シロクマの屑籠

はてな村から引っ越してきた精神科医シロクマ(熊代亨)のブログです。

処世術としての「リスクゼロ」を考える

 
 
  
「リスクゼロ以外、許容できない」という人たちに遭遇するけど、多分それは、みんな不幸になる考え方。
リスクゼロを求めている人はそんなにいない - novtanの日常
 
 
 2人の古参ブロガーが相次いで書いた「リスクゼロ」についての文章を読み、私も参加したくなりました。
 
 ひとつめの『リスクゼロ以外、許容できない」という人たちに遭遇するけど、多分それは、みんな不幸になる考え方。』は、リスク管理の考え方ができない人が割といて困る、といった内容で、ふたつめの『リスクゼロを求めている人はそんなにいない』は、リスクという気持ち悪いものを保有していたくない気持ちを持った無能もいる、といった内容とお見受けしました。
 
 どちらのメンションも、「リスクゼロ」のある側面を明らかにしていると思いますが、私も私で、処世術という観点にフォーカスをしぼって「リスクゼロ」に言及してみたいと思います。
 
 

方便としての「リスクゼロ」

 
 世の中には無数のリスクがあり、それらはしばしば人間の予測能力を超えています。現代の、最も優秀な頭脳ですらしばしばリスクを見誤るわけですから、「リスクゼロ」という世界観じたいがどこか見当はずれで、本気でそう思い込んでいる人は、お世辞にも有能とは言い難い気はします。
 
 では、どれぐらいの割合の皆さんが本気でリスクゼロを信じているものでしょうか。
 
 私は、実際にはあまりいないんじゃないかと思うんですよ。
 
 リスクゼロを口にする人は、あちこちでそれなりに見かけます。だからといって、彼らが本気でリスクをゼロにできると思っているものなんでしょうか? という疑問です。 
 
 本気でリスクゼロを信じていなくても、方便として、あるいは政治の言葉としてリスクゼロを主張する人って、本気になっている人より多かったりしませんかね?
 
 リスクゼロ。
 強い言葉です。
 
 リスク社会といわれて久しい現代社会では、リスクゼロというボキャブラリーは甘美に響きます。
 
 リスクゼロなんて本当はあり得ない以上、リスクへのアセスメントをできるだけやっていくしかないのですが、でも、それはリスクを抱えている人が為すべきことで、自分(達)はリスクなんて抱えたくない、あわよくば余所の誰かに抱えてもらいたい、という人もたくさんいるのではないでしょうか。
 
 世の中全体、あるいは自分(達)がリスクを抱える際にはリスクゼロにはできなくても、「あいつに丸抱えさせれば俺はリスクゼロ」って事象が、世の中には非常にたくさんあるように、私には思われます。
 
 他人に責任転嫁する余地のあるリスクを、立場の弱い側や、責任を負っていると思われやすい側に押し付ける際の方便として、この国では、リスクゼロという言葉がまかり通っているのではないでしょうか。
 
 たとえば、サービスを享受する「お客様」がサービスを提供する「事業者」や「自治体」や「学校」に対してモノ申す時に、「リスクゼロでなければ困る」というフレーズがこれまでどれほど効いてきたか。
 
 そうやって「事業者」や「自治体」や「学校」にリスクゼロを主張することによって、実際、リスクが減った部分もあるでしょう。反面、ほかのリスクにかけるべきリソースが遣われてしまえば、結局、巡り巡って「お客様」が異種のリスクやコストに晒されることになるでしょうから、本当は、リスクゼロを突き詰めてもみんなが幸せになれるとは思えません。
 
 それでも、「リスクゼロでなければ困る」というフレーズが従来まかり通ってきたし、たぶん、現代日本の至るところに、この「リスクゼロでなければ困る」がまかり通ってきた副作用が沈殿しているのでしょう。そして、こうしたリスクゼロ志向と引き換えに支払っている別種のリスクやコストは、あまり顧みられません。
 
 だとしても、「リスクゼロでなければ困る」というフレーズがしばしば人や組織を動かしてきたということは、この言葉は政治の方便として使いやすい、ということだと思うのです。
 
 ゼロリスクゼロを本心では信じていなくても、政治の方便としての有効性をよく知って振り回している人は意外に多いのではないでしょうか。
 
 

「責任」というリスクならばゼロリスクにできる

 
 関連して、「責任」というリスクについて追記しておきます。
 
 さきに述べたとおり、リスクゼロにこだわり過ぎれば別種のリスクやコストが発生することもありますし、そもそも、リスクのない社会・時代は存在しません。
 
 しかし、責任というリスクに関しては、ときに、リスクゼロ志向が功を奏することがあるのではないでしょうか。 
 
 現代社会のロジックでは、しばしば個人や法人が責任というリスクを負います。一個人や一法人が責任を負うのであって、不特定の「みんな」が、あいまいに責任を負うわけではありません。たとえば行政団体としての東京都が責任を負うことはあるでしょうけれど、その場合も、しばしば東京都という組織や運営者が責任を問われるのであって、都民が直接に責任を負わなければならない場面はそれほど多くはありません(あったとしても、都内有権者の一人という、きわめて希釈されたかたちでしか負う必要が無い)。
 
 責任、とりわけ法的責任に明確な線引きがある以上、よその個人・法人・行政に責任を負ってもらって自分自身は責任フリー、つまり責任のリスクゼロを達成する余地は多分にあります。「リスクゼロでなければ困る」というフレーズは、ときにダブルミーニングで、事故や損失があっては困るという意味での「リスクゼロでなければ困る」に加えて、責任を負いたくないという意味での「リスクゼロでなければ困る」が重なりあっていることもあります。
 
 こうした流れのなかで、たとえば法人側も最近は用心深くなっていて、分厚い契約書を用意したり、利用者に同意書を書かせたりもしています。このあたりは、責任を巡る攻防ですよね。
 
 こうした法的責任のなすり付け合いがエスカレートしてくると、それそのものに皆がコストをかけるようになって、全体としては非効率になっていくおそれはあるでしょう。責任回避に全員が汲々とするような組織が、キビキビと機能するとは到底思えません。だとしても、一個人や一法人の社会適応という視点で考えるなら、できるだけ法的責任を回避することには一定の意義があります。あらゆる場面で最適とは言えないとしても、ある個人・ある法人にとってそれが最適という状況はたくさんあるはずです。
 
 自然界のリスクをゼロにするのは非現実的だと割り切っている人でも、「ハラキリ」の回避は現実的な目標だとみなしてリスクゼロを唱えている人もいるのではないでしょうか。
 
 

「ゼロリスク」という言葉は死んではいない

 
 このように、私はゼロリスクという言葉に渡世のテクニックを連想してしまいます。
 
 「リスクゼロでなければ困る」という言葉を巡って、たくさんの個人や組織が影響を与えあってきた以上、この言葉は、死んでいる言葉ではなく生きている言葉だと思われます。少なくとも現在の日本社会では、政治のレトリックとしての有効性を喪失してはいません。
 
 と同時に、責任という社会的リスクに関しては、リスクゼロを志向したほうが良い場面もあるため、これからも私達は「リスクゼロでなければ困る」と口にしたりするのでしょう。
  
 「リスクゼロ」を口にしている人のなかには、素朴な人だけでなく、ややこして面倒くさい人も多いんじゃないかなぁ、というのが私の意見になります。