シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていない。

 
anond.hatelabo.jp
 
 リンク先の記事は、女性医師のライフコースの困難さを書きだしている。
 
 以前から、キャリアと子育ての板挟みに悩む女性医師は少なくなかったが、いまの医師研修制度によっていよいよ厳しくなっている話は、もっと知られてもいいように思う。
 
 その一方で、この話は女性医師だけに限らず、働く女性全般、いや、男性も含めたキャリア志向の現代人の大半に適用できる話として読みたくもなった。
 
 ここ十数年ぐらいの日本では、仕事に打ち込み続けるうちに、結婚や子育てのタイミングを逃してしまう女性が後を絶たなかった。そうでなくても、出産や子育てに踏み切ったことによってキャリアが中断してしまった女性や、職場に迷惑をかけていないか気にしている女性が少なくなかった。
 
 少子化がさけばれる昨今は、男性も育児休暇を取れるようになった。もちろんそれ自体は喜ばしいことだが、育児休暇を取る男性にしても、職場を休む際には申し訳ない気持ちが湧くことがしばしばあるように思う。従業員が子育てのために順番に休暇を取ることを当然のサイクルとして設計されている職場は、まだまだ少ないのが実情だ。
 
 こうした現実を振り返るに、私は思わずにいられない。
 
 そもそも、現代人のライフコース自体が生殖に向いていないのではないか。
 
 結婚。出産。子育て。
 
 こういった、生殖にダイレクトに関わる諸々が非常に難しくなっているからこそ少子化には歯止めがかからず、ちょっと大げさな言い方をすると、日本人は絶滅の危機に瀕しているのではないだろうか。
 
 このあたりについて、今の私が疑問に思っていることを少し書いてみる。
 
 

ブルジョワ化していった意識と働き方

 
 さきほどから私は、現代人という言葉を使っている。
 
 ここでいう現代人とは、できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指すことを良しとする人々のことだ。因襲や宗教よりも社会契約や合理主義を重んじ、勤勉で、仕事をサボることを良しとしない。たとえば21世紀の東京で働いている人のほとんどは、この現代人に該当すると考えて差支えない。
 
 現代人のルーツは、近世以前の第三身分、ブルジョワジーに由来する。
 
 資本家や医師や法律家といった人々、今でいえば高級ホワイトカラーに相当する人々は、近世の頃から高学歴志向・キャリア志向のライフコースを採っていた。彼らは社会契約のロジックにも忠実で、勤勉に働いた。現代人の基準からみれば当たり前に思えるかもしれないが、これらは近世以前の人間のテンプレートではない*1
 
 

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)

 
 日本では、そうしたブルジョワ然としたライフコースを採る人が戦前から増え続けてきた。
 
 ホワイトカラーの卵である大卒者は、明治時代にはスーパーエリートだったが、大正~昭和初期にかけてどんどん増え続けた。急激な近現代化を支えるためにはたくさんのホワイトカラーが必要で、高学歴者を生み出すシステムが整備されていった。と同時に、ホワイトカラーならではの文化や意識が社会の主流に、あるいはテンプレートになっていった。
 
 とはいえ、こうした変化が本格化したのは戦後のことだ。
 


 (出典:平成26年度学校基本調査、文部科学省、より)

 
 この、右肩あがりの進学率が示しているように、大卒はエリートでもなんでもなくなった。できるだけ良い学校に入り、できるだけ良い収入や地位を目指す意識は、資本家や医師や法律家の専売特許ではなくなった。どこの家庭も「自分の子どもには高学歴・高収入になってもらいたい」と願うようになり、受験戦争が白熱するようになった。
 
 昭和の終わりに、「一億総中流」という言葉が流行したことがある。「一億総中流」とは、みんなが中流の年収を得るようになったという意味ではない。みんなが中流意識を持つようになったこと、つまり、ホワイトカラー的・ブルジョワ的な意識が社会に行き渡ったことを指した言葉が「一億総中流」だった。
 
 ホワイトカラーが典型的な職業とみなされるようになり、女性に関しても、高学歴・高収入を目指す「働く女性」が当たり前とみなされるようになった。そうした意識の変化と経済成長がマッチしたのが、バブル景気崩壊までの日本社会だったのだろう。
 
 

経済資本・人的資本まではブルジョワ化できなかった

 
 しかし、意識や働き方がブルジョワ化したからといって、なにもかも戦前のブルジョワと同じになったわけではなかった。
 
 かつてブルジョワと呼ばれた人々は上昇志向で勤勉だっただけでなく、経済資本に恵まれ、人を使える立場だった。
 
 仕事熱心なブルジョワの実生活を支えていたのは、使用人や家政婦のたぐいだ。子育ての領域でも、乳母・教育係・寄宿学校といったさまざまなリソースを利用できたからこそ、ブルジョワは自分自身のキャリアに集中できていた。
 
 ブルジョワの意識と実生活の背景に、「生活のことなんて考えなくても構わない」「子育てもアウトソースして構わない」があったことは、現代人の意識と実生活を考えるうえで忘れてはならないものだと私は思う。
 
 さきに述べたとおり、日本社会ではブルジョワ的な意識や働き方が庶民にどんどん広まっていった。ところが、ブルジョワ化した庶民の生活を支えるための使用人や家政婦が増えたわけではなかった。乳母・教育係・寄宿学校といったリソースは高嶺の花であり続けた。
 
 ブルジョワ化した庶民は、ブルジョワのように意識してブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを他人任せにできるほどの経済資本や人的資本を授けられなかったのである。
 
 その結果、「ブルジョワのように意識し、ブルジョワのように働くけれども、実生活や子育てを自分でやらなければならない人々」がものすごい勢いで増えた。
 
 はじめ、この問題は「専業主婦」というシステムで一応の解決をみた。戦後しばらくの間は、国が専業主婦というシステムを後押しするかたちで、夫がブルジョワ的に働き、妻が乳母や家政婦の役割を担う分業が広く採られた。『サザエさん』や『ドラえもん』を見ると、当時の家庭のテンプレートをうかがい知ることができる。
 
 現代から見た専業主婦システムは、家父長的な、問題のあるシステムとみなされようし、実際、母親に偏重した子育ては、マザーコンプレックスをはじめとする家族病理を引き起こした。
 
 それでも、父親一人の収入で家族が賄えた頃は、専業主婦システムはひとつの解決法たりえた。急速に普及した家電製品も母親の助けになったし、平成にさしかかる頃にはレトルト食品やコンビニなども利用できるようになった。配偶者の片方だけで十分な収入が選られて、家族病理を回避する素地があるなら、専業主婦/専業主夫による分業システムは現在でも十分通用する。
 
 ところがバブル景気が崩壊してからの日本では、片方が働いて片方が養う……という分業が成立しにくくなってしまった。
 
 ブルジョワ的な意識や働き方はますます庶民に広がっていったのに、それにみあった年収はますます庶民から遠のいていった。末広がりなブルジョワの裾野に位置している人々は、勤勉に働いているにも関わらず、使用人ひとりも雇えない。それどころか、夫婦二人で食っていくのに精一杯という人や、結婚なんて経済的にとんでもないという人すら珍しくなくなっている。
 
 生活面では、家電製品やレトルト食品やサービス業の進歩によってカヴァーできていると言えるかもしれないが、生殖、子育ての領域はこの限りではない。保育所だけではカヴァーできない部分はまだまだあるし、その頼みの綱の保育所ですら、待機児童問題を呈して順番待ちのありさまである。のみならず、ブルジョワ的な意識においては、子どもには上昇志向な教育をカネをかけてほどこすのが当然とみなされているから、ただ子どもを食わせるだけでは駄目なのである。
 
 だから、ブルジョワ的な意識をじゅうぶんに内面化した現代人は、子育てにカネがかけられる見込みがない限り結婚したがらないし出産したがらない。「貧乏の子だくさん」などという事態を、ブルジョワ的な現代人は選ぼうとしない。それは、男も女も同じである。
 
 庶民がみんながブルジョワ化し、それでも生活や生殖が破綻しないようにするためには、本当は、生活や生殖を支えるための経済資本や人的資本が必要だったはずなのだ。
 
 だが、実際にブルジョワ化したのは意識や働き方ばかりで、在りし日のブルジョワ“階級”のような、豊かな経済資本や人的資本は望むべくもない。そうした理想と現実のはざまを専業主婦システムで間に合わせていた時代もあったが、バブル景気崩壊後の日本、とりわけ東京ではそれが困難になってしまった。
 
 もちろんこれは、日本や東京に限った話とは言えない。ソウルや台北の出生率を確かめてみればいい。あるいは、アメリカのネイティブの出生率を見てみればいい。程度の差こそあれ、これは、庶民のブルジョワ化が進んでいく先進国にあって、わりと普遍的な現象のようにみえる。
 
 

生殖という観点からブルジョワを批判する

 
 大昔の、本家本筋のブルジョワが乳母や使用人を雇うことができたのは、国内の階級による格差や、宗主国と植民地との格差が存在していたからだ。だが、途上国に追いつかれ、追い越される日本において、在りし日のブルジョワの特権を庶民すべてに授けるなど不可能である。
 
 近代から現代にかけて、日本人は、いや世界じゅうの人々は、ひたすら総ブルジョワ化の道を歩み、みんなが高学歴を志向して、みんなが勤勉に働くようになった。それは自体は良かったのだろう。
 
 他方で、意識と働き方ばかりブルジョワ化して、その生活と生殖を支えるためのバックボーンを授けられなかった(それどころか、バックボーンを失う一方の)人々に、やれ、子どもをつくりなさい、世代を再生産しなさい、と迫るのは厳しいことだと思う。その厳しいことを、日本は、いや先進的な国々の大半は、あの手この手で誤魔化しながらやり過ごしてきた。だけれど、とうとうやり過ごしきれなくなったから、みんな生殖を後回しにするようになった。それは仕方のないことだと私は思う。
 
 冒頭の女性医師などが典型だが、現代人のライフコースは、みずから生活や子育てを実践していくことを前提につくられていない。あくまでブルジョワ的に働き、ブルジョワ的に「稼ぐ」ことが前提になっていて、社会も個人の内面もそのようにつくられてしまっている。これまではそれで良かったのかもしれないが、これからもそれで良いのだろうか?
 
 「ブルジョワの打倒」と書くとマルクス的に聞こえるかもしれないけれども、生殖という観点からみても、ブルジョワは、打倒すべき対象ではないだろうか。今のところ私は、生殖という観点からブルジョワの理想と現実について批判している論説を見たことがない。もし、この散文を読んで「そういう論説なら、以前に読んだことがあるよ」という人がいたら、是非紹介して欲しい。今の世の中を理解するためには、そういう視点も必要な気がしてならないからだ。
 
 

*1:途上国の片田舎には、こうした現代人らしさの乏しい人が今でも残っている