老後に金がなくても楽しく暮らすために今から準備しておくべきこと|ふろむだ@分裂勘違い君劇場|note
ふろむださんが、楽しい老後についてnoteで記事を書いていて、主旨には同意するのだけど、私の思考はそこからどんどん離れていき、変な着地点にたどり着いたので書き残すことにした。
「金がなくても楽しい老後老後」は、もうここにある
まず私は、ふろむださんが書いている内容は、大きくわけて二つの意味でもう実現している、と思った。
1.ひとつめは、いまどきの高齢者たち。
図書館に行くと、いつも高齢者がたくさんいて、本や新聞をを読んでいる。ふろむださんが述べたような、教養ある読書をしている人も混じっているだろう。本が読める老後というのは、きっと良いものに違いない。
子どもとハイキングに登るような山にも、高齢者の姿が多い。どんどん山を登り、景色を写真に撮ったりしている。山に登れて写真が撮れる老後というのは、きっと良いものに違いない。
で、『ブラタモリ』。これを楽しみにしている高齢者も多い。同じNHKでも『鶴瓶の家族に乾杯』よりも人を選ぶのかもしれないが、それでもファンは多く、最近は、ブラタモリ的な小旅行が企画されることだってある。そういった地誌に興味が持てる老後というのは、きっと良いものに違いない。
だから、ふろむださんが勧めている「金がなくても楽しい老後」は、現在の高齢者の老後といくらか重なり合っているように思う。
2.もうひとつは、小説家になろうの一部コンテンツを眺めていて。
私のサーチ範囲に入ってくるweb小説のなかには、なんというか、晩年、という印象を受けるものが少なくない。今を生きるより創作の世界を生きている、ちょっと世捨て人が入ったフレーバーを隠そうともしない作品というか。
web小説のいいところ(悪いところでもある)は、筆者自身のフレーバーを脱臭しないで文章をアップロードしてくる人が少なくないことだ。いや、私がたまたまそういう筆者自身のフレーバーの強いweb小説に当たるだけなのかもしれない。ちなみにカクヨムでは、筆者自身のフレーバーがかなり脱臭された、作家じみた文章に出会うことがしばしばある。対して小説家になろうでは、ときに、はてな匿名ダイアリーより筆者のフレーバーが濃厚で、のけぞってしまうこともある。念のため繰り返すが、私はそのことを悪いと思っているのでなく、web小説の良いところでもあり、つまり特質なのだろうと思って楽しんでいる。
で、そういう目線でweb小説を読んでいると、「この筆者は、もう老後を生きているんじゃないか」といった書き手に遭遇する。
ここでいう老後とは、年齢的なものではない。言い回しやネットスラングから40±10歳ぐらいとおぼしき年齢だけど、厭世的だったり、社会との距離感を漂わせていたりするような、それでいて豊富な知識を駆使して異世界の物語を書き綴るような、そういう佇まいのことだ。
私は、冒頭のふろむださんの文章を読んでいるうちに、そういった、厭世観や社会との距離、あるいは窓際族的なフレーバーを思い出していた。そうしたweb小説の書き手の実年齢は、老後というにはまだ若いだろう。しかし心の佇まいとしては晩年であり、いわば、「金がなくても楽しい老後」を一足早く始めているのではないだろうか。
高齢者がコンテンツ生産者/消費者となったインターネット
数年前、○○出版社の編集者の方から「最近、村上春樹にかぶれた団塊世代の持ち込み小説が増えている。文体は村上春樹風だけど、肝心の中身は似たり寄ったり」という話を聞いたことがある。しかし現在は、小説をわざわざ出版社に持ち込まなければならない道理はない。web小説として公開してしまえば、そこには書き手だけでなく読み手もいる。
今、web小説を書いている人の多くは30代~40代ではないかと思う。おそらく読み手も同世代だ。20代、50代もいるだろうけれども、さしあたり、web小説の書き手と読み手に壮年期のボリュームゾーンがあるのは間違いないだろう。
そんな彼らも、あと20年もすれば50代~60代になる。
いや、web小説に限った話ではない。ブログだってそうだ。そうやって、インターネットの色々なコンテンツの前線にいる人々が歳を取っていく。20年後には、彼らも(そして私も)還暦前後だ。そうなれば、インターネットは「金はなくても楽しい老後」を担う場になっていくのではないか。
まなめはうす風に言うなら、『良いインターネットで、良い老後を』といったところだろうか。私は、これはそこそこ期待できる筋だと思うので、ネットに特別な思い入れのある往年のネット古参兵は、健康に気を配りながらネットライフを楽しんでいれば、それでOKなのかもしれない。
なぜ、老後を、楽しく、生きなければならないのか
それにしても、どうして私たちは老後なるものを想定しなければならないのだろうか。
ふろむださんの文章にいちいち頷きつつ、私は、老後をこうやって見据え、楽しく過ごすために戦略的に生きるのは、奇妙な風習ではないか、という思いも捨てきれずにいる。
人は生まれながらに苦を抱え、苦楽とともに生きるものだが、やがて痩せ犬のように死んでいくものではなかったか。
臨終までの時間がきわめて長くなり、健康寿命もおそらく長くなり、老後という、ちょっとおかしいぐらい健康な例外にだけ与えられたボーナスステージを誰もが享受するようになった。ところが半分以上が80代を迎える時代になってみると、人は簡単に死ななくなり、死ねないがゆえに、長い人生を楽しむ──いや違うな、長い人生を楽しまなければならなくなった。
長い人生に苦しかないのは文字どおりの苦行なので、私たちはなんとか楽しく、いやせめて苦楽が共にあるぐらいにしなければならない。だから私たちは老後について考える。その老後に到達するための壮年期を考える。その壮年期をよりよく生きるために思春期に備え、とうとう小学生のうちから受験に追われる者もいる。
それらすべてが、ふと奇妙な風習にみえる瞬間がある。
なぜ、老後を見据えて生きなければならないと、私たちは思い込んでいるのだろうか?
老後も健康でなければならない。
老後も楽しくあらねばならない。
そういったニーズを理解できる自分がいる一方で、そうはいっても生きるとは苦であり、その苦に楽を織り交ぜるための努力も苦となりかねず、いや苦を増やすために楽しみを見つけろとはふろむださんも言っていないとは理解しつつも、どうしてそんなに巧く生きなければならないのか? と疑問に思うこともある。
どれほど楽しみを知り、教養のある人でも、死ぬときは結局死ぬし、認知症になれば認知機能が奪われる。あるいは老人ホームでアパシーの底に沈むのか、それとも習慣の残骸を繰り返すようになるのかはわからない。ともあれ、いつか必ず人は死ぬ。その日が来るのが65歳なのか、75歳なのか、85歳なのか、それはわからない。わからないが、とにかく終末の時はやってくる。
いやいや。
案外、少子高齢化や地球温暖化や争乱によって、もっと早くに、もっと無情に、私たちはバサリと死ぬのかもしれない。
結局私は何が言いたいのだろう?
現在の延長線上として老後がやって来るのは基本的にはめでたいことだが、老後を戦略的に見据え、ましてや老後の愉しみを見据えて生きるのは、私が奇妙な風習と感じるものの典型のように思える。そこに引っかかりを覚えるものだから、私はこうして駄々をこねているのだろう。
「あるがままに歳を取っていく、で、良いではないか。」
たぶん私は、老後があるという前提で物事を考えていくことに、抵抗感を覚えている。
老後は迎えて当然と思っている人のほうが現代社会では多いし、平均寿命を見る限り、そのとおりになる人の割合が高いだろう。
だが本当に、私にも老後はやって来るのか?
もし私にも老後があるとしたら、それほどまで長く生きた、それほどまで命を使ったということで、たとい苦によって命が締めくくられようとも、基本的にはありがたいことではないかと思う。
私は、自分が60代、70代まで生きていられる自信があまり無い。生きていたい。いや生きていたら御の字だと思う。這ってでも生きてみたいが、本当に私は、そこまで生きていられるのだろうか。
ひょっとしたら、老後を見据えたふろむださんの人生観に、私は嫉妬しているのかもしれない。
私だってどうにか生き続けて、2040年産のワインが飲んでみたい。まずは、生き延びなければ。