シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

『GRIDMAN』を平成オタの葬送として眺めた

(※アニメに関心の無い人にはチンプンカンプンな内容なのでご注意ください)
 
  
『SSSS.GRIDMAN』Japan 2018 雨宮哲監督 ベジータ問題(罪と罰の応報関係からみる物語構造)-モブをどれだけ殺しても、人がそれを許してしまうのはどうしてなのか? - 物語三昧~できればより深く物語を楽しむために
 
 ブログというメディアには利点が幾つもあるけれども、ひとまとりの意見が読めること、それとリンクを張ることで意見のネットワークみたいなものが作れるところだと思う。
 
 今回、アニメをよく愛好してらっしゃるペトロニウスさんが『GRIDMAN』について面白いことをリンク先で書いていたので、重複をおそれず、自分の『GRIDMAN』観を書きとめたくなった。
 
 

つい、文脈を読みたくなってしまうアニメ

 
 このアニメは、1990年代の特撮を原作としたアニメであるという。製作元が円谷プロダクションであることも含めて、作品理解の一環として文脈やいきさつを読み取る余地がたくさんあった。
 
 

 
 
 しかし私には、そういった文脈をしっかり読み取る甲斐性が無い。せいぜい、『新世紀エヴァンゲリオン(エヴァ)』が特撮から引き継いだ影響と、『エヴァ』からこのアニメが受け継いだもの、そういった特撮とアニメの間のバトンリレーに思いを馳せるぐらいだ。
  
 それでも、私もそれなり歳をとって中途半端な知識を身につけてしまった。そのうえtwitterからは事情通のつぶやきが漏れ聞こえてくるものだから、文脈に絡め取られながら視聴してしまうきらいがあった。
 
 私は、文脈や歴史的背景にもとづいてアニメを視聴する自分自身を疎ましく思っているところがある。アニメを観る時は考えるより感じていたい――ビールにたとえるなら「味わいをしっかり検証するより、のどごしを楽しみたい」といったところか。
 
 でもって、『GRIDMAN』という作品は、文脈や脚本といった「味わいをしっかり検証する」のに適した作品なのか、「のどごしを楽しむ」のに適したアニメなのか、そこらへんが難しかった。
 
 

なので脚本も、古臭いし、シンプルに描いてはいるけど、これ単体で分かるほどうまく表現でいていないし、、、要は出来が良くないように思えるんですよね。けれども、たしかに、新条アカネと宝多六花を見ても、尊いというのはわかるんですよ。とても現代的に洗練されていて、ポップな感じで、、、いい出来だ、という感じがしています。

http://petronius.hatenablog.com/entry/2019/01/21/074410

 ペトロニウスさんがおっしゃる「ポップな感じ」とは、キャラクターデザインも含めたコンテンツの洗練や作り込みの賜物ではないかと思う。そういうポップな感じとは、ビールにたとえるなら「のどごし」みたいなもので、これはこれで楽しむに値するものだと私は思う。
 
 でもって、私のように怠慢な、キャラクターデザインやガジェットに丸め込まれてしまう愛好家にとっては、そういう作品はそういう作品としてガブガブっと楽しんでしまいたかった。
 
 ところが『GRIDMAN』はそれを許してはくれない。
 
 『GRIDMAN』は、20世紀の諸コンテンツから連なる文脈をプンプン匂い立たせている。絶対に、わざと、仕掛けてきている。どうしても文脈というものを考えてしまう。
 
 こういう趣向が、ある種の愛好家にとって最適な嗜好品であることは私にも理解できる。
 
 実際、『GRIDMAN』のオンエアー中は、この作品の文脈読み込みを面白がる愛好家のツイートをたくさん見かけたし、そのなかには「『GRIDMAN』を楽しめる人間は文脈を面白がれる奴だ」と言わんばかりの、鼻息の荒いツイートも混じっていた。
 
 そういった、文脈読み込み愛好家たち (私は、そういうのを「サブカル的な愛好家」と表現したくなる) を喜ばせるギミックや描写が、この作品には地雷原のようにちりばめられていた。
 
 だけれど、アニメ愛好家の全員が文脈を読み込みたがっているわけでもあるまい。のどごし爽やかなアニメをグビグビ楽しみたい、私のような人間もいたりする。そして『GRIDMAN』の魅力と人気は、そのようなのどごしの爽やかさ・ポップさにも支えられていたと私は思う。
 
 そんなわけだから、私は『GRIDMAN』という作品を視聴する際のスタンスの据わりが悪いなぁ……と感じずにはいられなかった。
 
 


 
 ここで語られている町山氏の映画評論的なものが「サブカル的な愛好家」の視聴スタイルであり、ここでいう「メッチャ作中だけが作品世界なのダみたいな若いころの純血主義」のほうが私のルーツに近いと感じる。
 
 私は、大量のコンテンツを比較検討しながら知見を広げていく、都市部のオタク・エリートとしては思春期を過ごせなかった。私は、地方でもアクセスできる数少ないコンテンツをVHSで録画して擦り切れるまで見続ける(そして作中世界への埋没を至上とみなす)ハビトゥスを身に付けた地方のオタクだ。
 
 その私も年をとり、文脈を踏まえた鑑賞態度を理解するようになったし、今の自分がそれに助けられていることも知っている。けれどもそれは私本来の鑑賞態度ではなかったはずで、ここでmatakimikaさんが「その箍がユルユルになってきつつ興味の範囲がなし崩しに無秩序に拡がってきている、という中年の身体」と表現しているものに身をゆだねている自分自身を、少し、恥ずかしく思う。
 
 もちろん、歴史的文脈を踏まえた鑑賞態度や理解の姿勢があってはいけない、と主張したいわけではない。最初からそういう姿勢でアニメを鑑賞している人は、この『GRIDMAN』をそのように受け止めればいい。ただ、私のような、考えるより感じることを良しとしてきたアニメ愛好家が、洗練されたデザインと文脈"病"との板挟みに遭うのは、なかなか据わり心地の難しいアニメ視聴体験ではあった。
 
 

「アカネの心の補完」という古いテーマ

 
 
 さて、『GRIDMAN』は表向きは響裕太たちがセカイを救うヒーロー活劇ではあったが、世界ではなくセカイであった点が、40代の私には大問題だった。
 
 というのも、人の心が作品世界と直結している、つまり、90年代~00年代なら「セカイ系」という言葉で括られていたであろう世界観が、この、カネと手間暇のかかった2018年の深夜アニメで復古されていたのである。
 

セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

セカイ系とは何か ポスト・エヴァのオタク史 (SB新書)

 
 
 この作品の舞台は、アカネが望んだセカイであるという。心象がセカイになり、心象が物語に直結しているというこの構図は、『エヴァ』とその前後の作品群を思い出したくなるものだった。
 
 この、都合の良いつくりごとのセカイで(もちろんこのフレーズは『エヴァンゲリオン劇場版 まごころを君に』の引用であり、一種のサブカル仕草である。ちぇっ!)アカネは心の平安を保ち、と同時に、つくりごとのセカイの神として君臨してもいた。
 
 

 
 ところが『エヴァンゲリオン劇場版』で否定された都合の良いつくりごとのセカイが、この、多分にエヴァを踏襲しているであろう作品では最後まで都合の良いつくりごとのまま推移し、アカネが救われる大団円で終わっているのである。
 
 90年代の特撮を2010年代の深夜アニメとしてリメイクし、古強者の愛好家が喜ぶようなガジェットや文脈を散りばめておくこと。救われるべきヒロインが碇シンジのような少年ではなく「かわいい」少女であるということ。そのアカネがグリッドマンや六花たちに「救われて」心を開いていくということ。
 
 こういった筋書きは、90年代の庵野秀明が「現実に帰れ」と言っていたものとは正反対のように私にはみえた。あの頃の綾波レイが「都合のいいつくりごとで、現実の復讐をしていたのね。」と冷たく言い放っていた対象とは、まさにこのようなセカイではなかったか。
 
 アカネの言動は、そのセリフの端々が90年代の碇シンジとダブっているところを含めて、そのような都合のいいつくりごとを期待する視聴者と重なるところがあったように私にはみえた。
 
 いまどきのアニメコンテンツは、美少女-所有願望の対象としてばかり少女を描いているわけではない。自分自身とかわいい少女を重ね合わせることをとおしてナルシシズムを充当できるような、マルチロールな機能もしばしば与えられている。
 
 
 [関連]:『俺の妹がこんなに可愛いわけがない』にみる、マルチロールな感情移入と、その洗練 - シロクマの屑籠
 [関連]:なぜ少女が湯水のように消費されるのか――男性オタク界隈における少女の消費状況について―― - シロクマの屑籠
 
 
 そのような読み筋でアカネを眺めると、自己投影しやすいキャラクターの典型と読めるし、下記リンク先に記されている
 
「スクールガール・オタクコンプレックス」という新条アカネの生み出した怪獣に、僕は…。 - 1k≒innocence
 

グリッドマン、そしてグリッドマン同盟が、我々視聴者のオタクも救ってくれることを願ってやまない。なぜなら新条アカネの救済こそが、新条アカネに心奪われたオタクを救うただ一つの方法なのだから。

 という、アカネと「我々視聴者のオタク」をダブらせた科白も理解しやすくなる。
 
 このようなナルシシズム的対象選択もまた00年代に流行した趣向であり、『GRIDMAN』という作品に懐かしさを感じる一因になっていたと思う。
 
 少女に対する(おもに男性愛好家の)自己投影――ナルシシズム的対象選択は、00年代にトレンドを迎え、10年代以降、アニメの前衛という感じではなくなった。わかる人にしかわからない表現をすれば、『動物化するポストモダン』に合致したキャラクター消費の最前線がスマホアプリになったのが10年代の界隈、というのが私の理解になる。
 
 ところが『GRIDMAN』は古めかしくも、アカネという、どこか懐かしいタイプの少女の心の補完を描き出してみせたのだった。そういった世界観を整合させるためもあってか、表向きの主人公である響裕太はうつろな主人公とうつったが、はたして、終盤に至って響裕太はいよいようつろなキャラクターになっていった。
 
 そういった部分も含めて、20世紀の『新世紀エヴァンゲリオン』への意趣返し、あるいは二次創作ともみえる筋書きが、私には興味深くて、いや、引っかかって、ツルツルとしたキャラクターデザインを楽しんでばかりもいられない心境にならざるを得なかったのだった。 
 
 

 
 こんな実写シーンを見せられると、あの、「考察」を空回りさせていた懐かしい時代のことを思い出さずにはいられないではないか。
 
 

「こころ時代」のレクイエムとしての『GRIDMAN』

 
 こうした諸々をひっくるめて『GRIDMAN』の感想をワンフレーズにまとめるとしたら、「平成オタの葬送」となるだろうか。
 
 心理学ブーム・メンタルクリニックブームとともに始まった平成時代。そして心というものにセンシティブな一時代はアニメというジャンルとも無関係ではなく、『新世紀エヴァンゲリオン』をはじめ、時代がかった作品を複数生み出した。さきほど触れた「セカイ系」というボキャブラリーも、そういった時代がかった作風(のひとつ)を言い表したものだった。
 
 しかし平成も後半になってくると、心というものにセンシティブな作品は退潮していった。ひきこもりは若者の問題としてではなく、中年の問題として語られることが多くなり、カウンセリングは認知行動療法という言動のメンテナンスへ、メンタルクリニックブームは発達障害ブームへと置き換えられていった。
 
 平成時代の出口に立っている私達は、もう、心というブラックボックスを以前ほどは顧みていない――そんな風に私は思う*1。そういう「こころ時代」の終着点に、たまさか『GRIDMAN』という懐古的な作風の、それでいてキャラクターデザインをはじめ、全体的にツルツルに磨かれてのどごしの良いアニメに出くわしたのは幸せなことだった。
 
 このアニメを観るアングルや世代はさまざまだろうけれども、私は一人の40代のアニメ愛好家として、この作品を「こころ時代」のレクイエムとして受け取ることにした。
 
 だからどうした、という話ではある。けれども、記憶がなくならないうちに書き留めておきたいと思ったのでこうして書き留めておく。屈折した気持ちを抱えながらも、最終話までニコニコしながら眺めました。
 
 ※1/22追記:誤字その他をご指摘くださった皆さん、ありがとうございます。

*1:そのような換骨奪胎が起こっているにもかかわらず、災害などが起こるたびに「こころのケア」なる言葉が用いられることに、私はちょっとした興味を覚えるが、これ単体で5000字は必要になろうからここでは於く。