シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「不快な奴をブロックして構わない」社会と「アライさん」界隈

 
個人の幸福は「お金」ではなく「不快なやつは全員ブロック」で実現される。 | Books&Apps
 
上掲リンク先は賛否両論のありそうな内容だが、読んで自分の考えを練るのに向いていると思う。これを読み、2019年にtwitter上で湧き出した匿名の「アライさん」界隈のことを私は思い出した。
 
「アライさん」界隈とは、2019年の春ごろにtwitter上に無数に現れた、「○○なアライさん」を名乗る匿名アカウント群だ。アニメ『けものフレンズ』に登場する、ちょっと不器用なアライさんというキャラのアイコンや語り口を借りている。
 

 
ねとらぼの紹介記事では、アライさんを以下のように記している。
 

・借金の返済に苦しむアライさん
・ギャンブルがやめられないアライさん
・大学を中退したアライさん
・薬物依存のアライさん
・性風俗店で働くアライさん etc...
 Twitterにおけるアライさん界隈(かいわい)は、とにかく何らかの困難を抱えている傾向が極めて強い。これは原作のちょっと暴走気味だが元気で明るいアライさん像とはかなりの距離がある。当たり前だが、原作のアライさんは借金にもギャンブルにも薬物にも苦しんでいない。「けものフレンズ」は社会の暗部をえぐるような作風のアニメではない。

 
2020年になっても、アライさんの様子はほとんど変わらない。アライさんの姿を借りた匿名アカウントたちは、それぞれ、日常生活では吐露しづらい内心を書き綴っている。
 
そのことから考えるに、アライさんを名乗る匿名アカウントの筆者たちは、日常生活のなかではそうした内心を十分に吐き出せないのだろう。FacebookやLINEの、日常に紐付けられやすいアカウントにもそういうことは簡単には書けない。実生活で簡単に吐露できることなら、わざわざアライさんのアイコンなど借りる必要など無い。
 
 

「不快な奴をブロックして構わない」社会=「不快な言動が禁じられた」社会

 
こうしたアライさんの境遇を踏まえたうえで、「不快な奴をブロックして構わない」社会について考えてみる。
 
冒頭リンク先で高須賀さんは、ちょっと挑発的に「多様性とはいうけれど、付き合いたい人間とだけ付き合ったほうが幸福になれるのでは?」と問いかけている。
 
現代社会は、多様性を許容しあうことで成り立っている、といわれている。少なくとも社会には、多種多様な価値観や習慣の人々が存在していて、たとえば東京のような大都市には本当にいろいろな人々が存在し、それぞれ暮らしているのがみてとれる。
 
その一方、私たちひとりひとりには人間関係を選択する自由があり、お互いを心地よいと感じる人、気安く付き合えると感じる人同士がお互いを選び合う。そうした選別や選好の結果、社会全体としては多様性が保たれていても、個々人のライフスタイルは多様性を欠いていることがしばしばある。
 
たとえば年収1500万円のホワイトカラーな会社員が、日経新聞を読むような価値観や習慣を持った同僚に囲まれ、似た者同士のような友人や家族に囲まれて暮らしているとしても、おかしなことではない。
 
高須賀さんはそうした実生活のありようを、ちょっときわどく、以下のように綴ってみせる。
 

気の合うパートナーと家庭を築き、人間関係が安定したリベラルな職場で働き、週末は共通の趣味を持つ友人と過ごす。
SNSをやってるのなら、不快な話題を垂れ流す人は全員ブロックすればいい。
不快な話題を垂れ流す人は、あなたを不快に着目させる悪者である。

 
このような選別や選好に基づいたライフスタイルを、まったく多様性が乏しいと腐すのはたやすい。
しかし人間関係が自由選択となった現代社会のなかで、人間関係の選別や選好を行っていない人間が、たとえば東京に、たとえばインターネットに、いったいどれだけ存在するだろう?
 
もちろん程度問題ではあるのだけど。
 
それでも人間関係が自由選択である限り、私たちはどこかで自分たちにとって好ましい相手と付き合おうとし、どこかで不快な相手を敬遠せずにはいられない。コミュニケーションのコストやリスクをできるだけ減らし、コミュニケーションのメリットをできるだけ増やしたいと合理的に考えれば考えるほど、コミュニケーションの対象を選ばずにいられなくなってしまう。
 
SNSにおけるブロックは、そうした選別のなかでは一番わかりやすい。だが現実の人間関係の選別や選好は、ブロックほど明瞭ではない。明瞭ではないからこそ、誰が選ばれ、誰が敬遠されるのかの問題は面倒で、難しい。 
 
私たちの人間関係は自由選択になった。
だが、自由だけがもたらされたわけではない。
同じように他人も人間関係を選択・選好するのだから、私たちは他人に選ばれなければならなくなった。
 
他人に選ばれるよう、他人に敬遠されないよう、意識すればするほど私たちはみずからの言動を自己検閲しなければならなくなる。
 
なかには天真爛漫に振る舞っても他人に選ばれ、敬遠されない幸運な人もいるだろう。
 
とはいえ、そんな人は少数派で、大多数は他人を選ぶ自由を行使すると同時に、他人に選ばれ敬遠されない自分であるよう、努力しなければならない義務を抱えている。
 
「不快な奴をブロックして構わない」社会とは、要はそういう社会である。
 
気に入らない相手や不快な相手を敬遠する自由があると同時に、他人に選ばれなければならず、他人に不快がられないよう努力しなければならない社会だとも言える。
 
そのような社会では、会社同僚はもちろん、友達や家族にすら、選ばれ不快がられないよう、努力しなければならない。そうしなければ誰からも選ばれず、独りぼっちになってしまうかもしれない。
 
天真爛漫に振る舞っても他人に選ばれる人なら、「そんなに神経質にならなくったって大丈夫」と言ってのけ、そうした努力を意に介さないかもしれない。だが世の中には、精いっぱい努力してようやく相手にしてもらえる人、ようやく不快がられずに済んでいる人もいる。いわば、モテにくい人にとって、他人に選ばれるための努力はたいへんな重荷である。
 
そんな重荷をストレートに背負いながら学校や職場に通い続けなければならない人にとって、日常はどれほど息苦しく不自由なものだろうか!
 
 

「アライさん」のブルースはどこにも届かない

 
私たちは「不快な奴をブロックして構わない社会」を生きている。というより、ブロックほど明瞭ではないかたちで選別や選好を働かせあい、それでも社会の多様性というお題目に違反しないことになっている社会を生きている。
 
他方、そうした自由選択が徹底されればされるほど、選ばれるための言動を、不快がられないような言動を、私たちは強いられる。「アライさん」界隈で吐露されるような内心を、他人に曝すわけにはいかなくなる。
 
表向き、私たちの言動は自由だ。
そして実際、街には多種多様な人々が暮らしてもいる。
ところが実生活では、他人に選ばれるよう、不快がられたり敬遠されたりしないよう、努めないわけにはいかない。
 
そういった努力が少なくて済む人には、この社会の自由選択のうまみが意識されやすかろう。だが、そういった努力に苦心惨憺している人には、努力を強いられ、不自由を強いられる辛さが意識されやすい。そして前者の人々が後者の人々と接点を持たないとしても「社会の多様性というお題目」に違反しているとは、みなされないのである。
 
「不快な奴をブロックして構わない」社会を謳歌している人々は、「アライさん」界隈のブルースを不快だからという理由でブロックする自由を持っているし、おそらくそうした自由を行使している。
 
「アライさん」界隈からの声がシビアであるほど、重苦しいものであるほど、その声はブロックされやすく、敬遠されやすく、誰にも届かぬ独白で終わってしまう。
 
しかも無数の「アライさん」たちは、それぞれバラバラで名前も無く、群れてひとつの世論を作ったり、群れ続けてひとつの政治集団を作ったりできないため、「不快な奴をブロックして構わない」社会にモノ申すムーブメントには発展しない。個別の「アライさん」たちは、どこまでも匿名の「アライさん」でしかない。
 
 

簡単に批判できるようで、一筋縄ではいかない

 
こうした「不快な奴をブロックして構わない」社会を批判し、嫌悪することは、一見、簡単そうにみえる。ただし、その際には社会を批判するだけでなく、選好や選別にもとづいた人間関係を築き、まさにそのような社会に乗っかっている自分自身をも批判しなければならないように、私には思える。
 
少なくとも、この社会の恩恵を受けまくって、選別や選好を働かせまくっている個人が、そのことを棚に上げて「不快な奴をブロックして構わない」社会を批判するのは、どこかテクニカルというか、アクロバティックな何かが必要ではないかと思う。私はまだ、そんな技量を身に付けてはいないから、この状況を見ていることしかできない。あるいは、この状況のメカニズムを理解しようと努めることしかできない。それが歯がゆいのだけど、今の自分の考えを言語化してみたいと思い、半熟卵のようなこの文章を残しておくことにした。