恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因|minami_it|note
ストレートな文章で、読みごたえがあった。人の願望がこうやって言語化され、しかも長文で読めるのは喜ばしいことだ。はてなブックマーク上ではいろいろなコメントが飛び交っているが、まず、言語化されていることを寿ぎたい。
内容を読み、その後タイトルに戻ってみて、なるほどと腑に落ちるものがあった。
なぜなら、「女子の求める普通」として書かれているリストは、恋以外の何かだったからだ。ここに書かれているリストに近いのは、たぶん婚活だ。
異性のいろいろな属性をリストアップし、そのリストにもとづいてマッチングを行い、合意ができそうな者同士で婚活する。おそらく婚活場面では、ここに記されている「女子の求める普通」リストをすべて満たす男性は高嶺の花だろう。というより婚活市場に出る前に摘まれてしまう男性だ。そのような男性には希少性がある。
しかし恋愛が実は尊いと思っている私にとって、希少か否かは小さな問題でしかない。それより、このリストが恋以外の何かであることのほうが大きな問題だと思う。これは、人に恋する者の考え方ではない。
「彼女が欲しい男性」に似ている
「恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因」を読み、すぐに私が思い出したのは11年前に書いた以下のブログ記事だ。
「彼女がいない」より、「惚れない」ことのほうが深刻なのでは? - シロクマの屑籠
このリンク先で取り上げたのは、恋が始まる以前に「彼女が欲しい」と願うロジックが、恋とは違った何かであるように思われたからだ。「彼女が欲しい」男性にとって本当に必要なのは、コミュニケーション能力やらなにやら以前に、「一人の異性に惚れること」ではなかっただろうか。
私には、「恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因」が、ちょうどこれの逆バージョンのようにみえる。恋をはじめるために必要な条件をリストアップしているその考え方が、そもそも恋とは異質な何かだ。このリストは、恋にアプローチするためのものではなく、違う何かにアプローチするためのもので、ひょっとしたら、恋を遠ざける邪魔者ですらあるかもしれない。
「彼女が欲しい」と願う男性は、女性と付き合うために必要な条件を求めてはてな人力検索に質問し、「恋する以前に普通の男がいない」と悩む女性は、女性と付き合うにために必要な条件をリストアップしているわけだから、男女交際に必要な条件を想定し、それが足りないと考えている点は共通している。そしてこの必要な条件を満たしていなければ男女交際はできない、と考えている点も同じだ。
両者はとても似たロジックにもとづいて男女交際のハードルについて考えていると思う──男性が問われる側で、女性が問う側であるという違いがあるだけだ。
個別の男性、個別の女性について考えるのでなく、男性一般に必要とされている条件、女性一般が求める条件を想定しているところも似ている。男性は、男女交際のためにクリアしていなければならない条件を満たそうとし、女性は、男女交際のために男性に求めるべき条件を語っている。個別の男女についてではなく、男性一般を検品したうえで、合格か、不合格かを問うてもいる。この問いの立て方も、一人の人間が別の一人に恋するという現象から、遠いどこかだ。
だから私は、上掲リンク先の「恋する以前に普通の男がいないという悩みと原因」を読み、恋が始まらない本当の原因は、普通の男がいないことではなく、その男性全般を検品する男性観、個別の恋を求めるとは異なった何かを求めるロジックのほうだと想定せずにはいられなかった。
このように男性一般を検品しても、男女交際じたいは可能だし、結婚も不可能ではないだろう。
だが恋とは、このような検品やリストアップからは遠いどこかであるはずだ。
こんなリストをビリビリに破いて、くしゃくしゃに丸めて、屑籠に捨ててしまうような何かが、恋ではなかったか。
恋より取引
さきほど私は、「女子の求める普通」に書かれているリストは婚活に似ている、と書いた。人間を検品し、値踏みし、交際可能かどうか判断するのは、売買する商品を検品し、値踏みし、販売可能かどうかを判断する商人のソレに似ている。「彼女が欲しい」の男性も、自分が男女交際にふさわしいかどうかを検品し、商品としての自分に足りないところがあれば補い、商品たろうとつとめている。
男性も女性も、お互いのことを商品だと理解し、商品として売れるのか、買うに値するのかを考えているとしたら、それらは恋ではなく、取引として理解するのがふさわしい。
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上掲書の時代からこのかた、恋がなければ男女交際や結婚ができないわけではない。
恋というロマンではなく、取引のためのリストとして考えるなら、くだんの「女子の求める普通」は非常にわかりやすい。商品を検品するまなざしで男性を選んではいけない道理などどこにもない。婚活も、就活も、人間の交換価値や生産価値をディスプレイしあい、合意に基づいた取引を行っているようなものだから、私たちがお互いを商品や生産手段としてまなざすこと自体が批判されるいわれはない。
ただ、それを恋と呼ぶのはどこか違うし、取引のロジックの内側にいて恋が始まらないとぼやくのは筋違いではないかとは思う。
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恋が恋たるためには、取引のロジックの外側にあるプラスアルファが必要だ。
恋は取引に敗れた
それにしても、恋はどこへ行ってしまったのだろう?
1990年代ぐらいまで、恋は特別に価値のある体験とみなされていた。恋に恋する人も少なくなく、結婚は、恋愛をとおしてするのが常識だと思っている人も多かった。
今はたぶんそうではない。
表向き、人々はまだ恋という言葉をありがたがっている。けれどもその内実として、いったいどれだけロマンやパトス、代替不可能性といったものをすかし見ることができるだろうか。内実としては、今日の男女交際はますます取引の度合いを深め、私たちはお互いを値踏みする習慣にますます慣れている。就活も婚活もそうだ。それが当たり前で、コストとベネフィットとリスクにかなった方法だと理解している。
恋より取引。
みんな利口になったともいえるし、みんな余裕が無くなったとも言えるのかもしれない。いずれにせよ、恋が形骸化し、取引のロジックにもとづいた男女交際が行き着く先は、全員が婚活アプリに登録し、全員がAIによって交換価値や生産価値を算定され、自動的にマッチングがなされる未来だろう。それが一番効率的で、一番経済的で、一番公平だろうからだ。そして男性も女性も、今日の就活よろしく、全員が婚活アプリにかなった交換価値や生産価値を身に付けるようになっていく。この趨勢が続くなら、そういう未来が来てもちっともおかしくない。
恋は取引に敗れつつある。
いや、もう敗れたのだろう。
取引のロジック、資本主義のロジックが透徹したこの時代には、ロマンやパトスなんて、社会適応のノイズみたいなものなのかもしれない。