シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「疲れ」に気付き、「疲れ」と向き合う難しさ

 
フェミニストであることに疲れた。 - トイアンナのぐだぐだ
 
 そうですか、疲れてしまわれたのですね、トイアンナさん。
 
 私はトイアンナさんがどこまでどうフェミニストなのかを詳しくは知りません。ただ、トイアンナさんが男女に関連した領域で活動を続けておられることは知っています。そうした活動の最中、過激な発言をする人たちが視界に入ってきて疲れる神経を遣うというのは理解できる話です。
 
 まあしかし、事態はフェミニストとその周辺に限った問題でもないように、私には感じられるのですよ。そうですね、例えば私がtwitterやはてなブログで感じている疲れと、トイアンナさんが感じていらっしゃる疲れは、イコールではないとしても、地続きな部分があろうといいますか。
 
 たとえば政治的な話題についても、見ていると、私は「うげー」と思うことがよくあります。
 
 政治でいえば、今の自民党はどうなのか。
 あるいは安倍首相、あるいは東京オリンピック。
 これらについて、強い言葉を連発している人々がいます。
 
 子育ての方面でも、びっくりするほど強い言葉を吐き出しているアカウントを目撃してしまい「うげー」となることがしばしばあります。
 
 アニメやゲームの世界でもそれは同じ。強い言葉を使って、強い言葉ゆえに目立っている人というのはどこのジャンルにもいますね。
 
 どこのジャンルでも、大多数はモノの言い方に気を付けながら発言している一方で、強い言葉を振り回す少数の人がやたら目に付いてしまうように、今のネットはできているように私にはみえます。強い言葉で目立っている人を視界に入れない、というのはなかなか難しそうで、ましてやフロントラインで議論をしていると強い言葉に絡まれることすらあります。
 
 ざっくばらんに言って、現在のネットって疲れるものじゃないでしょうか。
 
 まして、トイアンナさんは盛んに活動をしておられます。最前線、と言ってもいいのではないでしょうか。オンラインでもオフラインでも、盛んに活動するということは、ネットの風・世間の風にそれだけ吹かれるということですから、かなり疲れやすいようお見受けします。そしてトイアンナさんの疲れは私にとって他人事とは思われないし、たぶん、インターネット上でなんらか活動している・活動したいと思っている人々にも他人事ではないと思われるのです。
 
 

「疲れた」と感じること自体は良いこと

 
 とはいえ「疲れた」と感じられること自体は大事なことですよね。
 
 「疲れた」と感じて休息したり、活動のテンポを緩めたりするのは、心身のホメオスタシスを保つうえでとても大事なことだと私は思います。
 
 「痛み」が身体の異常を自分自身に教え、活動を自粛させて患部をいたわるよう促すのと同じで、「疲れ」は疲労の蓄積を自分自身に教え、活動を自粛させて心労や疲労を回避させようとしてくれます。
 
 逆に、疲れを知らないようにネットをやるとか、正気の沙汰とは思えません。
 
 ネットには、疲れを知らずに強い言葉をブンブン振り回し続けるアカウントもまま見かけますが、ああいった、興奮はすれど気の休まることのないネットライフを朝に夕に続けている人は、いったいどうなってしまうのでしょうか。
 
 強い言葉が飛び交っていることに疲労を感じる人は、その場から離れようとするか、その場にアクセスする頻度や程度を下げようとするからまだマシで。
 
 いつまでも強い言葉の飛び交う戦場に仁王立ちして、自分自身も強い言葉を投げかけて、それをほぼ一年じゅう続けているアカウントは、ずっと神経が昂進したインターネットをやっているわけですよ。あるいは、強い言葉を振り回して承認欲求や所属欲求を充たしているのかもしれず、それで心理的には気持ち良いのかもしれない。でも、あれは「疲れ」ますよ。神経を遣ってますよ。長く続けていたら、変な影響が蓄積するかもしれませんよ。そのことに気付かないまま、強い言葉の世界に留まり続けて、本当に大丈夫なものなのでしょうか。
 
 「疲れを知らない」活動と「疲れ」を知っている活動、どちらのほうが心身のホメオスタシスを保ちやすいかといったら、後者でしょう。
 
 2ちゃんねるの「回線切って寝ろ」は現在にも通用するウィズダムだと私は思います。まあスマホ時代は回線を切れないので、「スマホの電源落として玉手箱に封印しろ」ぐらいやらなきゃダメでしょうけど。
 
 

「疲れていても活動を減らせない」が怖い

 
 それと「疲れていても活動を減らせない」ってやつも怖いですね。
 
 ネットの活動にお金を頼っていたり、心理的欲求や実存を賭けていたりすると、身体が「疲れ」を自覚していても頭がそれを否定して頑張り続けてしまう、ということがしばしばあります。オフラインだったらよくある「付き合いでどうしても降りられない」みたいなことがネットでも起こったりするかもしれません。経済的ニーズ、心理的ニーズ、社会的ニーズに人はたやすく丸め込まれてしまう。
 
 
 「『疲れ』を感じたら休みましょう。それか活動をちょっと変えましょう」
 
 
 ああ、原則はこんなにシンプルなのに、疲れを感じて休むというのはなんと難しいのだろう。
 
 この文章はトイアンナさんの「疲れた」という文章を受けて書き始めたのだけど、ここまで書くとはっきりわかる。私は、私の問題としてトイアンナさんの「疲れ」の話を読んでいたのだ。疲れているのは私だ。そして活動を減らせないのも私で、その状況を怖がっているのも私自身であろう。いつの間にか、文体も「ですます調」から「である調」に変わっているのもたぶんそのためだ。
 
 このブログの常連読者の人なら気付いているかもしれないが、私も一応、自分の「疲れ」にあわせて最近はブログの更新頻度を下げている。本当はもっと書きたいことがあるけれども、全部書いてしまってはいけないフェーズが来ている、ような気がする。
 
 だが、ブログの更新頻度を下げただけ本当に大丈夫なのか?
 
 わからない。わからないから不安でもある。
 
 私は「疲れ」と向き合いきれているのだろうか。
 
 ネットの各方面で活躍し続けている人や、朝も夕もネットにメンションを垂れ流している人も、こういうことを懸念したりするものなのだろうか。