http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150901/k10010212001000.html
佐野研二郎さんがデザインしたオリンピックのエンブレムが、使用中止になった。デザインにどういった問題があったのかは、私は素人なのでよく知らないし興味もない。ただ、本件がネット上で巨大炎上を遂げ、延焼に延焼を重ねてエンブレムの使用中止にまで追い詰められた事態は気になった。
「叩けば埃が舞い上がる」「次から次へと燃料がくべられる」――本件は“ネット炎上芸”としては満点をつけたい連鎖反応を呈していた。そういった連鎖反応に際しては、新国立競技場の揉め事以上に“ネット世論”のほの暗いパワーが炸裂していたと思う。
デザイン業界の連中が迂闊なのが、今回の件ではネトウヨが大いに関与している点を甘く見てるところだ。暇な匿名ネトウヨの一致団結・糞義憤っぷりを相手にしたら、背負うものがある実名で上品なお前らなんて木端微塵だわ。ネット民の「敵にまわすと恐ろしいが味方にすると頼りない」を今こそ噛みしめろ
ここで中川淳一郎さんが述べているとおり、「敵にまわすと恐ろしいが味方にすると頼りない」ネット民が、今回、大挙して敵に回った。パクリ疑惑の検証という点でも“世論”形成という点でも信じがたいほどの力を発揮し、とうとうエンブレムを消し炭に変えてしまった。
“メシウマ”が“世論”と繋がって権力のクラウドをつくりだす
「敵にまわすと恐ろしいが味方にすると頼りない」ネット民の騒動は、今に始まったものではない。2ちゃんねるに親しんでいた人なら、一昔前ののまネコ騒動を思い出す人もいるだろう。インターネットには「敵にまわすと恐ろしいが味方にすると頼りない」ネット民がたくさん棲んでいて、疑わしきもの・胡散臭いもの・妬ましいものを片っ端から炎上させてきた。何かを罰したい・正義感に陶酔したい・道楽者を引き摺り下ろしたい――そういった欲求はインターネット上ではたやすく集積する。
今回のエンブレム騒動でも、“庶民感覚から乖離したお金儲けをしているらしきデザイナー”に筆誅を与えんと、バッシングに精を出すアカウントをたくさん見かけた。エンブレム使用中止が決まった後も、快哉の声をあげるアカウントをたくさん見かけた。ネットユーザーのすべてではないが、たくさんの人が「無名な俺らが、有名なやつらを引き摺り下ろした」メシウマの快楽に包まれたのは事実である。
[関連]:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150902-00000064-sph-soci
私がおっかないと思うのは、そうしたメシウマ的なネット人民裁判が、とうとう国家レベルのプロジェクトをもひっくり返すようになった、という点だ。
一昔前のネット炎上でも、一企業が膝を屈するということならあった。インターネット人口がそれほど多く無い時期でも、一企業がブランドイメージや販売への影響を考えて炎上のエフェクトに屈服するのはわかる話だし、これは局所的な炎上でも十分に起こり得る。
ところが今回の炎上はそんな生易しいものではなく、国家プロジェクトを代表し、日本航空などが使用し始めていたエンブレムを使用中止に追い込んでしまった。炎の大きさも比較にならない。今日のネット人口は十年前よりも多く、生活への浸透度も段違いだ。のまネコ騒動の時代と違って、この炎上を目撃しない人などほとんどいない。そしてインターネットメディアの立ち位置もアングラ寄りからパブリック寄りへと変化し、マスメディアと地続きなメディアへと変容していった。“ネット世論”は、もはや「2ちゃんねらーの便所の落書き」ではない。“ネット世論”は、どんどん“リアルの世論”に近付いている。
そうした“リアルの世論”に近い性質を帯びるようになった“ネット世論”が、警察や裁判所や第三者機関を介するでもなく、リツイートやシェアやまとめサイトを経由して増幅し、テレビや週刊誌を先回りするかたちで問題を暴き、批判し、蹂躙していく――その風景が、私にはとても恐ろしく感じられた。もちろん、テレビや週刊誌が“世論”を焚き付けていく風景もそれはそれで恐ろしい。だが今回のソレは、マスメディアよりずっと立場が不確かで、マスメディアよりアンコントローラブルで、道義的責任とは無関係な不特定多数のメシウマ欲や暴露欲が、“ネット世論”という名の権力の塊を形成し、とうとう国家プロジェクトにまで影響を与えたわけだ。デモンストレーションや署名活動といった手続きを経るでもなしに。
こうしたメシウマ欲や暴露欲を、私自身が持っていないかと言ったら、たぶん、そんな事は無い。私は本件について、ネット上でなるべく言及しないよう意識していたけれども、別の炎上では言及してしまうかもしれず、私自身も“ネット世論”という不定型な権力の塊の一素子に成り果ててしまうかもしれない。そのことも含め、私は不安だ。これほど巨大な結果を招き得る“言葉の入道雲”にボタンひとつで誰でも参加できてしまうということ――これもまた、インターネットの可能性のひとつには違いないけれども、この可能性が負の力になった時の破壊力、一個人や一団体に集中した時の殲滅力に思いを馳せると、怖ろしい時代になりそうだと身震いする。
まして、今日日のインターネットには落ち度のあった人間を引きずり落としてやりたい欲求や、徒党を組んで誰かに影響を与える快楽*1が充満しているわけで、“ネット世論”は誰かを助ける方向以上に、誰かをバッシングし、誰かを引き摺り下ろす方向で働く可能性が高い。そもそも「敵にまわすと恐ろしいが味方にすると頼りない」という昔からの言い回し自体、群れたネット民なるものが、破壊的な権力の行使には向いていても、建設的な権力の行使には向いていないことを暗に示しているわけで。
インターネットがパブリックなメディアになるのも、コミュニケーション手段になるのも良いことに違いない。しかし、そこで意想外で不定型な権力のクラウドが生まれ、見境なく社会的制裁を振るう現状は、褒められたものではない。昔だったら居酒屋談義で終わってしまったはずのネガティブな情緒が、インターネットを介してこんなに繋がり、こんなに盛り上がり、こんな風に“世論”に直結して構わないものだろうか?力を行使される対象がきわめて疑わしいケースだとしても、私はなにか納得できず、改めて今日のインターネットに戦慄せずにいられなかった。
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*1:「自分達は他人に影響を与えることが出来るんだぞ」と確認する行為は、権力を楽しむ快楽に直結している