シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

多様な社会と、他説を否定したい私達の矛盾がわからない

 
新年あけましておめでとうございます。
年をまたいでも元気が出ないので手短に。
 
1月3日、映画『天気の子』が地上波初放送された。
 

天気の子

天気の子

  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: Prime Video
 
予想どおり、twitterにはいろいろな意見や感想が充満していて賑やかになっていた。『天気の子』のような作品にいろいろな意見や感想が出てくるのは似つかわしいことだと思う。いろいろな意見や感想が出てくるのは、視聴者がさまざまな考えを持っていることの反映に違いないからだ。
 
が、自分の意見や感想を良しとするだけでなく、他人の意見や感想を否定したい人、殲滅しようとしている人も見かけた。そういう人の割合は全体の1割もいたかどうか。が、割合の高低はともかく、そういう人が存在したことははっきりと思い出せる。
 
『天気の子』のような作品に対していろいろな意見や感想が出てくる社会は、ひとつの意見や感想だけが出てくる社会──たとえその意見や感想が"正しい"としても──よりもよほど健全であると私は思う。ひとつの娯楽作品に対し、いろいろな意見や感想が出てくるのはいいことだ。
 
ところが実際には、一定の割合で他人の意見や感想を否定したい人・殲滅したい人が出てくるのである。
 
『天気の子』では他人の意見や感想を否定しない人でも、自分が関心を持っている別の領域では否定や殲滅を望む人もいる。たとえば芸術家の誰それ、小説家の誰それについて、他人の意見や感想を否定したい人などいくらでもいる。ことが政治や思想、利害に関連した問題になれば、他人の意見や感想を否定するのがもっと当たり前になってくる。多様な社会において、ひとりの人物、ひとつのイシューにいろいろな意見や感想が出てくる社会は、そうでない社会よりもよほど健全であるはずだけど、現実にはその一方で、その多様性には言論の殺し合いというか、単なる自説の肯定だけにとどまらない、他説の否定が伴っている。
 
「多様な意見や感想が存在することと」「他説の否定や殲滅は同時に成り立つことだ」と突っ込みを入れる人もいるかもしれない。そのとおり。多様な意見や感想が存在しつつ、その意見や感想が言説空間で鍔迫り合いを続けているのだからそれでOK、という見方もできる。政治や思想や利害をゼロサムゲームととらえるなら、猶更そのとおりかもしれない。そしてアメリカ大統領選挙で候補者同士がお互いのネガティブな要素をことさら指摘することが示すように、それはメソッドとして有効なのだろう。
 
だけど、そういうゼロサムゲームを続けていては、言説空間のパイの取り合いが続いてしまう。それどころか、お互いをわかりあったり妥協を形成したりすることはどんどん難しくなるし、その、難しさがほとんど極まったのがここ何年かのインターネットの言説空間ではなかっただろうか。
 
それに、多様な意見や感想の存在が、否定や殲滅の平衡状態に依存しているとしたら、どちらかの意見や感想がマジョリティを占めるようになってしまったらマイノリティとなった意見や感想はどんどん否定され、文字どおり殲滅されてしまう。少なくとも、人前では言えない・匿名のネット空間でしか存在できないぐらいまでは殲滅され得る。
 
私たちは、個人の意見や感想を重視する国に住んでいるということになっているし、インターネットの言説空間をみる限り、実際、そうした自由は今のところ保たれていると思う。
 
他方で、その自由のなかで私たちはしばしば、他人の意見や感想を否定し殲滅しようとする。結果、ときにはひとつの意見や感想が退場を余儀なくされることもある。それが、どこまで望ましい意思決定のプロセスと言えて、どこから望ましくない意思決定のプロセスと言えるのか、私はいまもってよくわからない。それとも「これでいいのだ」と言ってしまえばいいのだろうか。
 
というよりここ数年、考えれば考えるほど、他人の意見や感想を否定し殲滅しようと振舞うことが当たり前の言説空間のなかで、多様性を重んじる社会なるものと、個別の個人やグループが他人の意見や感想を否定し殲滅しようと振舞うことの矛盾がどのような整合性を持っているのか、自分がよくわかっていないということに気づいてしまった。
 
粗雑な類推をすれば、なんらかの大義名分を背負っている時、人は、他人の意見や感想を否定したり殲滅したりすることに正当性を獲得するのかもしれない。だから大人はその正当性を巡って争い、逆に言えば、正当性が浮かび上がってくるまでコンセンサスができあがらない(または政局と呼ぶに値するものが訪れない)のかもしれない。
 
いやいや、私はそんな「この整合性のよくわからない状況のなかで具体的に勝つ方法」に関心があるわけじゃない。「だから、もっと人殺しの顔をしろ」とここで蒸し返したい気分なわけでもない。
 
それ以前の問題として、めいめいが他人の意見や感想に not for me と言うに飽き足らず、実際には否定欲や殲滅インセンティブを持っていて、今にも他説を視界から締め出そうとしていて、たぶんそれが政治的にも有効だから実際そうせずにいられない一方で、多様な社会という不思議な看板に一定の尊重を払っている(ことになっている)この状況に一種の浮遊感をおぼえて、自分が地に足がついているのか、そうでないのかわからなくなっていると多分私は言いたいのだと思う。
 
……去年の後半から「わからなくなっていると私は言いたい」ばかりブログに書いている気がするな。そして私が今、わからなくなっていることを、わかっていることらしきものに変換するには時間も本代もたっぷりかかりそうな予感がする。わけがわからないまま変なことを言い出し、言葉の世界で遭難してしまう怖さも感じる。それか、ずっとわからないままなのかもしれないし、わかってはいけないのかもしれない。
 
人々が、多様な社会というものをなんとなく良いものとみなしながら、それでいて他説の否定や殲滅、排斥にせっせと励んでいるのは(または、励んでも構わないことになっているのは)、ダブルスタンダードのようにみえてダブルスタンダードではないのだろう。というか、そんなものがダブルスタンダードと言えてしまうなら、あの政治家もあの評論家もツイッターやはてなブックマークの人々もダブルスタンダードで矛盾しているということになる。
 
ダブルスタンダードがダブルスタンダードではなく、矛盾が矛盾でないとしたら、そこには筋の通った何か、道理と呼ぶに値する何かがあってしかるべきだろう。『シロクマの屑籠』は、そういうことがわからなくなってしまったp_shirokumaの書く、益体もないブログですが、それでもよろしければどうか今年もよろしくお付き合いください。