シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

失われた「田舎の子育てのアドバンテージ」

 
blog.tinect.jp
 
 リンク先を読みながら、地方で子育てをやっている我が身を振り返って、少し悲観的な気持ちになった。
 
 私は、地方の国道沿いの、イオンやユニクロやニトリから程遠くない郊外に住んでいる。家族で普段の買い物を済ませるには便利だし、東京のような不動産の高騰にも直面していない。
 
 私立中学校にお受験させなければならないわけでもなく、公立高校の進学校を選べば学費はそれほどかからない。高専に進学するならもっと安くて済むだろうし、地元の国立大学を選べば大学でも費用は少なめになる。「子育てを地元で完結させる」ぶんには、地方は子育てしにくい土地だとは思えない。
 
 けれどもリンク先のfujiponさんがおっしゃるように、都会で色々な文物に触れてまわっている子どもたち、早くから進学校に通い、都内や海外の大学へ進学していくであろう子どもたちと比べた時、地方暮らし・田舎暮らしに利点があるかというと、昔ほどアドバンテージが思いつかない気がする。そのことについて、この機会に少し書いてみるにする。
 
 

かつてはあった「田舎暮らしのアドバンテージ」

 
 私が生まれ育った頃、昭和時代の私の田舎には、いかにも田舎らしいメリットがあったと思う。
 
 ひとつは「自然との触れ合い」。
 
 海、山、川、堤防、沼沢地、雑木林。そういったものはすべて遊び場で、私たちは文字どおり自然と触れ合いながら育った。昭和20-30年代はもっと自然が豊富で、身体をフル稼働させるような遊びがもっと多かったという。
 
 そういった自然だけでなく、町全体も遊び場だった。近所の家の裏庭も、空き地も、私有地か公有地かにかかわりなく子どもが遊んで構わず、軒下に出てきた近所のジジババと会話することもよくあった。町内のあらゆる隙間を知り、町内のあらゆる住人を知り、老若男女とたえずコミュニケーションすること自体が、社会性の獲得を後押ししてくれていたと思う。親と対立したとしても、だから孤独になることはあり得なかった。親以外にも年上がたくさんいたし、親の価値観が絶対ではないことを肌で感じさせてくれる年上に囲まれて育ったからだ。
 
 野山を駆けまわり、草野球ができる空き地がどこでも利用できて、町内の年上や年下と豊富な接点が持てたあの頃の生活は、私の社会性の基礎になっていると思うし、これが無ければ、不登校時代の遠回りを挽回できなかったと思う。
 
 

東京の劣化コピーとしての「現在の田舎暮らし」

 
 ところが、現在の私の子どもを見ていると、そういったメリットのことごとくが失われてしまったようにみえる。
 
 海も山も川も沼沢地も、子どもが遊んで良い場所ではなくなった。道路や私有地は子どもが遊んではいけない場所になり、子どもたちは決まった時間に、決まった場所で遊ぶようになった。その公園も、代々木公園や世田谷公園のような広大なものではなく、古い時代の都市公園法に従ってほとんど嫌々作られた、お粗末なものでしかない。そのような狭い公園のうえボール遊びも制限されていて、かつての私たちの頃のような、伸び伸びとした草野球など望むべくもない。
 
 町全体が遊び場ということもなくなってしまった。近所の家の裏庭や空き地に子どもが入ることは、21世紀の郊外では非常識なこととみなされている。それぞれの家の家主がそう思っているだけでなく、子どもも、子どもの親も、そのことを不文律とみなしている。新しく建てられた家屋には、軒下なんてものは存在しない。現代の家屋は、家族がスタンドアロンに過ごすことに最適化されていて、近所の人々と繋がりあうことを前提につくられているとは言えない。
 
 結局、田舎に住んでいるからといって、自然を謳歌する機会も、伸び伸びと草野球をする機会も、地域社会に根付いた社会性をマスターする機会も、あまり無いのである。どうしても自然を謳歌させたかったら、お金を払って自然を謳歌できる場所に行くしかないし、どうしても草野球をさせたければ、お金を払ってスポーツクラブに通わせるしかない。学校と自宅を往復するばかりで、専らゲーム機で遊んでいるような子どもは、田舎ならではのアドバンテージなど望むべくもない。
 
 それなら、塾や稽古事の選択肢が多いぶん、大都市圏のほうが子育てに有利ではないか。
 
 「それは、お前が田舎とはいえ中途半端な郊外に住んでいるからだ。もっと過疎地に行けば自然を謳歌できるはずだ」と反論する人もいるかもしれない。だが、私の知る限りではそうとも限らない。
 
 過疎地に行くと、熊や猪、猿がかなりの頻度で出没する。人の手がほとんど入っていない場所もたくさんあり、切り立った崖や怪しい獣道のたぐいといった、安全面の覚束ない場所がたくさんある。平成時代の親の感覚としては、熊や猪や猿がしばしば出没する場所で子どもを放っておくわけにはいかない。
 
 また、近所の家の裏庭や私有地で子どもが遊ぶ行為も昔ほど許容されない。「子どもといえど、私有地には勝手に入ってはいけない」という意識が、過疎地にもそれなり流れ込んでいるのがわかるからだ*1。それでなくても、少子高齢化が進み過ぎた地域には、子どもにバリエーション豊かな社会的経験を提供するだけのゆとりがない。
 
 かつて、都会の子どものステロタイプとして、「学校から塾への行き帰りに携帯用ゲーム機で遊び、帰った後も自宅で一人で遊ぶ」というものが語られたけれども、結局、どこに住んでいてもあまり変わらないのではないか。子どもが外遊びしなくなったのも、ボール投げの成績が年々落ちていくのも、子どもがゲームで遊ぶのが悪いというより、街全体として、いや社会全体として、子どもを街で遊ばせておいて勝手に経験を積み重ねてもらうことを許容できなくなっている故のように、私にはみえてしまう。
 
 結局、親が子どもにバリエーション豊かな経験を積ませようと思ったら、カネを積んで、経験を買うしかない。
 
 
 [関連]:学力だけじゃない、体力もカネで買う時代 - シロクマの屑籠
 
 

「契約社会の論理」が子どもにも適用されるようになった

 
 こうした、子どもを勝手に外で遊ばせない意識の浸透は、人格形成期の人間関係や社会性の獲得に響くので、私は小さくない問題だと思っている。そして、この意識の浸透はいろいろな切り口で語り得るものだろうとも思う。
 
 この文章では、「社会契約の論理の徹底」という切り口でこのことについて考えてみたい。
 
 かつて、地域社会が社会関係の大きなウエイトを占めていた頃は、地域の子どもはまったき「他人」の子どもではなく、「地域」の子どもでもあった。地域の子どもの遊び場は、地域の共有材だった。親子関係にせよ、地域の年上と年下の社会関係にせよ、その共有のありかたには契約社会のロジックが浸入していなかった。社会学者のテンニースのフレーズを借りるなら、「子育ての相当部分がゲマインシャフトのなかで行われていた」と言えるかもしれない。
 

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト―純粋社会学の基本概念〈上〉 (岩波文庫)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

ゲマインシャフトとゲゼルシャフト 下―純粋社会学の基本概念 (岩波文庫 白 207-2)

 
 ところが、大都市圏では比較的早く、地方や郊外ではそれより幾らか遅れて、地域社会は希薄化していった。子どもの一人一人は「他人」の子どもでしかなく、「地域」の子どもとはみなされない。私有地という概念が浸透するにつれて、軒下コミュニケーションも裏庭を歩く子どもも少なくなり、子どもの遊び場=地域の共有財という意識はなくなった。道路で遊ぶ子どもや空き地で草野球をする子どもは、許容されなくなった。人々の意識も、街のつくりも、数十年の間にすっかり変わってしまった。
 
 このことは、「子育てが契約社会に完全に組み込まれた」と表現することもできるし、「契約社会化した街から子どもが締め出されて、子どもも契約社会のロジックに従わなければならなくなった」と表現することもできよう。
 
www.cnn.co.jp
 
 先日、アメリカのバス停近くの個人が、庭に子どもが入らないよう電気柵をもうけたニュースがあった。結局電気柵は撤去されたそうだが、契約社会のロジックに従って考えるなら、私有地への子どもの闖入を防ぐために土地所有者が電気柵をもうけても、おかしくないように思える。契約社会のロジックに従って考えるなら、「農家が田畑を荒らす猪を避けるために電気柵をもうけるのと変わらない」と考えるべきなのだろう。
 
 これはアメリカの話だが、周囲の子どもたちを眺めていると、わざわざ電気柵をもうけるまでもなく、「私有地に勝手に入ってはいけない」という意識はインストール済みのようにみえる。外遊びに最適な空き地があっても、ご近所の庭に好奇心をそそるものがあっても、2010年代の子どもはまず侵入しない。少なくとも、私が育った頃の子どもと現代の子どもでは、契約社会のロジックを内面化している度合いがぜんぜん違っているようにみえる。
 
 

契約社会化した子育てに、社会は、あなたはどこまで対処できるのか

 
 こうした社会の変化に対して、行政はそれなり手を打っているようにみえる。
 

 
 首都圏の湾岸マンションに限らず、比較的新しい住宅街には、だいたい広々とした公園が併設されている。契約社会のロジックに沿ったかたちで子どもが遊びやすい空間を確保するためには、「公園」とレッテルづけされた空間を増やしていくしかない。このあたりは、都市公園法の改正、少子高齢化を懸念する行政の思惑、不動産販売業者の戦略などが絡み合っての結果だろうけれども、少なくとも、二十年前ぐらいの住宅街に比べればマシになった。
 

 
 また、上掲の自転車の練習写真のような、近所でやりづらくなった体験を授けるためのイベントや場所も、都市部には存在している。こういった計らいも、契約社会のロジックから逸脱しにくくなった子育ての助けになっているとは思う。
 
 それでも、これらですべてが解決するわけではないし、これらは"恵まれた"都市部で行われていることだ。数十年前のニュータウンがそのままになっている地方の郊外などでは、こうした恩恵に与るチャンスが少ない。
 
 結局のところ、契約社会のロジックのもとでは、ほとんどの部分は親の能力と判断でどうにかしなければならないのである。
 
 「田舎=自然や地域社会のアドバンテージが得られる」という図式が無くなった今、契約社会のロジックに即したかたちで子育てのアメニティが取り揃えられた大都市圏の子育てに、田舎の子育てが太刀打ちできるものだろうか。
 
 我ながら、ちょっと少し先走ったことを文章にしてしまったとは思う。だけど地方で子育てしている者の一人として、最近は大都市圏の公園の芝が青くみえてならないので、今の気持ちを書いてしまうことにした。
 

*1:こうなった背景には、過疎地の私有地に勝手に闖入し、山菜やキノコを根こそぎ奪い取っていったりする余所者がたえないことも関係しているかもしれない