シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。現在、忙しいうえブログは実験モードに移行しています。

リングフィットアドベンチャー無しでは保てない身体になっている

 
例年、本格的な夏の頃には体重が落ちてくるのだけど、今年はなかなか落ちてこない。なぜだろう? と思って生活を振り返ったら、リングフィットアドベンチャーをやっていなかったことに気が付いた。
 

 
私は怠惰なので、リングフィットアドベンチャーをやるといっても、せいぜい週2回、カロリー数にして合計80kcalぐらいのものだ。あとは散歩やジョギングをいくらか。フィットネスジムに通って毎週200も300もカロリーを使ってくる人々の、あの勤勉さは不可能だと私はあきらめていた。
 
そうしたなか、リングフィットアドベンチャーは怠惰な私にも定着したほうだった。ゲームとして遊んでいたのは過去のことで、今では体調を整えるための手段として、カスタムモードのオリジナルメニューを定期でこなすだけになっている。普段、なかなか動かせない筋肉を動かすと気持ちが良い。身体という機械の動作確認をやっている感覚もある。
 
それが、学会などで生活リズムが乱れて以来、三週間ほどほったらかしになっていたのだった。なんとなく肩が重い・足が重い・調子悪いな……と思っていたものが、リングフィットアドベンチャーを再開したらだんだん解消された。気分もなんだか良い。
 
 

筋トレは一度始めたらやめられないのではないか

 
筋トレは、身体の調子を整えてくれ、過度でなければメンタルにもたぶんプラスになる。気晴らしにだってなるかもしれない。
けれども怠惰な私からみた筋トレは、どこか悪魔の契約じみている。
 
筋トレをとおして健康な身体をつくったりカロリーを消費したりすれば、健康な身体をつくることができる。それは事実だ。しかるべき場所でしかるべきトレーニングをしている人なら、私よりもっともっと健康な身体を手に入れられるに違いない。
 
けれどもリングフィットアドベンチャーを三週間ほど止めて痛感したことがある──これって、やっぱり永遠にやめられないんじゃないか?
 
筋肉をつけ、代謝を促進し、関節の動きも含めた運動機能を保つ。そういったことに種々のトレーニングが有用なのはわかる。でも、やめたらとたんにその恩恵は失われてしまう。のみならず、食生活と代謝のバランスの問題などから、太ってしまう人だっているかもしれない。私のように、リングフィットアドベンチャーを少々やる程度の人ならともかく、がっつり筋トレをやっている人がある日それをやめてしまったら、反動で、加速度的にメタボリックになってしまうのではないか?
 
筋トレの神、フィットネスジムの神、リングフィットアドベンチャーの神はおそろしい。ひとたび契約すれば身体の動きが向上し、代謝が促進され、マッチョなボディやすらりとした身体が手に入るのかもしれない。けれども契約は本当は永遠のもので、やめればたちまち体型が乱れ、代謝が悪化し、ぶよぶよの身体になってしまう。
 
現代人のライフスタイルでは、使う筋肉が限定されやすいので、ダイエットや筋肉美を抜きにしても、普段使わない筋肉に血肉を通わせることには意味があると思う。五十肩などを防ぐうえでも有用に違いない。それでも、筋トレの、やめたらやめる前よりもひどいことになるかもしれないからやめられない性質には恐ろしさを感じる。それは単にめんどくさい・疲れる以上のものだ。継続する意志のない人にどこまでお勧めしていいものやら、ちょっと考えてしまう。
 
 

健康促進という名の未来への投資、その前提

 
健康のために空腹でもドーナツを食べるのを我慢する。
身体を定期的に動かし、カロリーも消費する。
平均余命が延び、70歳どころか80歳まで働かなければならない現代人にとって、健康促進は好ましいとみなされている。そして健康リスクをかわさないこと、寿命や健康寿命を短縮させる選択は、悪とか愚とみなされがちだ。
 
社会常識を度外視して素になって考えてみれば、不思議なことでもある。
明日には死んでいるかもしれないのに、今日のドーナツを我慢し、ふかふかのソファに身を埋めてコーラを飲みながらAmazonPrimeを視聴するのを我慢し、明後日の、いや、数十年後の未来のために健康リスクを回避し健康を積み立てていくのである。
 
子どもの賢さや自制心を評価するテストとして、マシュマロを我慢できるかどうかのテストをやる、あれも、本当は不思議である。まあ、マシュマロテストを子どもに試行する場合、テスト後に死んでしまってマシュマロが手に入らない心配なんて度外視してもいいのかもしれない。けれども、たとえば内戦中のアフリカで育った子どもの場合、マシュマロテストで自制する子よりも自制しない子のほうが賢くて生存率が高いかもしれないと私などは思う。
 
してみれば、マシュマロテストとは厳密には子どもの賢さや自制心を評価するテストではなく、マシュマロを我慢することが生存率の高さに寄与するような社会環境において子どもの賢さや自制心とみなされがちな傾向を推定するテスト、と言い直したほうが適切なのだと思う*1
 
そのマシュマロテストと比べても、数十年後の健康のために健康リスクを回避し健康を積み立てる態度は、その社会環境にすごく依拠したものだ。すなわち、数十年後まで自分が生きていること、数十年後まで社会がおおむね同じ状態を保っていること、そういったことに未来志向な健康増進は依拠している。
 
1999年にノストラダムスの予言を期待していた人が裏切られた教訓が示すように*2、未来にカタストロフを期待するのは愚かなことではある。しかし同様に、たとえば2100年までの道のりが第二次世界大戦後の先進国と同じものであると自明視するのも、本当は利口ではないように思える。2050年まで自分の人生が無事平穏であると自明視するのもだ。たとえ平均寿命が伸びても、自分の人生はわからない。だから我慢すべきドーナツがあるのと同じぐらい、我慢すべきでないドーナツがあるはずだと私は思う。しかし今日の健康増進の姿勢は、まさにそのような自明視を大前提とし、それに支えられていやしないだろうか。
  
いつまでも続く平和と、いつまでも続く「体制」。それらを自明視したうえで、私たちは果てどない健康増進に注意と時間を費やし、タバコをやめ、ドーナツを我慢し、未来においても生産年齢人口の一翼たれるよう、社会からの要請に応えられるよう、精進を重ねる。そして自分が死ぬまでの収入や支出を注意深く検討する。だとしたら、今日の健康増進と健康リスク回避の態度は、さまざまな次元で資本主義のいまどきの仕組みと切っても切れない態度であり、いつまでもビジネスができる・いつまでもビジネスしなければならないブルジョワの夢と結合したディシプリンであるようにも思う。でもって、そうしたディシプリンは今や旧来からの経営者や起業家だけに期待されるものではなく、万民に期待されるものとなっている──。
 
さる本のなかで、健康は活力資産の一翼とみなされていた。もちろんそうだろう。容姿や礼儀作法や人間関係までもが資本としてカウントされる社会で、健康が資本としてカウントされないほうがおかしい。労働者は労働して賃金を得るものだから、80歳まで生きるつもりの労働者は健康に敏感でなければならない。常識的にみて、その敏感さは身を助けるもののように思える。
 
でもその常識的な見方は、今の平和と「体制」がずっと続くという前提に依拠していることは、特に今年のような年回りには思い出しておいていいのだと思う。まあ、思い出すだけではあるし、だからといって路線変更はしがたいのだけど。
 
私はもう、リングフィットアドベンチャー無しでは保てない身体になってしまっている。これを読んだ人達だって、大同小異だろう。明後日の健康のためにトレーニングを。数十年後の健康のためにタバコやアルコールを控え、ドーナツを我慢しよう。均整の取れた身体。生涯現役の精神。終わりなきトレーニング。
 
 

*1:そうでなくても、マシュマロテストにはいろいろ批判もあり、詳しくは、事情を知っていそうな人に聞いてください

*2:ノストラダムスの大予言を本気で信じていた人は少なかったように思う。でも、信じてはいなくても期待していた人は往時にあってもまあまあいたのではないか。