シロクマさんが言ってた金の匂いのするネットは嫌だという話を思い返してみたけど、そういえば僕は家でお金の話をして親にめっちゃ怒られた事があるんだよな。リアルではやるくせに、そういう思想がネットではいつまで経っても抜けないのは、やはり古臭い人間だからなのかもしれない。
— 高須賀(* ॑꒳ ॑* )⋆* (@takasuka_toki) 2018年6月22日
三年前、私は「金の匂いがするブログ」について以下のような意見を書いたことがあった。
p-shirokuma.hatenadiary.com
しつこく繰り返すが、私はブログや動画配信を使ってカネを儲けるなと言いたいのではない。そうではなく、「カネが欲しい」という欲求をどのように取り扱い・どこまで表現するのかに対し、もっと自覚的・戦略的であってもいいんじゃないの? デリカシーへの配慮があってもいいんじゃないの? と問いかけたいのだ。
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20151030/1446145200
インターネットで金儲けをすること自体に異存はない。けれども「カネが欲しい」という欲求を他人にどこまで見せるのか・どう見せるのかは、デリカシーが問われるところであり、はしたない態度は長期的にみて得策ではない──だいたいそういう内容だったと思う。
それから三年近い歳月が流れて、その間にインターネットやブログの世界は三年分変わった。それらを踏まえて、今だから書けることを書いてみる。
「マルチ商法まがいなブログが気に入らなかった」
まず、あの記事を書いた動機の第一として、「マルチ商法まがいなブログが気に入らなかった」ことを白状しておく。
当時のインターネット上では、「ブログで金儲けできる」という話がまことしやかに語られていた。そのことを証明するかのように、月刊PV○○万、月収○○万円といった数字を公表するブログが爆増していたと記憶している。そして「儲かるブログ運営のノウハウ」をあの手この手で売りつけようとする者が跳梁していた。
彼らがブログをとおして金に言及するさまは、非常に無頓着で、無神経で、私の美意識からすれば最低の振る舞いだった。
でも、それだけではなかった。儲かるブログ運営を売る側と、それを買い、お手本どおりにブログで金儲けをしようとする側、その構図が私にはマルチ商法まがいにみえた。マルチ商法"まがい"と書いたのは、私の知っているところのマルチ商法とまるっきりイコールと言い切る自信が無いからだ。ただ、情報源と下流ブログの位置関係、参加者が増え続けなければ破綻する利益構造、後になって参加してきた人々の危うげな振る舞いなどを眺めていると、構図としてマルチ商法に似ているとは感じた。
あの「ブログで金儲け」では、情報源のブロガーはともかく、下流にはお金がたいして行き届かない。ましてや、プロブロガーが次々に誕生して、彼らに恒常的にお金が入ってくる構図など望むべくもない。結局、「ブログで金儲け」に後から参加してきた人々は、体の良い「養分」でしかないように見えたし、事実、養分となったのだろう。
長年にわたってインターネット愛好家の裏庭だったはてなブログ界隈が、突如、フォロワーを集って養分にせんとする山師の一団に占拠されてしまったのは、当時の私にとって苛立たしいことであり、義憤を感じさせることだった。
その義憤も所詮はエゴでしかなく、ブログは誰でも書けるし、誰でも書けるべきものだというのはわかっていた。それでも苛立ちが理解を上回った。だから私は「ブログで金儲け」な状況に嫌悪を表明しておきたかった。あくまで個人的な嫌悪だとしても、だ。
2018年。現実とシームレスなインターネット
それから三年の月日が流れて、インターネットも私も変わった。
案の定、「ブログで金儲け」は長続きしなかった。プロブロガーなるものを喧伝していた人々はほかの鉱脈へと移動し、遅れてやってきたフォロワー達のブログは軒並み潰れた。三年経ってもブログを辞めなかったのは、元からブロガーだった人々か、もっと気骨のある精神でブログをやっている人々か、プライベートな記録としてブログを楽しんでいる人々だった。
しかし、インターネット全体でいえば、ここ十年でインターネットはますます金の匂いがするようになった。「ブログで金儲け」の連中が漂わせていた、あの品性下劣な振る舞いは目立たなくなったけれども、インターネットを介して金銭を得ることはカジュアルな行為になった。
プロはともかく、副業としてブログや動画配信に手を出すのは珍しいことではない。ヤフオクやメルカリといった、オンラインで個人が金銭をやりとりするサービスはますます繁盛している。そうしたやりとりに対して、若い世代は開かれているようにもみえる。
私自身の認識も、そうしたなかで変わっていった。
このブログはgoogleアドセンスを貼り付けていないし、PVもぜんぜん大したことはない。それでも、書籍に関連したことを書けばなにかしら影響はあるだろうし、そうでなくても影響力を稼ぐという意味合いはゼロではないのである。ここに書いた「PVの金貨、銀貨、銅貨」という発想もその最たるものだ。
インターネットに人がまばらで、オタクと研究者の遊び場だった時代は、インターネットで得られる影響力は金銭とは縁の遠いものだった。そこで得られた人間関係も、「ネットはネット、リアルはリアル」という括りを出るものではなかった。
今は違う。インターネットで得られる影響力は、現実の金銭や影響力に近い。少なくとも、そういった可能性を無視できなくなり、そういった可能性を意識しながらインターネットで立ち振る舞う人が珍しくなくなった。
これは、金銭目当てにブログや動画配信やnoteをやっている人だけの話ではない。フェイスブックやインスタグラムをやっている人々も、ソーシャルキャピタルを再生産するツールとして意識しているなら同じようなものだ。もし、現実の人間関係から逃避するためにフェイスブックやインスタグラムをやっている人がいるなら、その人は例外と言っていいかもしれないが。
「ネットはネット、リアルはリアル」などという括りは、今日では通用しない。少なくとも、以前よりは通用しづらくなった。
現在でも私は、ブログはまず自分自身が読み返すためのもの・自分自身の趣味のツールというスタンスを捨ててはいない。とりわけアニメやゲームやワインについての文章は、趣味性の結晶だ。
だからといって、このブログが現実の金銭や影響力と無縁だと強弁することはもはやできない。
2010年~2012年頃の、過去のインターネットと現在のインターネットの端境期の頃には、「趣味志向のブログライフ」を声高に叫ぶ余地があった。いや、インターネットが現実に吸収されつつある時期だったからこそ、従来のネットのありかたを推して、迫りくる現実に抵抗する余地があったかもしれない。
しかし、インターネットがここまで現実とシームレスになった今、「趣味志向のブログライフ」を、こと私がシュプレヒコールしても、白けてしまうだろう。というか、私自身が白けてしまっている。時代が変わり、私の立ち位置も変わった。変化は、従容と受け入れるしかない。
美意識や美学は今も重要
ただまあ、現実の金銭や影響力とここまでシームレスになったからこそ、金銭の稼ぎよう、影響力の稼ぎようの美意識や美学が今まで以上に問われるようになった、ともいえるかもしれない。
金銭や影響力の誘惑は、ときに人間を狂わせ、堕落させる。それらを稼ごうと頑張っているうちに、身持ちが悪くなってしまう人・後に引けなくなってしまう人は、いまどき珍しくない。金銭や影響力がダイナミックに浮沈するインターネットに参加すれば、自分の欲望と向き合わなければならなくなる。
そうしたなか、PCやスマホをたえず覗き込んでいる人というのは、金銭や影響力をたえず覗き込んでいるのか、それとも自分自身の欲望に憑りつかれて、自分自身の欲望に魅入られているのか、ちょっとわからない。ああ、ここまで書いてみると、自嘲せずにはいられなくなる、ここに書いたことは私にもそのまま当てはまるじゃないか!
それでも、社会的体裁には相応の意味があるのだから、お下劣に稼ぐのか否かは個々のプレイヤーがよく考えて、戦略にあわせて整形しておくべきポイントだとは思う。自分が稼ぎたいもの・稼ぎやすい方法にあわせて、インターネットの美意識や美学を調整しろ──そういう発想があるのと無いのでは、やっぱりどこか違ってくるんじゃないかなぁ、というのがブログ歴13年の人間としての所感です。