがボーン入りのコルセットから世界中の女性を解放した」と述べられています。
 ここでシャネルの服が本当に女性の身体を解放したか、あるいはそれが本当に1919年であったかどうかは問題ではありません。重要暗尾は、アメリカにおける女性解放の歴史的文脈が「シャネルスーツ」が見出された語られたということです。

『ヴォーグ』はアメリカのファッション雑誌で、シャネルを大きくとりあげた。それどころか、シャネルの模倣品すら大きくとりあげたさままで本書には記されている。それぐらいシャネル、特にシャネルのスーツはアメリカにおいてインパクトがあり、当時の女性解放運動な社会状況と響きあうものがあったというのだ。
 
そう指摘されたら「なるほどー」と思うわけだが、私はこの本を読むまでそれに気づいていなかった。ファッションが時代や文化と繋がっているさま、それらと共に変わっていくさまを、本書のシャネルの話はわかりやすく教えてくれているとも思う。
 
このほか、昨今のファッション研究についてや、日本の女性に洋服が受け入れられていったいきさつなど、いずれも興味深くわかりやすい。たとえば日本女性が洋服を受け入れていくプロセスのなかで戦時中の「もんぺ」が意外に影響があった話にはびっくりした。これも、指摘されなかったら知らないままだっただろう。
 
そんなわけで、近世以降のファッションの歴史をかじってみたい人や、ファッションと文化の繋がり、ファッションと(雑誌のような)メディアの繋がりなどを読んでみたい人にはおすすめだ。読みやすいし、ちゃんと色々な文献が登場するのでここから深堀りもできそうな感じだ。
 
 

ファッションは自由か不自由か

 
ところで、ファッションは自由だろうか、不自由だろうか?
20年前に放送大学の『現代モード論』を読んだ後もこの『東大ファッション論集中講義』を読んだ後も、その疑問は消えない。これからも消えることはないだろう。
 
著者は、社会学者のジンメルを引用するかたちで以下のように記している。

つまり、ファッションとはあるモデルを模倣することですが、同じ社会を生きる人々と共にありたい、人と同じでありたいという同一化の願望と、一緒でいたいけれど人と違ってもいたい、という差別化の欲望の両方を同時に叶えるものなのです。

いやあ、本当にそのとおり。
で、オシャレ上手の人は、TPOも弁えながらその両方をやってのける。
 
しかし我が身を振り返ってみれば、ファッションはそんなに簡単ではないし、いつもファッションに乗り気になれるわけでもない。約20年前に『現代モード論』を読んだ頃、当時の私は「脱オタクファッション」についてインターネットで色々と読み書きしている頃だった。そうした脱オタクファッション関連のウェブサイトで特に良かったサイトの管理者も、似たことを述べていたと記憶している。
 
曰く、「ファッションには『みんなと同じになるための制服的な機能と、自分らしさを示すための機能』がある」と。
 
脱オタクファッションを論じていた当時のウェブサイトも、まさにこの二つの機能それぞれについて論じていた。たとえば丸井やパルコに入っていそうなテナントの服を身に付け、オタクとはみられにくく一般人とみられやすい服を選ぶ方法、ひいては服の買い方が書かれていたものである。と同時に、そうしたウェブサイトの読者のなかには、自分らしさを示すための機能を持った服を求めるうちに夢中になってしまい、ファッション沼に転げ落ちる者もいたのだった。
 
オシャレ上手な人なら、その相矛盾するようにも思えるファッションの課題を両立させ、TPOによって前者と後者の比率を調整したりもできるだろう。ところがファッション初心者の(当時の)オタクにはそれは簡単ではなかった。差異化の欲望をむさぼり、ナルシシズムの井戸に落ち、同じ社会を生きる人々と共にある機能をおざなりにした挙句、「脱オタクファッションを頑張ったのに効果がなかった」とぼやく人もいたのだった。
 
私はそうした時期も経験しながら年を取り、中年男性になった。はじめのうち、私はスーツ姿が社会適応の象徴みたいに思えてならず、苦手意識を持っていたが、オーダーメイドのスーツの着心地が気に入ってからはスーツだって悪くないなと思えるようになった。しかし、スーツに慣れていくうちに、私は私自身が昔から着たいと思っていた服を買い揃えること・追いかけることが億劫になってしまった。加齢や多忙がそれに拍車をかける。20代の頃に着たかった服を今着たって似合わないじゃないか、という思いが、購買行動にブレーキをかける。そうして結局、私はスーツを買ったり、ブルックスブラザーズとかPoloとかユニクロとかを買って済ませるようになってしまっている。
 
男性、とりわけ中年男性である私は現代の服装についてのお約束にとらわれていて、同一化の願望、ひいては制服的なファッションに束縛されている。その束縛から逃れるには、かなりの飛翔力が必要になってしまった。と同時に、スーツやポロシャツにそでを通す時、私は男性ブルジョワのお約束に閉じ込められた気持ちになる。つまり私は男性ブルジョワのお約束を守った格好をしなければならない、いや、男性ブルジョワのお約束を守った格好をしたほうが、より簡単に社会の一員らしくあれる……らしいのだ。
 
そうやって男性ブルジョワの規範にもたれかかるのは、楽なことで、怠惰なことだ。服選びに頭を悩ませる必要も軽くなる。だが、裏を返せばそこからはみ出して冒険する際のコストとリスクは小さくなく、男性ブルジョワのお約束、ひいては資本主義社会の規範に私は縛り付けられているってことでもあるわけだ。
 
こうした束縛は現代の女性にだってあるだろう。シャネルのスーツは女性解放運動の社会状況とシンクロしていたが、それは、旧ヴィクトリア朝的な社会規範から自由になるという意味では自由だったわけで、今日の社会規範から自由にしてくれるわけではない。今日ではむしろ逆ではないだろうか。たとえば就活の風景を眺めると、就活する女性たちはシャネルのスーツの子孫たちを、つまり男性ブルジョワのお約束に限りなく接近した制服的服装に身を固めて、それで資本主義社会の規範の門をくぐろうとしている。うがった見方をするなら「私は女性ですが男性ブルジョワのように働きます」とシグナルを送っているかのようでもある。
 
今日、シャネルのスーツの子孫にあたる服は、女性が男性ブルジョワのお約束に誓約するための服、資本主義社会の制服としての意味合いをも免れないのであって、逆に、就活に旧ヴィクトリア朝時代のドレスを着ていった女性は、きっとつまはじきになってしまうのである。
 
『東大ファッション論集中講義』には、以下のようなくだりもある。
 

 しかしだからといって、女性の身体が解放されたというのは一面的な見方にすぎません。なぜなら、19世紀に全盛であったコルセットのかわりに、20世紀にはブラジャーやガードルが発展し、女性たちは新しい下着を身に付けるようになったからです。
 あるいは下着が取り払われたとしても、女性たちはダイエットやエクササイズにいそしみ、時には脂肪吸引や美容整形をして、理想とされる体型に近づこうと努力します。下着で身体を圧迫することはないかもしれませんが、心理的なコルセットを内面化しています。

女性はコルセットから解放され、(少なくとも大筋では)旧ヴィクトリア朝時代の社会規範からも解放された。しかし、健康美や機能美を良しとし、男性ブルジョワのように働くことを期待し資本主義社会の一員たることを期待する社会規範にとりこまれてはいて、そこに囚われてもいる。男性の場合は言わずもがなだ。身分によって服装が決まっていた時代に比べれば自由だとしても、現代人にだってファッションをとおしてかえって社会規範に取り込まれている一面はある。流行にしてもそうだ。意識的にせよ無意識的にせよ、私たちは流行の影響圏のなかにある。それは、自由なことなのか不自由なことなのか。
 
いや、本当は問うまでもなかろう。ファッションの自由と不自由について、二項対立的に・一義的に考えるのは不毛である。
どちらの側面もあると言えるし、個人のレベルでは、オシャレ上手たちがやってのけるように、それらを矛盾させずに折り合いづけたり調和させたりするのが良いのだと思う。しかし、ファッションに限らずだが、相反するようにみえる課題を折り合いづけたり調和させたりするには、センスが要求される。時間やお金も要求されると思って間違いない。
 
ぐちぐちと書いてしまったが、こうした、私たちがファッションをとおして自由と不自由をどう折り合い付けていくのか、社会適応と自己表現のバランスをどう取っていくのかの実際上の指導までは本書はしてくれない。が、それは無いものねだりであって、本書のテーマの外だと言うほかない。しかし、逆に言うと、ファッションと個人の自由/不自由についてやファッションと社会規範(や男性ブルジョワや資本主義)については、読者が好きなように考える余白が残されているようにも思える。それは短所というより長所のような気がするし、もちろん他の本を当たれば考える材料はもっと見つかるだろう。
 
本書は教条主義を押し付ける感じではないので、こんな具合に、読んだ後にフリーにあれこれ考えるのに向いていると思う。考えるための導火線になるのもこの本のいいところだと思います。おすすめです。