シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

時代は「自分のアタマで考えるな」だと思う

 
今の世の中、自分のアタマで考えないほうが良いターンになっていると思いませんか。
 
 

犬も歩けばフェイクに当たる

 
 


 
先日、静岡県の水害のフェイク画像がツイッター上に流された。ある者はそれを本物と思って拡散し、別の者はフェイクだと疑って拡散を思いとどまったり、疑問の声をあげたりした。自分のタイムラインではこれに引っかかる人はいなかったように見えたけれど、皆が皆、引っかからずに済んだわけではなかった。
 
のみならず、今のインターネット上には、広告にもタイムラインにもグーグルマップにもフェイクなメッセージが存在していて、その成否を判断するのが難しくなっている。そのうちあるものは(例えば健康法のように)高度な専門性なしに正否を判断するのが難しいものだったり、もし間違っていないとしても、そのメッセージをどこの誰に・どこまで適用していいのかわかりづらかったりする。また別のあるものは、(例えばウクライナでの戦況のように)事実を確認する手段が素人には限られていて、しかも国家規模のプロパガンダが混じっている可能性のあるものだったりする。
 
こんな具合に、今のインターネット上には、正否を、真贋を判断しづらいメッセージが溢れている。自分自身のアタマで考え、それをインフォメーションと呼べる水準にまとめあげるのが大変難しくなっている。
 
 

しかもクソ忙しいご時世じゃないですか。

 
そのうえ、私たちの可処分時間はどんどん少なくなり、と同時に、私たちが正否や真贋を判断しなければならないことは増え続けている。
 
「時は金なり」というけれど、実際、効率性や生産性に重きを置くいまどきの資本主義社会では、可処分時間はたいへん貴重なものだ。仕事だけでなく、キャリアのための勉強・人脈の形成・リラクゼーション・エンタメといったものも可処分時間を必要とする。そうやって現代人は忙しく日々を過ごしている。
 
忙しくなればなるほど、メッセージの正否や真贋を判断するのは難しくなる。誰かの書き込みや画像がフェイクかどうかを判断するにあたって、1時間費やして構わない場合と、10分費やして構わない場合と、10秒しか費やせない場合では、フェイクに乗せられる確率は同じ人でもかなり違う。時間的余裕がなくなるほど、人はフェイクに対して脆弱になる。
 
例えば、ラッシュアワーの埼京線で通勤しているサラリーマンが、くだんの水害フェイク画像をスマホで見た場合、しかも見たタイミングが乗換駅まであと10秒のタイミングだったら、フェイクに乗せられてしまう確率は高くなるだろう。同じサラリーマンでも、ゆとりのある時間にゆとりのある体勢でそれを見かけたなら、乗せられずに済む確率はだいぶ上がる。が、スケジュールに追われれば追われるほど、私たちはフェイクに乗せられやすくなるし、ともすれば、そのフェイクの拡散に手を貸してしまうかもしれない。
  
 

だったら自分のアタマで正否や真贋を考えないほうがいいのでは

 
こんな具合に、インターネットに正否や真贋の定まらないメッセージが溢れていて、しかも私たちに時間的余裕が乏しいとしたら、もう、下手なことは自分のアタマで考えず、誰かに考えてもらうのがいいんじゃないだろうか。この場合の誰かとは、ツイッターのインフルエンサーなどではなく、新聞やNHKニュースなどのことだ。雑誌も含めていいかもしれない。
 
もちろん、そういうマスメディアだって間違えることはあるし、マスメディアがフェイクに乗せられたりプロパガンダに加担したりする可能性もゼロではない。それでも、ツイッターのインフルエンサーなどに比べればその頻度と程度は信頼できるように思う。まして、生兵法にも自分のアタマで考えるよりは信頼できるんじゃないだろうか。
 
かつて、アルファブロガーのちきりんさんは「自分のアタマで考えよう」という本をリリースしたことがあった。
 

 
ちきりんさんのように考える力があり、この本のとおりに思考するメソッドがあり、考える時間もたっぷりあるなら、これでいいのだと思う。2011年のインターネットの状況にも合っていたかもしれない。
 
けれども私たちの大半はちきりんさんと肩を並べるほど考える力があるわけではない。思考するメソッドを磨く暇すらなく、効率性や生産性にこづきまわされ、リラクゼーションとエンタメを天秤にかけながら可処分時間の短さを嘆いているような身の上だ。そして2022年のインターネットは2011年のソレに比べてずっと難しくなった。嘘を嘘と見抜けない人には(インターネットは)難しいというけれども、いや、今のインターネットでフェイクを見抜くのは簡単じゃないでしょう。
 
だとしたらだ。
もう、私たちは自分のアタマで考えるをやめたほうがいいんじゃないだろうか。
 
や、もちろん個々人の専門領域、職業人としての領域では大いに考えなければならない。しかし専門家にしたって専門領域を一歩出てしまえば素人、へたをすれば平均的な素人よりも性質が悪いことだってある。それならネットに氾濫するメッセージについて正否や真贋を判断するのはもうやめてしまって、なんなら隙間時間にスマホを覗くのもやめてしまって、新聞やNHKニュースなどに目を通すだけにしてしまったほうが安全安心確実ってものだ。新聞やNHKニュースでは味気ないって人はワイドショーでもいいかもしれない。「ワイドショーなんてあてにならない」という人がいるだろうし、その気持ちもわからなくはない。でも、私たちが個人としてツイッターやインスタグラムに貼りついてメッセージを授受し、みずから判断するよりは、まだしも打率がいいんじゃないだろうか。
 
人間は、しばしば間違う。
忙しかったり、疲れていたり、余裕がなかったりすれば尚更だ。
そのうえ情報の正否や真贋を判断すること自体、可処分時間や可処分認知を消耗する行為なわけで、それなら(多少、情報の流通タイミングが遅いとしても)新聞社や放送局のフィルタに通した後の、インフォメーションとして加工された後のものをファクトとみなしたほうが間違いが少なかろう。万が一、新聞社や放送局が間違ったのなら、まあその……仕方ないのかなとも思う。
 
繰り返すが、新聞社や放送局だって稀には間違うこともあるし、それこそ戦争中の国のマスメディアなどは、しばしばプロパガンダを流す。いや、戦争していなくてもマスメディアにプロパガンダ的なものはどこかに混じっていると見たほうがいいだろう。理想論として「民主主義国家の個人たるもの、自分のアタマで判断する能力を涵養すべき」ってのもそのとおり。
 
そして10年以上昔は「インターネットにはメディアとは違った真実がある」などとも言われていた。ですが今のインターネットって難しくないですか。これほどまでに正否や真贋のわからない今日のインターネットにおいては、マスメディアの出してきたものを鵜呑みにするほうが、自分のアタマで考えながらインターネットと向き合うよりも、まだしも確実度が高いのではないかと思う。
 
インターネット上で「自分のアタマで考えよう」って言葉が適用できる時代は遠くなった。少なくとも、それは万人に勧められるものではあり得ないし、いまや、ほとんどの人に勧められるものとも思えない。ネットリテラシーなど午睡の夢。ブロガーとしてのちきりんさんのように振舞い、ちきりんさんの勧めるように考えることは、今、とても難しい。 
 
 

ところで

 
ところで、自分自身のブログに「新聞を読め、NHKニュースを見ろ、ネットはあんまり見るな」って書くの、すごく萎える。ブロガーとしてのちきりんさんが活躍していた頃と現在ではインターネットの時勢が違ってきているのだから、それは仕方のないことではあるけれども。