シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「適切なプレゼント=コミュニケーション能力」と考えていたら世の中も自分もわからなくなった

 
ご飯(30代独身会社員女性) on Twitter: "………………本当に…………頂いた身で……こんなこと…アレですが……………………………(30歳)… "
 
今年は新型コロナウイルスのためか、街はまったくクリスマスらしさが無かったが、twitterは久々にクリスマスらしい話題で賑わっていた。「30代女性に贈られた4℃のプレゼント」を巡って、喧々諤々の意見が交わされていたのだった。
 
4℃のプレゼントを巡っては、4年前に議論というには感情的な言葉がやりとりされていた。
 
4℃で喜ぶ女はチョロいのか - トイアンナのぐだぐだ
トイアンナ氏の呪詛は、クリスマスに対してあまりに無力だ
 
このとき私はおなかがいっぱいになったので、今回は黙っておこうと思っていたのだけど、
 


 
婚活を主導する立場のかたが、このように力強いことをおっしゃっていたので反応してしまった。
 
 
曰く、女性へのプレゼントは、贈って良いものと悪いものが憲法で決まっているらしい。では一体どこに、その憲法とやらの条文があるのだろう?
 
もし、本当に憲法や法律に「女性にプレゼントして構わないのはこれこれで、そうでないものは禁じる」と書かれていたら、プレゼントをもらう側も贈る側も苦労はするまい。だが現実にはそんな決まりは存在しない。存在しないからこそプレゼントの授受には難しさが伴い、センスや相性やそのほか色々なものが問われるのだけど、女性の側から「贈ってはならないと憲法で決まっている」と明言されてしまうと、私などは委縮せずにいられなくなってしまう。
 

 
これは、我が家にある4℃のシャンパングラスだ。
高級なシャンパングラスとは比べるべくもないけれど、このシャンパングラスには、人の思いが込められている。だから時々、こうして登板させている。
 
コミュニケーションの一現象としてのプレゼントは、贈る側と受け取る側のコンテキストにも左右される。一般論として、この年齢・この性別・このコンテキストで授受に適しているものとそうでないものは想定できるとしても、「贈ってはならないと憲法で決まっている」などということはあってはならないと思う。
 
だから上掲ツイートも、ひょっとしたら「婚活というコンテキストのなかで」という条件付きの発言なのかもしれない。婚活する年頃の男性のプレゼントとして適していなさそうだと、私にだって思えたからだ。
 
 

「年齢やコンテキストにあわせてプレゼントを選ぶ」というコミュニケーション能力

 
私はいま、"婚活する年頃の男性のプレゼントとして適していなさそうだと、私にだって思えた"と書いた。
 
私がこのように書けるのは、40代の半ばを迎え、さんざん今までにプレゼントで失敗をしてきたからの話で、昔の私はそうは思わなかったに違いない。げんに私の嫁さんは、過去にロクシタンのハンドクリームなど快く貰ってくださっている。これは、私のプレゼント選びがマトモだったからではなく、嫁さんの度量、または嗜好のおかげでしかない。
 
そして現在の私は私で、年下に贈るプレゼントは何が適当か、糖尿病の人に贈るお歳暮はどれが好ましいのか、まだ迷っている。20代や30代の頃に比べればマシになったつもりでも、すぐ自信を失ってしまう。いったいいつになったらプレゼント上手になれるのだろう、と思ったりする。いや、たぶんそんな日は来ない。私が60代になれたとしても、プレゼント選びには苦労しているだろう。
 
そうやって私がウンウン悩んでいる一方で、プレゼントの上手い人というのはやっぱりいて、そういう人々は若い頃からズバリズバリとプレゼントを選んでのける。相手が欲しそうにしているもの・相手にとって必要なもの・コミュニケーションのコンテキストからみて妥当と思えるものを探し出す素養と経験には、やっぱり個人差がある。
 
プレゼントという行為は、その授受をとおして渡す側と受け取る側がなんらかの影響を受けるわけだから、これはコミュニケーションのひとつで、だからプレゼントを選ぶ能力はコミュニケーション能力の一部とみなければならない。もっと普通っぽい言い方をするなら、「プレゼントの選び方次第で、相手に好かれることもあれば嫌われることもありますよ」となるだろうか。
 
贈る相手の事情やニーズ、そのプレゼントを渡す際のコンテキストをどれだけ的確に把握できるかによって、プレゼントを贈った結果は大成功から大失敗まであり得る。プレゼントが必ずまごころを伝えるなんてのはお伽噺の世界のことでしかない。世渡りの手段としてのプレゼントは多分にテクニカルで、夢が無い。
 
そしてプレゼントを受け取るのもまた、コミュニケーション能力のひとつだ。
 
ひろゆき, Hiroyuki Nishimura on Twitter: "他人から好意で貰ったものをネットにあげて批判する下品な人を避けられるので、数千円のプレゼントを渡して、反応を見るという高度なテクニックを使う男性は優秀だと思う。… "
 
この、ひろゆきという人のツイートは、プレゼントを贈る側がプレゼントを受け取る側を観察可能であることをよく表現している。
 
たとえばプレゼントを受け取る側がそれをSNSに公開するかしないか、もし公開するとして、どのように公開するのか、プレゼントを贈った側は観察することができる。ときにはプレゼントを授受する二人以外の人がそれを観察し、あれこれ考えることだってあるかもしれない。プレゼントを受け取る側が、プレゼントを贈る側を一方的に観察・評価・値踏みできると考えるのはコミュニケーションの全体の一部しか見ていない。他人を値踏みする時、他人もまたこちらを値踏みしている。
 
そして天の配剤は案外うまくできていて、他人からのプレゼントを値踏みする人のところには、プレゼントを受け取る側を値踏みするような人が現れ、似合いのパートナーシップができあがったりする。
 
こうしてコミュニケーション能力のひとつとしてプレゼントについて考えると、「だからプレゼントを贈る能力を磨きましょう」とか「プレゼントを受け取ったら、いちばんあなたの利益になる反応を示しましょう」と結論を書くのがライフハック・ブログとしては正しいのだろう。
 
でも、ここはライフハック・ブログではないし、今の私はそういう気分になれない。
 
なんというか、クリスマスの季節にプレゼントがツイッターに晒され、それがプレゼントのあるべき姿についての議論を呼び、コミュニケーションのえげつない側面が露わになってしまったことのほうが悲しい。たくさんの人々が、そういうえげつないメカニズムに沿ったかたちでコミュニケーションを営み、プレゼントというものを考察しているのが悲しい。それをこうやって眺め、自動的に考えてしまう我が身、我が神経にも悲しみをおぼえる。
 
いくらか世故に長けると引き換えに、プレゼントをコミュニケーション力学の自動的メカニズムとして把握してしまうようになったら、それは獲得よりも損失のほうが大きいのではないか。
 

考えていること自体、なにかが欠陥している。

 
これまで私は人間のコミュニケーションと、それをとおして社会に適応することを考え続けてきた。けれども、最近、そのコミュニケーションのメカニズムの妥当性を確認するたび、コミュニケーションをとおした人間の力関係や権力関係に救いのなさをおぼえる。プレゼントという、一見、救いやまごころのようにみえる領域にもコミュニケーションの力学的メカニズムはしっかと根を張っていて、たとえばクリスマスプレゼントやお歳暮や年賀状といっためでたい体裁のもと、世の中にまかり通っている。そういっためでたい体裁をめでたいものとして、ジングルベルな気分として眺めていたほうがきっと人は幸せでいられる。そしてコミュニケーションのメカニズムなんて、考えるものではなく感じるものであるべきなのだと思う。
 
こうやってコミュニケーションのメカニズムなんて考察すること自体、コミュニケーションになんらかの不自由を抱えていること・コミュニケーションに本来的な欠陥があることを示唆してやまない。プレゼントのことを考えているうちに、世の中も自分自身もかえってわからなくなり、コミュニケーション力学の外側も思い出しにくくなったので、今日の日記はここで終わりにします。