マジョリティが二次創作や脳内補完に親しんでいる社会 - シロクマの屑籠
脳内補完トレーニング装置としてのコンピュータゲーム - シロクマの屑籠
最近、コンテンツ消費やキャラクター消費の世界では、「少ない情報量でつくられたキャラクターやストーリーを、各人が脳内補完して楽しむ」形式が流行っている。密な情報で描かれた登場人物・字数の豊富なストーリーでなくても、十分に楽しめるようだ。
コンテンツ消費という点では、それはそれで良いのだろう。少ない情報量でつくられたキャラクターを自分の好みに脳内補完し、ストーリーの隙間に自家製解釈をふりかけて楽しむのは、作者の主張を押しつけられるより気楽な部分があるし、だからといって誰かに迷惑がかかるわけでもない。
じゃあ、同じことが生身の人間に対して起こったらどうなるか?物言わぬキャラクターやコンテンツとは異なり、生身の人間対象を脳内補完し、手前勝手な解釈を施せば、人間関係に誤解や齟齬が起こるだろう。例えば、嫌がる女性に「いやよいやよも好きのうち」みたいな脳内補完的解釈を押しつけた挙げ句、執拗に自家製解釈を押しつければ、立派なストーカーのできあがりだ。「少ない情報量でつくられたキャラクターやストーリーを、各人が脳内補完して楽しむ」なんてのは、相手が人間ではなくモノだからこそノープロブレムなのであって、生身の人間の時にはそうはいかない。
ところが、昨今のコミュニケーション状況は、この「生身の人間対象を脳内補完」が起こりやすくなっている。もちろん、そうした手前勝手な人間解釈や勘違い(もはや、脳内補完と呼ぶのも億劫な)が昔無かったわけではない。けれども、起こりやすさという意味では、現代の日常的なコミュニケーション状況は、過去より起こりやすいもののようにみえるのだ。そのあたりについて、書き記してみる。
コミュニケーションの導線変化がもたらす、人間の抽象化
今も昔も、人は群れて暮らし、互いにコミュニケーションをとりながら、助け合って生きてきた。ただ、どのような人間同士が、どうやってコミュニケーションをとりあって生きてきたのかは、昔と今では大きく異なっている。
狩猟採集社会や農耕社会では、私達は必ず face to face なコミュニケーションを行っていた。インターネットは勿論、電話も手紙も使えなかった頃の人間は、身振り手振りも交え、表情や声音の変化も駆使しながらコミュニケートするのが日常的だった。
face to face のコミュニケーションは、情報量が多い。言語情報が殆どオマケで、非言語情報のほうが遥かに重要なことも多い。単位時間あたりに交わされる情報量は非常に多く、冗長性が高い。当たり前だが、生の人間同士のコミュニケーションは、どんな動画配信よりもバイト数が大きく、複数名が視点を変えながら・視線を交わし合いながらのやりとりには、ディスプレイを介したコミュニケーションには無い複雑さがある。
コミュニケーション対象に関する情報も豊富だった。地域も、家族イベントも、買い物や娯楽の機会も、仕事すら共有している地域社会内のコミュニケーションは、小さい頃からお互い顔見知りな者同士で営まれ、必然的に、相手についての情報が恐ろしく蓄積した状態で行われていた。「ガキ大将の意外な弱点」「各人の家庭事情」「悪行の履歴」といった情報が、良きにつけ悪しきにつけ流通しやすい環境だった。
これらの結果として、地域社会的でゲマインシャフト的な状況では、コミュニケーション対象についての情報はリアルタイムでも履歴上もきわめて緻密で、「少ない情報量でつくられたキャラクターやストーリーを、各人が脳内補完して楽しむ」なんて余地は殆ど無かった*1。
ところが、今日のコミュニケーションはそうではない。
現在でも私達は face to face なコミュニケーションを重要視していて、例えば、重要案件の相談などは、実際に会って話し合って確かめることが多い。けれども、昔のように、いつでもどこでも面突き合わせてコミュニケートする事は無くなった。私達は遠くの相手ともコミュニケートできるようになり、またコミュニケートしなければならなくなった――まず、手書きの手紙や電話が普及し、やがてメールが、さらにSNSやLINEが日常コミュニケーションの何割かを占めるようになった。*2。オンライン接続が普及したことによって、私達は昔よりも頻繁に繋がり、遠くの相手ともコミュニケートするようになったけれども、単位時間あたりに交わす情報量はきわめて少なくなった。短文テキストデータと各種アイコンに依拠したコミュニケーションは、恐ろしく冗長性が低い。日常的なコミュニケーションの抽象度がこれほど高くなったのは、文明開闢以来だろう。
と同時に、コミュニケーション対象についての情報量も少なくなった。現代人は、仕事なら仕事、趣味なら趣味、といった具合に、コンテキスト(文脈・状況)ごとに人間関係を構築する。そのおかげでしがらみが少なくなり、場面ごとにペルソナを使い分けられるようになった反面、相手についての多岐にわたる情報や、相手の歴史や履歴を知悉したうえでコミュニケートする事は珍しくなった。学校の子ども同士でさえ、「クラスメートの親の顔も、家族構成も、だいたい思い出せる」ような付き合いは少ない。人的流動性の烈しい生活をしている人の場合は、とりわけそうである。
もちろん、face to face なコミュニケーションは残っているし、家族のように、非常に情報量の豊富なコミュニケーション対象はいまだ重要だ。しかし割合としては、私達の日常コミュニケーションの抽象度は、全体平均として高くなっている。
「日常コミュニケーションの抽象化の何が悪い?」
問題は、そうした日常コミュニケーションの抽象化が何をもたらすのか、だ。
現代人はいつも忙しく、コンテキストに合わせてコミュニケートしなければならないため、密な情報のコミュニケーションばかり期待していてはきりがない。多忙な暮らしのなかで複数の人間関係をキープする際には、メールやSNSも必要だろう。ある面において、日常コミュニケーションの抽象化は現代社会への適応として必要なものだったし、そのようなニーズがなければ、SNSやLINEはここまで普及しなかっただろう。冒頭で触れた、「少ない情報量でつくられたキャラクターやストーリーを、各人が脳内補完して楽しむ」というエンタメの流行自体も、そうした日常コミュニケーションの抽象化と相通じる変化なのかもしれない。
ただ、こうもコミュニケーションが抽象化し、互いの情報量の乏しい人間関係が大きな割合を占めてくれば、それはそれで別の問題を招くだろう。そのなかで私が最も懸念しているのは、「しがらみのある、密な人間関係に習熟する機会が少なくなる」ことだ。
もし人間が、コンテキストごとに使い分けたコミュニケーションや、SNS的なコミュニケーションだけで生きていけるなら、抽象度の高いコミュニケーションだけでも構わない。むしろ、そのほうが気楽だ。ところが、配偶関係や親子関係のような場合は、そうはいかない。誰かと共に暮らし、助け合って生きていく――そういった、しがらみ含みの生活のためには、昔ながらの、情報量の豊富なコミュニケーションが必要不可欠だ。そのようなコミュニケーションを良しとせず、都会のデジタルな人間関係にありがちな「見たいものだけ見る」「見せたいものだけ見せる」「付き合いたいコンテキストだけ付き合う」にばかり習熟していれば、異性婚であれ同性婚であれ、誰かと誰かが助け合って生きていくことなど望み薄と言わざるを得ない。そのような人物は、自分の期待や脳内補完どおりに振る舞わないパートナーに苛立ちながら、別れるしかない。
親子関係においては、人間関係の抽象化の余地など殆ど無い*3。子どもは親の欲望や脳内補完のとおりに育つ存在ではなく、親が育てたとおりに育つ*4存在だ。等身大の子どもをみることなく、都合の良い脳内補完イメージで子どもを眺める親もいるようだが、それで子育てが巧くいくとは思えない。
なにより重要なのは、「幼児は言語でコミュニケーションをしない」点だ。現代人は言語コミュニケーションに多くを頼り、日常コミュニケーションのうち、言語を介した抽象的なやりとりの割合が増えているが、言語は親子のコミュニケーションにおいて副次的な意味しか持たない。もちろん、一定の年齢を超えれば約束事や禁止が重要になり、学習課題としての言語操作も必須になってくるけれども、ある年齢までのコミュニケーションに占める言語のウエイトは、きわめて小さい。親が、言語こそが重要だと思っている場面でも、子どもに響いているのは非言語的なメッセージのほう……という場面は往々にしてある。
だから、人が親になり、子育てをしていく際には、言語以外の冗長な情報がきわめて重要になるのだけれど、今日の社会では、そうした言語以外の冗長な情報はあまり重要視されていない。日常コミュニケーションを言語に寡占的に委ねてしまう、そのウエイトの高まりへの警戒感も乏しい。仮に、子どもが生まれた時から母国語を理解しSNSのアカウントを持っているなら、言語に依存したコミュニケーションに頼りきった人物も子育てに困らないだろう。だが、現実の子どもはそうではない。
これから先、社会がどれほど進歩したとしても、言語だけでは子どもは育たないし、しがらみの無いコミュニケーションだけでは配偶関係や親子関係は成立しないだろう。にも関わらず、いわゆる“社会の要請”ってやつのために、私達の人間関係はコンテキストごとに都合よく細分化されて、簡素で言語的なやりとりが日常コミュニケーションの大きなウエイトを示すようになっている。そのような新しく抽象的な日常コミュニケーションを、若いうちから大量に経験する青少年は、それでも今までどおりのような配偶関係や親子関係を営めるのだろうか?それでも世代再生産の土台が今までどおりに維持されるのだろうか。このあたりについて、私はどうしても疑問を禁じえない。
「コミュニケーションが変われば、人が変わり、世界が変わる」
「日常コミュニケーションの変化なんて、たいしたことないよ」と言う人もいるかもしれない。だが、コミュニケーションが人と人とを繋げ、なにより夫婦や親子を繋げる鎹である以上、その時代的なウエイト変化は、個人の社会適応も、親子のかたちも、社会の姿をも変えてしまうだろう。そして、最も親しい人間関係や、最もプリミティブな親子関係が、コミュニケーションの抽象化とは相容れないものである事を思うにつけても、そうした社会の変化は、まず、配偶の領域や子育ての領域に顕れると推測される。
否、そうした変化の兆候は、20世紀後半から顕れ始めているのかもしれない。少子化や非婚化の原因として大きいのは経済的要因だと言われているし、それは尤もな指摘だけど、その影に隠れて、人と人との繋がり方の問題、コミュニケーションの形式変化の問題が、密かに進行しているのではないか。“人間関係”全般が、質的に変化しているのではないか。
日常コミュニケーションは、人間同士が営むものであると同時に、人間関係をたえず改変し、作り替えていく。そういった改変は、短期的には小さな影響しか個人に与えないだろうけれど、世代を跨いで、何年もかけて影響を与え続けるとしたら、その影響は甚大だろう。だから私は、その変化がどのようなものか知りたいし、考えてみたいと思う。
*1:もし、そのような余地があるとしたら異邦人がやってきた時だ
*2:ちなみに、手書きの手紙や電話はメールやSNSやLINEよりもコミュニケーションの冗長性、やりとりに含まれる情報量が豊かだ。筆圧や筆跡、声音、テンポなどが情報を補強するからだ。だから「手書きの手紙には心が宿っている。メールは駄目だ」という、年寄りの繰り言のようにもみえる言葉には一抹の真実が宿っている。情報量の多寡という点において、手書きでアナログな手紙には電子メディアには期待しにくい冗長性が宿っている。
*3:正確には、「親の側には、人間関係の抽象化の余地が少ない」。乳幼児のコミュニケーションは、その未発達な神経系や感覚器の都合で、当初はきわめて抽象的で錯覚的でイメージ的なものからスタートする。
*4:もう少し詳しく表現するなら「親を含めた環境からの影響と、本人自身の生物学的特徴にもとづいて育つ」