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上記リンク先テキストにおいて、id:medtoolzさんはムカデの喩えを用いて“「我」なるものが集団生活において必ずしも別個に存立しなくて良かったりして?”という問いかけをしてました。この問いは興味深く、僕も集団生活において「我」がどこまで要請されたのか怪しいところだなぁと思ってます。しかし現代都市空間の僕らは、滑稽なほど「我執」に囚われています。この差はいったいどこから来るのでしょうか?それについてちょっと考えてみます。
群体内の互恵的利他行動がいい感じだった時代
ところで、ムカデの足はなめらかな協調運動が可能で、個体の移動という目的に寄与しますが、ムカデの体節は全て同じ遺伝子を持ち、一つの生殖器に遺伝的な未来を共有し、一つの神経系を共有しており、よって全ての体節は完全に運命を共有しています。人体だって、右手と左足と大脳が別々に繁殖行動するわけではなく、それらは全て単一の生殖器に遺伝的な未来を賭けますし、まただからこそ、心臓も肝臓も海馬も副腎髄質も(ムカデの体節とは違った形でですが)協調してホメオスタシスを保つように出来ているんでしょう。もし「二十番目の体節だけ協調してないムカデ」や「気まぐれに開いたり閉じたりする気管支を持った人」なんてモノがいたら、さっさと淘汰の波に消えている筈です。
ムカデの足や人体各臓器が協調できるのは、それぞれの体節・臓器が遺伝的には完全なる運命共同体を形成していて、性淘汰・自然淘汰に生き残る為の利害を共有しているという前提があるからなんでしょうね。もし、腎臓と肝臓が遺伝子も運命も別々で、いざとなったら腎臓だけが脱出して増殖できるとしたら、こうはいかなさげです。あくまで単一の生殖器・繁殖子を共有するからこそ、多細胞生物は「互恵的利他主義」を細胞間・器官間レベルで徹底させることができるのでしょう*1。
そういえば、個体の話を越えた「ほぼ完全な互恵的利他主義」の例としては、ハチ類やアリ類を素通りするわけにはいかないでしょう。女王蜂と働き蜂達は、人間の親子や兄弟よりも濃密な血縁関係*2にあるわけで、この手の種では女王バチを守る為に働き蜂達は捨て身の奉仕に終始します。「働き蜂が女王蜂を全力で守り、巣が一丸となって守る行動傾向を持った蜂たちの遺伝子が現在に引き継がれている*3」ということでしょう。ヒト集団より親密な血縁度で結ばれた蜂達のコロニーにおいては、巣と女王蜂を中心とした運命共同体が形成され、互恵的利他主義が上手く機能しているようです。
そして人類。手元にある幾つかの進化理論関連の本を読む限り、ホモ・サピエンスの遺伝子が形成された時代には、数十人単位の血縁関係の比較的濃密な小狩猟採集集団を形成していた、とされています。この集団はハチに比べれば近縁度は低いものの、幾らかの血縁的関連を持ちがちで、狩猟・採集・闘争などの面で助け合って生きていた、となっています。僕の知る限りにおいては、人間が現在持っている互恵的利他行動に関する本能的性質(ああ、本能という言葉は嫌いです)は、このような生活のなかで育まれたもの、のようです。
自宅にある進化関連の本のどれに書いてあるのか結局探しきれず、引用しきれなかったのが残念ですが、どれかの本にはこうありました(見つけたら書きますが、三十分探して探しきれなかったので諦めました)。狩猟採集社会においては、いまで言う「自我」にあたるものは必ずしも明瞭ではなかった、と。実際、『自他の明瞭な区別』とか『自由意志』などというものが、自分も周囲も血縁的に比較的近しい集団のなかでどの水準まで必要だったのか、どの程度(任意の個体のなかにある遺伝子にとって)包括適応度に貢献するものだったのか、はよく分かりません。西洋思想がすっかり普及してしまった現代においてはともかくとして、もともと自我という概念や自他に関する概念はごく限られた領域にだけ適用された発明だったのではないか、と思っとります。
ただし、幾ら人間が互恵的利他行動をとるとはいっても、個体間には性淘汰・自然淘汰上の対立が色濃くつきまとい、必ずしも運命を共にしていない部分もあるわけで、多細胞生物内の完全な協調や、ミツバチやアリ達のような運命共同体とは異なる「裏切り」や「自分優先」は往時からあった筈です。また、その為に有用な能力として「相手の心を読む能力」「上手く嘘をつく能力」「浮気してしまう能力」などが一定条件下で発現することは、一個体の包括適応度を上昇させたことでしょう。菩薩の如き完全な利他行為を行う個体は、マキャベリ的行動を(必要な時だけ、必要なだけ)選択出来る個体がいる集団においては淘汰されてしまいます。現実の人間をみる限り、ホモ・サピエンスは、おそらくは自分自身の生存上/繁殖上に有利に働く条件いかんによって利他行動/利私行動を使い分けるもの*4と私は推定しています。互恵的利他行動は、自然淘汰・性淘汰上の個体間対立が大きければ大きい状況ほど選択されにくく、個体間共同が互いにとってメリットがあるほど発生することでしょう。大脳皮質で考え、防衛機制も含めた複雑過ぎる心的メカニズムを搭載し、文化による修飾を受け始めている現在のホモ・サピエンスにおいては、必ずしも全ての行動をこうした理屈が支配しているわけではないでしょうけど、この互恵的利他行動が何らかのメリットによって誘導されている、という考えからは抜けられません。
個体の個別性が高まれば「我」という意識が要される場面が増えるんじゃないの?
互恵的利他行動の傾向が大きい小グループで生活している状況のなかでは、「我」とか「自他の隔たり」を前提に利私行動を突き詰めなければならない必要性は相対的に小さくなると思います。ですが浮気・裏切り・政治的扇動などのように、自他の間で何らかの利益的対立がある場合には、自分とライバルの思惑の違いとか自分と相手との考えの違いとかを大脳皮質も動員して推定することは有益かつ必要なことでしょう。狩猟採集社会においても、自分と他人との違いを認識せずにはいられない場面というものはなくはなかったでしょうし、意識下で「自分」というものに照準をあわせる瞬間ぐらいはあったんじゃないかと思います。今でいう「自我」「自己」にあたるモノほど明確ではないにせよ、そこに自分の意識や他人の意識に関する幾らかの洞察があった、ぐらいは推定していいんじゃないかとは思ってます。
でも、今の僕らが生きているのは、血縁関係のある小集団でもなければ、互恵的利他行動に包まれたムラ社会でもありません。都市空間の見知らぬ者同士のあいだで互恵的利他行動をとる直裁的メリットは、殆どありません(ただし儀礼的無関心も含めて、少なくとも他人の邪魔をしないことにはデメリット防止の効果は期待できますが)。都市空間では、自分と他人との間のインセンティブや価値観の違いを常に認識しながら生きていかなければなりません。狩猟採集社会やムラ社会において、顔見知りで無い余所者を敵や悪魔や神とみなしても個体はそれほど困らなかったかもしれませんが、都市空間では顔見知りで無い余所者とも同じ空気を吸って同じ電車に乗らなければ暮らしていけません。都市化が進み、自他の区別を余儀なくされる「異質な他者」との遭遇が増加したとき、「我」に関する機能執行が求められる度合いが高まることに不思議は無いと思います*5。
ムラ社会や狩猟採集社会は、血縁的・包括適応度的水準においても、機能的水準においても、ムカデの足や蜂の巣に喩えたくなるような互恵的連合を形成しがちだ、と僕は思います。このとき、「我」を意識しなければならない場面は隣りの家の奥さんを寝取る時ぐらいのもので、自他の違いを強く意識する場面は意外と少なかったんじゃないでしょうか。一方、都市空間、とりわけ現代都市空間に生きる僕らの場合においては、互恵的利他行動が限られた状況でしか選択できず、自分と他人との違いを把握することが殆ど常に要請されるため「我」についての内省も頻繁になるんじゃないか、と思います。菩薩的メソッドに喩えられる、利私をあまり意識しない互恵的利他行動は、ムラ社会や狩猟採集社会においては(繁殖行動のような限定的局面を除けば)じゅうぶんに機能的で簡単だったかもしれませんが、都市空間においては非常にハイリスクで生きていけないものではないでしょうか。
そんなわけで、利私-利他の区別が不要なムラ社会や狩猟採集社会では菩薩メソッドはけっこういけたかもしれませんが、
仏教は宗教ですから、みんなに痛い思いをさせないで、何とかして「ムカデの足になるすばらしさ」を伝えようとしましたけれど、たぶんうまく行かなかったんじゃないかと思います。
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利私と利他に区別をつけなければならない都市空間ではそうもいかない、のでしょうね。都市空間は、「自分の為はみんなの為」という認識を漠然と持っているだけじゃ生きていけません。ムカデの足に喩えられるような協調どころじゃあありません。
こうやって考えると、案外、都市化の程度と「我」の認識が要請される度合いとの間に相関があるんじゃないかと思ってしまいたくなります。「我」というものは、都市空間で生きていく為により要請されるようになった(そして狩猟採集社会では必ずしも多くは要請されなかった)機能なのではないか、と。そして、「我利」もまた都市空間においてより濃厚にみられた傾向なのではないか、とも思ってしまうのです。
ムカデの足モデルよりも、鰯の大群モデル
だとしたら、都市空間の僕らをどのような群体に喩えたらしっくり来るのか?僕は「鰯の大群モデル」がしっくり来るような気がします。鰯の大群は、「群れ全体の利益の為に群れている」or「大群を形成すれば鮫や鯨を追い払えるから群れている」というわけではありません。単に、群れていれば個体が食われる確率が低下するから群れているだけで、「群れ」という多数に紛れ込むことによって食われる確率が下がることに個々の個体がぶら下がった帰結として大群体を形成している、と言われています。「互恵的利他行動にもとづいて協調運動し、群れのなかの個体すべての生存確率や繁殖確率を上昇させる」じゃなく、「大群に潜り込んでいれば個体としての被捕食率が下がる」という個体上のメリットの集積だけによって成立する群体の運動。都市空間のなかで、利他行動をあくまで選択的なレベルに留め、利私行動を優先させがちな僕らは、ムカデの体節よりもむしろ大群のなかの鰯に近い振る舞いをしているのではないでしょうか?*6そして、小さなコミュニティのなかや家族のなかでだけ、ムカデの体節や蜂の巣に近い互恵的関係を維持するのではないでしょうか。
現代都市空間の鰯は、「留保の無い生の肯定を!」と叫ぶ
人とモノの流動性の高い現代都市空間においては、この傾向がとりわけ顕著のように思います。大群のなかの鰯に喩えられる僕らは、利他の為というよりも利私の前提でもって群に紛れ込み、適応することでしょう。しかし現代の鰯達は、ただ群れに潜り込むだけではないようです。鰯達は叫びます。
「群れのはじっこは俺は嫌だ!一番鮫に食われにくい群れの真ん中にいたい!」
「その潮目は群れ全体のモノなんだろ?だったら俺がどんな風に使ったっていいだろう!」
「群れからはみ出した俺が海豚に襲われそうになった!俺が群れからはみ出したのは俺の過失かもしれないがそんなことはどうでもいい!俺が海豚に襲われそうになったら軍隊鰯を至急派遣して助けろ!」
「留保の無い生の肯定を!」
現代都市空間では、ムカデの足に喩えられる互恵的利他行動の菩薩メソッドよりも、留保の無い生の肯定を喚き散らす鰯の大群メソッドが跳梁跋扈する。海の鰯はモノを言わないから静かに群体に相乗りするだけですが、不幸なことに、我利我利亡者にして口うるさい人間どもは、「留保の無い生の肯定を!」と叫ぶことが出来るし、しばしばその叫びに僕達は顔をしかめるわけです。群れの利得(利他)より個体の利得(利私)によって群れている、現代都市空間のさもしい鰯達。
そんなわけで僕は、現代の人間の有り様を「留保の無い生の肯定を!」と叫びあう鰯の大群に喩えることを好みます。「我」というものを明確に意識した、意識しなければ生きていかなかった現代の人間達は、「我」に囚われるが故に、これからも菩薩よりも鰯に近い存在として生きるんだろうなと諦めています。
*1:というかドーキンス『利己的な遺伝子』にはこの辺りのそのものズバリの説明が懇切丁寧にしてありますよね
*2:近縁度0.75。詳しくは、「包括適応度」でググるか、適当な進化生物学の本を適当に買ってみて読んでください。私のお気に入り『進化大全』の場合はP339〜341辺りに書いてあります
*3:厳密には、何もしない雄バチの話とか、働かない働きアリの話とかも出てきますがここでは避けます
*4:ただし、この生存上/繁殖上の条件というのは、現代の人間にとっての生存上/繁殖上の条件ではなく、狩猟採集社会においてという文脈で類推されなければならない筈だと思ってます
*5:ここで、自我に関する障害の病としての統合失調症の出現と文化の話を挿入したくなったのですが、そんな話をはじめると益々怪しいことになりそうなのでやめときます
*6:政府も含めた社会のフレームが、唯一、利私的な鰯たちの群れに枠組みを与える装置として機能している?