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リンク先の文章は、【現代社会では、「自分」や「私」のフレームワークが、スイッチひとつで切り替えられるような方向に変わってきているのではないか】といった主旨だ。
「ひとまとまりの自己」から「分人」へ
スイッチひとつで切り替えられる自己、場面やコンテキストごとにキャラを切り替える自己については、かなり前からいろいろな指摘があった。

キャラ化する/される子どもたち―排除型社会における新たな人間像 (岩波ブックレット)
- 作者: 土井隆義
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2009/06/05
- メディア: 単行本
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キャラを使い分ける子どもや若者については00年代から言及があったし、90年代にも、人間関係をデジタルに切り分け、場面やコンテキストごとに態度をスイッチさせるライフスタイルを指摘する向きはあったように記憶している。
昔の農村のような、同じコンテキストを共有した者同士が常に顔をあわせて暮らすような生活では、場面やコンテキストごとにキャラを切り替えるような自己は生まれない。家庭でも、田圃でも、銭湯でも、村役場でも、顔を合わせる面子は決まっていて、お互いについての情報も十分すぎるほど共有されている*1。だから、「田吾作は、いつでもどこでも田吾作でしかない」。
対して、都市や郊外の生活では、場面やコンテキストを一部しか共有しない者同士のコミュニケーションが頻繁に起こる。都市や郊外で育った子どもは、家庭・学校・塾・スポーツクラブ、それぞれでお互いについて知っている情報が違っていて、それに伴い、お互いの立ち位置やキャラも違ってくることを、だんだん意識するようになる。
だから、団塊ジュニア世代あたりからは、「場面やコンテキストごとにキャラを変える自己」といった認識はそれなりあったろうし、そうした認識が浸透していなければ、たとえば、援助交際なども流行らなかっただろう。援助交際は、援助交際という状況や情報を、きちんと隔離しなければ成立しない。家庭・学校・塾・スポーツクラブに、“援助交際している学生”というキャラが漏れ出てしまえば、大変なことになってしまうだろう。だから援助交際は、場面やコンテキストがバラバラになる都市や郊外では成立するが、場面やコンテキストが単一の、昔の農村のような社会環境では成立しようがない。
そこからさらに進んで、スイッチひとつでキャラやアカウントを切り替えられることが当たり前の時代が到来した。キャラの切り替えは、今まで以上に当たり前のタスクとしてこなされなければならない。
センチメンタルなことを書くと、私は、「イド-自我-超自我」というフロイト的な精神モデルが割と好きだし、それに即して、自己をひとまとまりのものとして捉えるのが好きだ。ひとまとまりであるはずの自己が、分裂(splitting)したり解離(dissociation)したりする病的状態を目の当たりにしていたから、というのもあるだろう。
また、どんなにキャラを切り替えたとしても、最終的には、そのキャラを動かす肉体や脳はひとつである以上、最低限の共通項は残る。どんなにキャラを切り替えていても、ほとんどの人は、複数のキャラやアカウントを使い分けても精神機能が崩壊しないような、精神の統合機能を保っている。
そういったこともあって、私は、ひとまとまりの自己というモデルを信奉し、平野啓一郎さんの「分人」の話には、あまり肩入れしてこなかった。

- 作者: 平野啓一郎
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ところが、私よりも若い世代の「自分」に対する言及のありようや、アカウントの運用状況などを眺めていると、若い世代は、私の世代よりも更に「分人」的で、ひとまとまりの自己にあまり拘っていないようにみえる。それでいて、精神機能が破綻しているようにもみえない。
人間は、コンテキストの断片化にあわせて、どれぐらい「分人」的になれるものだろうか? もしなったとして、精神の統合のためにどのような機能が求められ、それに伴ってどのような「障害」が析出するのだろうか?
そのあたりは私にはまだわからない。が、今まで以上に「分人」的なモデルに寄った社会状況が来ている、とは言えそうだし、そういう社会状況に適応できる人間が当面は幅を利かせるだろう、とも予測される。
スマホ・SNS以降の「私」や「社会」は……
自己のありようや精神のありようは、ある程度までは生物学的に固定されているが、ある程度からは社会的・文化的状況によって左右される。なかでも、社会のなかで人と人がどのように繋がりあい、どのようにコミュニケーションするかが変化すると、それによって大きな影響を受ける。
たとえば近世のヨーロッパでは、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすという習慣と、そのための空間設計が流行っていった。

- 作者: フィリップ・アリエス,杉山光信,杉山恵美子
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個人主義が浸透していったこの時期に、「プライベート」な感覚が人々の間に広がって、それ以降、人々は今までよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになった。
空間が変わったことによってコミュニケーションも変わって、「私」も「社会」も変わっていった。
日本でも、高度経済成長期以降、個人がそれぞれ別の部屋で暮らすライフスタイルが流行し、そのためのマイホームやワンルームマンションが売れまくった。子どもは子ども部屋で過ごすようになり、一家に一台だったテレビは個人に一台となった。日本人は、欧米人よりもずっと速いスピードで「プライベート」な感覚を身に付け、それまでよりも自己中心的に考え、自己中心的に振る舞うようになっていった。20世紀末の「自分探し」ブームや自己実現ブームも、そういった背景のなかで起こったものと捉えるべきだろう。
で、21世紀の現状は、20世紀末ともまた違っている。
ガラケーやスマホの普及によって、21世紀の人々は、自室を持たなくても「プライベート」な時間や空間を確保できるようになった。どこにいようが、誰といようが、携帯端末を覗き込んでいる間は、「私」は「私」でいられる。
だがそれだけではない。携帯端末はSNSやアプリによって、つねに「私」と誰かを――つまり、「私」と「社会」を――繋ぎとめる。そういう意味では、携帯端末には「プライベート」とは言い難い別の側面もある。Facebook、Twitter、Instagram、ソーシャルブックマーク、等々でアカウントを使いこなしている「私」は、個人的なアカウントを運用しているという点では「プライベート」的だが、複数のアプリ上で、それぞれの場に溶け込み、適応しているという点では「プライベート的」ではない。むしろ、アプリを介して「場の一部」と化しているとも言える。控えめに言っても、写真や動画を共有して「いいね」やシェアをつけあっている時の「私」の意識は、独りで写真を眺めたり、独りでビデオを視たりしている時の「私」とは、相当に異なっている。
かつて、空間が変わってコミュニケーションが変わったことに伴って、「私」や「社会」が変わった。そのことを踏まえて考えると、スマホやSNSの普及によっても「私」や「社会」は大きく変わると予測されるし、それらが普及して十年ちょっとしか経っていない現在は、変化の途上だと考えるべきだろう。
20世紀までの「私」の感覚は、21世紀生まれの人達にはピンと来ない、注釈の必要なものに変わっていくように私には思える。そして、「私」と「社会」の繋がりかたや、境界線も、20世紀までとはだいぶ違ったかたちになるのではないだろうか。
[関連]:p-shirokuma.hatenadiary.com
*1:もし例外があるとすれば、村祭りで何かの役を演じている時や、憑依が起こっている時や、崩壊的な精神病状態に陥っている時ぐらいだろうか