シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

私の世界を守るためにニセモノの人生と戦ってみる

 
ニセモノの人生 - Qana’s diary
 
 一カ月ほど前にリンク先のブログ記事を読んだ時、「あっ!このニセモノ人生観は、自分の肌にあわないやつだ」と直感したので、何か反論めいたことをブログに書いてみたいと思っていた。けれども反論の根拠を文章にできる自信もなく、途中で風邪をひいたりもしたので伸び伸びになってしまっていた。
 
 しかし、何か書かないと足の裏にくっついたごはんつぶが取れない気持ちになったので、とりあえずも書いてしまうことにした。リンク先のブロガーさんへの返答という体裁のもと、内心を整理してみたい。
 
 
 1.もし、舞台裏のカラクリが見てとれるような、仕組まれた体験・仕組まれた経験がニセモノの人生の証拠だとしたら、ニセモノではない人生は、どこにあるだろうか。
 
 流行の衣装やアクセサリー、ゲームやテレビのコンテンツ、雑誌で紹介されている観光地の景色のたぐいは、わかりやすい仕組まれた経験であり、それを理由にニセモノと呼ぶならまさにニセモノの代表格だろう。人間関係にしても、学生時代、会社員時代それぞれにふさわしいテンプレートどおりにやっていくのは仕組まれた体験と言えるかもしれない。
 
 そうやって誰かが準備したアイテム・コンテンツ・体験・人間関係をひたすらなぞり続ける人間は、通俗的にみえやすかろうし、仕組まれた経験=ニセモノという観点を補強づけるにはちょうど良いモデルケースになりそうだ。で、そういう人は確かに存在している。
 
 でも、この考え方を延長させていくと、ニセモノの判定がどんどん広がっていく危険性がある。○○大学に入ったのも仕組まれたことと言えるかもしれない。○○大学の××研究室に入って、△△先生の指導のもと■■についての修論を完成させるのも、それが仕組まれていないことと本当に言えるのか?
 
 それらは、CMどおりにコンテンツを買ってなぞるよりは表層的ではないかもしれない。だが、表層的でないからといって、それらが仕組まれていない、自由意志によって人生を大航海している証拠だと考えることに、私は躊躇いをおぼえる。
 
 ○○大学に入るという選択だって、本当に自分の意志によると言ってしまえるのか?
 
 △△先生の指導のもと■■について書いた修論も、もちろんオリジナリティはあるとしても、それはどこまで自分の意志によるもので、どこまで△△先生の意志によるもの、どこまでその研究室の伝統によるものなのか?
 
 ここからもう少し見方を進めてみる。
 
 自分で考えて進んだとおぼしき冒険や研究のたぐいを、私達はどこまで自分自身の、ホンモノのオリジナリティの発露とみなして構わないのだろうか。個人主義的な社会制度の内側では、しばしば、ひとつの発明やひとつのサクセスストーリーは個人の功績に帰せられる。しかし、ワットの蒸気機関の発明にせよ、ジョブズのアップルの躍進にせよ、それらは一人の偉人が独力でなしえたものではなく、先行する研究や開発、並行する競争相手や時代背景があればこそ脚光を浴びるに至ったものであって、ワットやジョブズが独りでアチーブメントを為し得たわけではない。確かに知名度を獲得したのは彼らだとしても、彼らが独自でアチーブメントに到達できたと考えるのは、個人主義社会の習慣に溺れたモノの見方に過ぎないのではないか、と私には思える。
 
 私は仏教愛好家なので、「世界のものごとは、縁起・因縁の連なりのなかで起こっている」と考えたがる。
 
 あるひとつの出来事が起こる背景には、それをひき起こす原因や要因が無数に存在している。何が要因となって何が結果となるのかの因果関係(ただし、この表現は仏教的には不適切で、因縁関係とか縁起関係と表現したほうが穏当)を、すべて読み取るのは人間には不可能だ。仏教の場合は「如来という形而上の存在にはそれが読み取れる」という設定になっている。
 
 このような世界観で人生のイベントや個々人の選択を考えると、個人の意志の発生も含め、なにごとも、出来事の連なりのなかで起こっていることと理解されることになり、自分の意志による選択とは、あるといえばあるし、ないといえばないということになる。
 
 私がこうやって仏教的にものを考えて書いているのも、私の意志によるものと言えなくもない反面、私が今までに出会ってきた仏教的なテクストや指導者が私のかわりに考えて、私の身体をハックして勝手に書かせている、とも言えるだろう。冒頭リンク先のメンションに即して考えると、他人が考えてくれた仏説を参考にした世界観を開陳しているこの私も、ニセモノのハリボテということになる。
 
 人間は、前人が拓いた知識や概念を受け継いでいく存在だから、いわゆる一流の思想家や哲学者ですら、ある面ではニセモノのハリボテと言えなくもない。もちろん、その人がその時代・その環境に揉まれたことによる新規性はあろう。だがそれとて、その人自身の内側から純粋に沸いてきたというわけではあるまい。プラトンやヘーゲルやニーチェだって、彼らが呼吸してきた時代や環境に多くを因っている。それを、事後に読む私達は「ここらは彼が独自の境地をひらいた部分」と解釈することもできようけれども、だからといって、彼らの歩みが大海原の自由航海だとは私には考えられない。
 
 最も偉大な人々の営みですら、もっと地べたを這いずっているような気がするんですよ。
 
 
 2.さてそうなると、ホンモノの人生とニセモノの人生の違いとは、どこにあるのだろう。
 
 ここでまず思いつくのは、ホンモノとニセモノを「程度問題」の違いとみなし、どこか適当なところに分水嶺をもうけて人間を捉えることだ。
 
 「テレビCMの流行を追いかけているからニセモノ。インスタグラムのインフルエンサーに憧れているからニセモノ。毎朝最新の論文に目を通しているからホンモノ。食べログなど見向きもしないで、いつも知らない飲食店に突撃しているからホンモノ。」
 
 この手の分水嶺をつくってしまえば、とてもわかりやすいホンモノ/ニセモノの世界ができあがる。
 
 ただ、問題が無いわけではない。わかりやすいホンモノとニセモノの分水嶺をつくってしまうと、その基準でホンモノとみなされるものを効率的に収集し、そこにあぐらをかいて堕落していくことがままある。
 
 最新の研究を追いかけていること・難読な哲学書を読んでいること・複雑なアートを理解していることなどは、こうした分水嶺をつくってしまった人にとってホンモノに相違ないが、ホンモノを選んでいるという自負に依存した挙句、問うてみれば空虚な内実を露わにする「ホンモノだけどスカスカな人」というのもいる。
 
 逆に、世間ではニセモノと言われがちな、流行の尻を追いかけているようで、その追いかける航跡が美しい人、束の間の娯楽を見事に楽しみきってみせる人もいるわけで、そういうのは「ニセモノだけど充実した人」ということになってしまう。
 
 付け加えておくと、一段メタな問題として、分水嶺をもうけるということ自体、つくりものの、ニセモノの、借り物の分類手段、といえなくもない。
 
 借り物の分類手段でホンモノとニセモノの分類をするのはいけない……ことではあるまい。MKS単位系でもヤード・ポンド法でもポリティカルコレクトネスでもいいが、人間は、どこかから尺度を借りて来なければ測量も判断もできない生き物だから。ただ、そうやって馴染んだ分類手段じたいも借り物であるということに、自戒や自嘲の余地はあってもいいのではないか、と、私は思う。
 
 思考や行動の隅々にまで人類の遺産・先人の敷いたレールが敷き詰められたそのうえで、ああだこうだということをやっている私達は、人類史という名の仏陀の掌の上の猿のようなものではないだろうか。
 
 
 3.もうひとつ、尺度を挙げてみるなら「夢中の具合」だろうか。
 
 主観のレベルの話に移ると、人は、夢中のことはホンモノと感じやすく、醒めたことはニセモノと感じやすい。
 
 控えめに言っても、醒めていること・関心の乏しいこと・つまらないと思っていることをホンモノの営みだと感じる人間はごく少ない。逆に、夢中になっていること・関心の強いこと・面白いと思っていることをホンモノと感じる人間は多い。
 
 この尺度の良いところは、仕組まれた体験をなんでもニセモノと呼んでしまうリスクを回避できるところだ。ディズニーランドは虚構の国だが、そこでファンが獲得する主観的体験は、ニセモノというには真剣で、しばしば記憶に深く刻み込まれる。コミケに初参加したオタクの喜びなどもそうだろう。子ども時代に感動して泣いたアニメの記憶、灼熱の日に見知らぬ人からもらった清涼飲料水の美味さ、などなどを掬い取るうえで、主観的体験は良いモノサシとなる。
 
 ただ、主観ゆえに、後から記憶が改ざんされて判定が覆ることもあり得る。たとえば、片思いの相手と一緒に食事をした記憶が、ある時点まではホンモノと感じられ、振られた後は空虚だとかニセモノだとか、そういう風に思い出す人は多い。主観的な体験は、ある意味では最もあてになるが、ある意味では最もあてにならない。
 
 「だから主観的な尺度は駄目だ」と言いたいわけではない。
 
 主観とはそういうものだと割り切って、ホンモノ-ニセモノ尺度の揺らぎを自覚しながら生きていくのも良いのではないだろうか。いや、主観のあてにならなさを自覚すらしないで、主観的体験に盲目的に従う人生を生きたって、別に構わないのではないだろうか。そうやって生きている人はたくさんいる。
 
 もっというと、主観の有無すら曖昧な次元を生きる、動物、さらに昆虫や植物の生は果たしてニセモノだろうか?
 
 そうは見えない。
 
 私は日本人なので、昆虫にもホンモノ-ニセモノという意識をしばしば向けたくなる。
 
 夏の終わりの蝉の声や、秋の終わりのキリギリスの声を聞く時、私はそこにホンモノの生を想定せずにいられない。真っ直ぐに生きて真っ直ぐに死ぬ。ある意味、人間よりも彼らのほうがホンモノの生と言いやすい。文化やメディアによる修飾が無いし、そもそも、ニセモノの生を生きる蝉、ニセモノの生を生きるコオロギというものを想定することができない。
 
 と同時に、蝉やコオロギは、自分の一生の真偽について云々したりはしないだろう。
 
 
 4.こうやって一巡りして改めて私が感じたのは「しいて考えるなら、ニセモノを定義・検出するのは難しいのではないか」だった。
 
 ものごとの成り立ちの無限のつらなりは、ある意味、すべてホンモノという側面を備えている。浅薄なコンテンツを通りすがりに楽しむ人を、ニセモノと呼んで良いものか。もし、ニセモノだとして、それはなぜ、ニセモノという風に言えるのか。浅薄なコンテンツが現れ出ること、それを消費する人がいること、いずれもものごとの成り立ちの無限のつらなりのなかの、実相のひとつではないか。と同時に、その人にとってそのコンテンツが夢中と呼ぶにふさわしい主観的体験を伴っているとしたら、それをニセモノと呼ぶことは難しいのではないか。
 
 とはいえ、諸々をホンモノと呼んで殊更にありがたがるのも妙な話だし、私がこうやって考えている思考のフレームワークも仏教の借り物でしかないわけで、そこが私の思考の限界となる。私にとっての世界は胎蔵界曼荼羅のようなもので、あらゆるものに位置づけがあり、あらゆるものの実相があらわれ、ホンモノとみなされがちなものの実在をニセモノとみなされがちなものが支えているような関連性の連なりこそが世界なので、もし、私のフレームワークでホンモノとニセモノの弁別をしようとし過ぎると、世界が割れてしまいかねない。
 
 たぶん、リンク先の「ニセモノの人生」というブログ記事を読んだ時に、本能的に私は、私と私の世界を守るために、この長ったらしい文章を書いて防衛機制を働かせる必要性に迫られたのではないだろうか。この、ものごとの成り立ちの無限の連なりのなかで、たとえ何かがニセモノとみなされがちだとしても、それもそれで世界の一部であり、ホンモノとみなされがちなものの成立と地続きであることを確認する儀式が、私には必要になったのだと思う。
 
 ここまで読んだ人が何人ぐらいいるのかわからないけれども、私の思考を守るための町内一周トレッキングにお付き合いくださりありがとうございました。