シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

認知症と、自己選択の彼岸について

 
「わが家の介護」と「あの家の介護」は違って当たり前 精神科医の視点で見る高齢者介護|tayorini by LIFULL介護
 
 
 リンク先では、認知症介護についての一般的な話をしたつもりです。認知症にはアルツハイマー型や脳血管性認知症といったさまざまなタイプがあるだけでなく、同じ病名でも目立つ症状は人それぞれで、たとえ症状が同じでも認知症の当人を巡る文脈や環境はそれぞれ、ゆえにベストの介護もそれぞれ……といった話を書きました。
 
 認知症になった人を診ていて考えさせられることはいろいろありますが、ここでは「自己選択・自己責任の向こう側としての認知症」について、少しばかり思うところを書きます。
 
 認知症が進行するにつれて、その人の自己選択能力は低下していきます。それに伴って、たとえば自動車運転免許返納のように、社会活動にも制限が及ぶことになります。もっとも顕著なのは、成年後見制度(昔でいう禁治産者)という、自己選択の法的な制限でしょう。
 
 人は、赤ちゃん~子どもという、自己選択が能力的にも法的にもできない状態で生まれてきて、やがて認知症になれば再び自己選択が能力的にも法的にもできない状態へと還っていきます。現代社会において人間を語る際、その自己選択能力と、それに伴う責任の問題はしごく当たり前のものとみなされていますが、子どもや認知症の人と向き合う時、それが必ずしも普遍的ではないこと、十全の能力を前提とした発想であることを私はいつも意識します。
 
 赤ちゃん~子どもの「自己選択ができない状態」は、どんな親のもとに生まれたのかをはじめ、境遇は完全に運次第です。もし、インド哲学の輪廻転生の発想で考えるなら、赤ちゃん~子どもがどういう親のもとに生まれ出てくるのかは、前世のカルマ(因縁・縁起)による、ということになるでしょう。輪廻転生の発想を禁じ手とするなら、その由来・その必然性はどのように呼びならえばいいのでしょうか。偶然、と呼ぶしかありませんかね。それとも、そういったことを考えるのは禁忌なのでしょうか。
 
 ですが、認知症、とりわけ高齢者の認知症における「自己選択ができない状態」はそうではありません。赤ちゃんや子どもの場合とは違って、認知症に至るまでに積み重ねてきた自己選択によって、そのときの境遇はかなり左右されます。そのような過去の積み重ねも偶然に左右されるのは言うまでもありません。が、認知症に至るまでの自己選択によっても境遇が大いに変わる、という点で赤ちゃんとは決定的に異なっています。
 
 赤ちゃん~子どもの境遇と違って、「高齢者の認知症になったときの境遇からは、本人が積み重ねてきたカルマの脈絡が読み取れる」と言い換えることもできるかもしれません。
 
 認知症症状のなかには、発病前の本人の積み重ねてきたカルマをたちまちひっくり返してしまうような恐ろしいものもなくはありません。ですが全体としては、認知症介護を巡る状況に病前のカルマが多かれ少なかれ反映される、とは言えるように思います。
 
 

自己選択によらず、過去のカルマによって生きるという境遇

 
 このことをもって、「認知症になった後のことを考えて善行を心がけなさい」などと説教したいわけではありません。
 
 そうではなく、私は少し不思議な気持ちになるのです。 
 
 
 現代人全般が自己選択を尊いものとみなし、そうやって生きていくのを自明のこととみなしているというのに、認知症になった高齢者は、自己選択によって生きるのと同等以上に、過去の積み重ねにもとづいて生きています。というより、過去の積み重ねにもとづいて生かされている感じが、認知症介護の風景には漂っているように私には見受けられます。
 
 なかには、「自己選択ができなくなったら、もう生きているとは言えないから私は認知症になったら速やかに死ぬ」と鼻息の荒いことを言う人もいるかもしれません。
 
 自己選択=生とみなす世界観の明確な人が、そう主張することは自然なことではあります。が、実際に「自己選択ができなくなっていても実際に生きている人間」としての認知症の人が、家族や福祉と連なるかたちで社会の一部として生きているのを目のあたりにすると、自己選択の彼岸にあっても人間は確かに生きているじゃないか、という事実を突きつけられるのです。そのときの自己選択によってではなく、過去の積み重ねや文脈に引っ張られて生きている(あるいは生かされている)人間という存在の別の側面に、はたと気付かされるのです。
 
 「人は自己選択のみによって生きるにあらず」──介護する人と介護される人の営みをみていると、人は一人で選択して一人で生きているだけでなく、生かし・生かされながら家族や社会システムの一部として存在しているのだということを改めて実感させられます。そもそも、そうでなければ認知症の進んだ人という存在は存在し続けられません。
 
 認知症という疾患は、自己選択という、現代人にとってきわめて重要な要素を蝕みます。それだけに、自己選択の外側で生の輪郭をかたちづくっているものを想起させるところがあるように、私は感じています。
 
 
 
 
 
 この話をこの方向で進めると、いよいよ地に足のつかない、俗世離れした仏教っぽい話になってしまいそうですし、少し風邪気味で頭が熱くなってきたので、今日はこれでおわりにします。