シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

社会適応や役割が嘘や自己否定になってしまう人の世界と、そうでない人の世界(のわかりあえなさ)

 
ta-nishi.hatenablog.com
 
リンク先の文章には、弱者男性論者は社会適応に対してあまりにも潔癖すぎる、といったタイトルになっている。が、タイトルどおりの内容ではなく、
 
・筆者自身の社会適応に対する潔癖性の話
・過去の脱オタクファッション (略して脱オタ) の話
・過去の脱オタと最近のいわゆる恋愛工学の近しさの話、それと就活の話
 
が混じっている。議論としてはゴチャゴチャしているが、個人ブログの述懐としては良さがあって、こういう文章が読めるのが個人ブログだったよね、などと思った。
 
釣られて私も個人ブログっぽい述懐をしようと思う。脱オタが語られていた頃に感じていた小さな違和感を出発点として。
 
 

脱オタする人は何を望み、非モテ論者は何を怖れていたのか

 
90年代後半から00年代にかけて、脱オタなるものがネットの小さなムーブメントになったことがあった。脱オタについて詳しく知らなくても、ドラマ『電車男』がヒットした頃に売られていた、『脱オタクファッションガイド』という本なら知っているって人もいるんじゃないだろうか。
 

脱オタクファッションガイド

脱オタクファッションガイド

 
当時、脱オタについて語った人にもいろいろいて、「オタクな趣味もやめるべき」という人もいれば「オタクな趣味を続けたって構わない」という人もいた。異性にモテたがる人もいれば、とりあえずコミュニケーションの助けにしたい人もいた。とはいえ、「外観を整えることで社会適応の助けにする」という点では全員が共通していたと思う。
 
逆に言うと、「外観を整える」という手段をとおしてゴールしたいゴールは各人各様だったともいえる。たとえば私の旧サイトには「脱オタ事例検討」というページがあるけれども、ここに挙がっている2004~2008年の事例ひとつひとつを振り返っても、期待されるゴールがまちまちだったとみてとれる。
 
こうしたゴールの相違は、私自身も感じていた。たとえば当時、脱オタに過大な期待を寄せている人が結構いた。でもって興味深いのは、脱オタを実践している人だけでなく、脱オタを批判している非モテ論者にも脱オタに過大な期待を(というより過大な怖れを?)抱いている人がたくさんいたことだ。
 
外観を整えれば、確かに社会適応の足しになる。でも、それが社会適応を根幹から変えてしまうわけではないし、モテるほどの大きな変化をもたらしてくれるわけでもない。ところが脱オタを実践する人のなかには、そういう大きすぎる期待を胸に脱オタに臨む人が案外いたのである。
 
と同時に、脱オタを批判する非モテ論者の人たちも、外観を整えることがあたかも自己否定であるかのように、それこそ冒頭リンク先の人が「悪」と述べたのと同じ調子で脱オタを批判していた。
 
脱オタに大きすぎる期待を寄せる人も、脱オタを自己否定と批判する人も、本当はよく似た者同士だったのではないだろうか。
 
外観を整えればモテに生まれ変わると思い過ぎるのと、外観を整えれば自己否定になってしまうと思い過ぎるのは、「たかが外観を整える程度のこと」を過大評価している点では共通している。前者は、外観を整えるということを肯定的に過大評価しているし、後者は、外観を整えるということを否定的にやはり過大評価しているわけで。
 
脱オタが流行した頃には、外観を整えるために服を買い揃えていたはずが、気が付けばファッションオタクになってしまう人もいた。それこそ、2chのファッション板の脱オタスレッドではそういった書き込みを見かけたものだ。当時の私はそこに違和感をおぼえて「脱オタといっても最低限のTPOにすぎない」と述べたりもしていたけれど、ファッションオタクになっていく人の耳には届かなかっただろう。
 
当時は十分に意識できていなかったけれども、2021年から振り返ってみれば、ファッションオタクになった人が欲しかったものが何だったのか、わかる気がする。彼らもまた、脱オタに大きすぎる期待を寄せていたのだろう。
 
脱オタをとおして大きすぎる期待を現実化する方法は幾つもあるが、そのひとつに、他人よりはっきりと優越したファッションを身に付けることでナルシシズムを充たすというものがある。ファッションオタクになれば、実際にはモテなくても高価なブランド品が自分自身にうぬぼれを許してくれる。または、自己改造が叶ったという体裁を授けてくれる。
 
が、しかし「たかが外観を整える程度のこと」で過大な期待を満足させるためには、ファッションだけで優越感を充たせるほどの過度なファッションに到達せざるを得ない、ともいえるわけだ。当然だろう。モテる/モテないや、コミュニケーションがうまくなる/うまくならないが、外観、とりわけ服飾だけで決まるわけがないのだから。
 
「たかが外観を整える程度のこと」が自己否定に繋がってしまう非モテの人も、外観を整えるということをたぶん過大評価していた。過大評価でないとしたら、外観を整えただけで自己否定されてしまうほどに自己像が脆弱だったか、自己像が移ろいやすかった、というべきか。さもなくば、外観を整える程度のことがあまりにも大きな自己改造や自己欺瞞とうつったのか。
 
 

役割を演じることが「悪」になるということ

 
ここまで読んだうえで、冒頭リンク先で述べられている以下のフレーズを読んでいただきたい。
 

私にとっての「脱オタ」は、喩えるなら就活のようなものだった。就活では誰も「ありのままの自分」で勝負などしようとはしない。経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、自分がいかに企業にとって魅力的な「商品」なのか「偽りの自分」を作り出してアピールする。潔癖な人間ほどこの行為を「悪」と感じるだろう。くだらない茶番であり、騙し合いだと感じるだろう。しかしこの「悪」に染まらなくては、就活という戦争を勝ち抜くことはできないのだ。

https://ta-nishi.hatenablog.com/entry/2021/05/05/155031

私にとって脱オタとは「たかが外観を整える程度のこと」であり、ひいてはもっとコミュニケーションできるようになっていくことだったが、リンク先の筆者にとってはそうではなかった。"経歴を盛れるだけ盛り、時には詐称までし、偽りの自分を作り出してアピールするもの"だったそうだ。これは、脱オタ=自己否定とみなしていた00年代の非モテの考え方によく似ている。筆者は文中で「非モテからの脱却に成功した」と綴っているが、外観を整えることが嘘になり、自己否定になってしまうというそのありよう・その考え方は、非モテからの脱却に成功したというには00年代の非モテの考えに似すぎている。
 
就活についての考え方もそうだ。
 
就活が「ありのままの自分」をさらけ出せる場所ではなく、企業が求める役割を演じてみせなければならない、一種の茶番であると言われたら確かにそのとおりだ。就活に疎外がないとは、到底言い切れない。だが、それは「悪」というほど「悪」だろうか。そして役割を演じてみせる就活生が全員、詐称といっていいほど自己否定しなければ役割を演じられないものなのだろうか。
 
私なら違う、と思う。
たとえば外観を整えることには、社会規範やファッションのコードに従わなければならない側面があるが、それらをとおして可能な自己主張、それらをとおして楽しむ自己主張もあるのではないか。あたかも俳句や短歌やライトノベルの様式に従うからといって自己主張が不可能ではない(というより規範やコードをとおして自己主張する面白みすらある)のと同じように。同じく就活や入試面接に際しても、たとえそれが茶番だったとしても、茶番のなかでどう自己主張するのか、期待される役割のなかで自分自身をどう出していくのか工夫している人も多かったのではないだろうか。
 
このように考え、述べる私のことを「潔癖ではない」「汚れた大人」とみる人もいるに違いない。ところが私は高校生ぐらいからこのような私だったのですよ。さしずめ私は、汚れた大人になる前から汚れた青少年だった、となるだろうか。
 
しかしそんな私なので、脱オタが自己否定にも自己欺瞞にもならない。入試面接も嘘にはならなかった。もちろんそれらには疎外がないわけではないけれども、だからといって、それらが完全に疎外でしかないなどということはない。自分を偽っているという印象は皆無だ。私はどんな役割を演じる時も、結局、私として役割を演じる。何を演じようがどんな規範やコードに従おうが、結局そこには私の人格、私の筆跡が宿っている。
 
と同時に、リンク先の筆者に比べると私は嘘と本当の境目がくっきりとしない世界を生きていて、悪と善がくっきりしない世界を生きている。私と同じく、くっきりしない世界を生きている人は世の中に少なくないと思う。もちろんリンク先の筆者にように、くっきりした世界を生きている人もたくさんいるのだが。昔、『新世紀エヴァンゲリオン』のなかで赤木リツコは、
 
「潔癖症はね、つらいわよ。人の間で生きていくのが。」
 
と言ったが、実際そうなのだろうと思う。なぜなら人間世界に完全な嘘と本当はあまりなく、完全な悪と善もあまりないからだ。演じることと自己表現することの境目も、実のところあいまいだ。その、あいまいさに適応することを嘘と断じ、悪と断じることが許されるなら、現代社会に限らず過去と未来のすべての人間社会が嘘と悪であり、大半の人間もまた嘘と悪であろう。
 
余談だが、この視点を突き詰めていくともう一つの疑問が不可避になる。この視点で本当とみなされ、善とみなされる「ありのままの自分」とはいったいなんなのか? 人はよく、ありのままの自分が認められると嬉しくて、ペルソナをかぶった自分が認められても嬉しくないと言ったりするが、ありのままの自分とペルソナをかぶった自分はどこまで峻別できるものなのだろうか。もし峻別できるとして、ありのままの自分が出せている状態とは、いったいどこにどれだけあるのだろうか。
 
人間は、いついかなる時も社会性や通念や装いを備えているものだから、私には、「ありのままの自分」を純粋に出せている瞬間とは、全裸で大通りを駆け抜けたい衝動に駆られた人が実際そのとおりにする瞬間ぐらいしか思いつかない。「それは極論だ、たとえば親しい人とプライベートで語り合っている時にはありのままの自分が出せている」と反論するなら、だったらあなたのいう「ありのままの自分」とは程度問題でしかないのですねと指摘するしかない。なぜなら人間は、親しい人とプライベートで語り合っている時もある程度までは社会規範や通念や装いに則って語り、行動しているものだからだ*1
 
 

そもそも世界観や自己像が大きく異なっていたのではないか

 
話を戻そう。
 
00年代の脱オタとは「外観を整えることで社会適応の助けにする」ものだった。けれども、その「たかが外観を整えること」をどのように解釈し、どのような期待を投げかけていたという主観レベルの受け取り方や解釈の仕方は人それぞれで、当時から大きく異なっていたのだろう。
 
外観を整えることが「嘘」や「ペルソナ」や「悪」になってしまう人もいれば、そうではない人もいた。表面的には同じことをやっているようにみえても、主観レベルでは全く違ったことを考え、違ったことを期待していたと言って良いだろう。嘘やペルソナや悪として外観を整えていた人なら、外観を整えることが自己否定になると批判した非モテ論者のセンスにも共感しやすかったに違いない。
 
のみならず、就活だって、入試面接だって、恋愛だってきっとそうなのだ。
それらに臨むにあたり、社会規範や通念や装いに服従しなければならないことが、即座に「嘘」や「ペルソナ」や「悪」になってしまう人もいれば、それらのなかで自己主張をやってしまう人もいる。リンク先の筆者は前者だったし、私は後者だった。そこには大きな相違があったはずだったし、00年代の私も小さな違和感をおぼえていたけれども、それを言語化するすべを持っていなかった。
 
現在の私には、こまごまとした実践の出来不出来より、この自己像を巡る捉え方の違い、真贋や善悪を巡る線引きの違いのほうが個人の社会適応にとって核心的問題ではないかと思える。外観を整えたり就活をしたりすることが即座に自己否定や嘘になってしまう人は、そうでない人より不器用にしか生きられないし、自分自身のことも、他人のことも、簡単に許せなくなってしまうのではないか。あるいは社会というものを私が見ているよりもずっと悪く、ずっと恐ろしく、ずっと不信にみちたものと見ざるを得なくなってしまうのではないか。
 
最終的には、そのような人にとって人間社会に生きるということはすべて嘘となり、真正な、ありのままの自分を形而上の世界に想像するしかなくなるのではないか? (もしそうだったら、これは宗教でなければ太刀打ちできないのではないか?)
 
ここまで、私は私が見ている社会や世界や自己像にもとづいて冒頭リンク先の文章について述べてきた。私たちは同じように社会や世界をみているようにみえるし、同じように言葉を用いているようにみえるが、実際にはそうではない。主観レベルの受け取り方や解釈にはかなりの違いがある。そしてきっと、あらゆる行為や出来事にこの違いが反映されていて、それぞれがそれぞれのかたちで人生を体感しているのだろう。
 
社会適応全般についても、同じことがいえる。
表向き、同じように就活に臨み、同じように第一志望の企業から内定を勝ち取った二人の就活生がいたとしても、その二人の主観レベルの受け取り方や解釈は大きく異なっているかもしれない。恋愛も同様である──異性に好かれるためにおめかしすることを、どう解釈し、どう受け取るのか。異性に自分が愛されていることを、どう解釈し、どう受け取るのか。本当は自分が愛されていないと判定する基準や、恋愛が信じるに足りないと判定する基準も、きっと人それぞれなのだろう。
 
最近は、主観レベルの受け取り方や解釈の違い、「その人自身にとって世界がどのようであるかの違い」を語る機会が少なくなったと私は感じている。いまどきのトレンドはそういった主観レベルの核心的問題をうんぬんするのでなく、たとえば認知行動療法のような、第三者でも観測可能・記述可能な特定の問題に焦点をあててアプローチするほうだろうと思う。そのほうがプラグマティックだし、だいたい、個人の世界観や人生観を改変するようなアプローチが簡単にできるとは思えない(し、できたとしても簡単にやっていいとも思えない)。
 
それでも、これまた『新世紀エヴァンゲリオン』から引用するなら、「世界はきっと僕だけ」で「真実は人の数だけ存在する」のもまた事実なのだ*2
 
 

たとえわかりあえなくても。

 
述懐ついでに、主観レベルの核心問題、自己像のありかたについての根本的問題についてもう少しだけ。
 
若かった頃の私は、そういう世界観や自己像を改変するための方法をあれこれ考えていた。たとえば(旧TV版や旧劇場版の)『新世紀エヴァンゲリオン』の登場人物たちのような、風が吹けば自己像が動揺してしまうような、良く言えば変わりやすい・悪く言えば動揺しやすい世界観や自己像をどうしたら変えていけるのか?とか。
 
私自身についていえば、『新世紀エヴァンゲリオン』からの数年間で自分が大きく変わったつもりでいたけれども、リンク先の筆者に比べれば(不登校の頃を除いて)私の自己像ははじめから頑強だったのだろう。でもって、脱オタや入試面接や恋愛が自己否定や嘘になってしまうことはなかった。だから、今日述べたような問題系のなかでは私はほとんど変化していない。
 
そして今の私は、そうした世界観や自己像を改変するのは無理だと思っている。控えめに言っても困難な事業で、行く先の知れないトライアルにならざるを得なくて、たとえば精神医療の場で実践可能・再現可能なものとは思えない。
 
言葉は、そうした世界観や自己像の相違を乗り越えて人間同士を繋いでくれる。ところが言葉が繋ぐのは言葉だけで、それぞれの言葉はそれぞれの世界観や自己像に基づいて解釈され、受け止められる。行為や振る舞いも同じだ。同じ言葉をしゃべっているようにみえて、同じ行為や振る舞いをしているようにみえても、主観レベルでそれがどのような意味を持ち、自己像のありかたをどれぐらい揺るがすかは個人によってまちまちだ。
 
その、個人によってまちまちな世界観や自己像を確かめながら人をみて、人について考える技法としての精神分析を、若かった頃の私は愛していた。いや、今だってきっと愛しているはずだ。だけど今は、他人の世界観や自己像が遠くに感じられて、お互いを近づけたいと思うことも減った。もう、無理に近づかなくてもいいし、もう、無理にわかりあえなくてもいい。『新世紀エヴァンゲリオン』のなかで葛城ミサトは、「大人になることは近づいたり離れたりを繰り返して、お互いがあまり傷つかずに済む距離を見つけ出すこと」と言っていたが、そういう意味では私は大人になったと言えるし、大人になってしまったとも言える。
 
そうやってお互いがわかりあえないATフィールドの壁の住人であることを自覚しながら、言葉や行為や振る舞いをたのみとしてつながりあい、つながりあったつもりになるしかない私たちは、確かに人類補完計画をしなければならない不完全な生き物に喩えられるべきなのかもしれない。が、それを望まずにいられず、実行に移してしまったゼーレの老人たちは、大人とは言えない何者かだったのだなと思う。
 
私なら……碇シンジの選んだ選択をよしとしたい。
わかりあえなくても、それぞれの世界観や自己像のなかで生きるしかなくても、それでも人の間で生きていくことを私なら望む。
 
最後は『新世紀エヴァンゲリオン』の話になってしまったけれど、実際、この「わかりあえなさ」は『新世紀エヴァンゲリオン』の大きなテーマだったはずなので、書いている私にとっては至極自然な流れだった。わかりあえなくても、わかりあおうとしながら生きていく。
 

 
 

*1:補足すれば、だから私は「ありのままの自分」を私たちが純粋に出せるのは、かなり特異な状態を除けばありえないと思っている。

*2:これらの台詞はTV版『エヴァンゲリオン』26話からの引用