シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

「養分」「情弱」が正当化される社会とは、一体何なのか

 
 ※この文章にはヤマもオチもイミもありません。まとまりのある文章をお望みでしたら、回れ右です。
 
 
FGOに400万課金した女が思うこと
課金してるやつには何を言っても無駄
 
 クリスマスイブ~今日にかけて、はてな匿名ダイアリーに、ソーシャルゲームに大金をつぎ込んでしまった話が相次いで投稿された。ひどい課金もあったもんだねぇ……と思いつつも、お天道様はそれでも課金を許しているじゃないか、それに、位置情報ゲームのために何十万円何百万円つぎ込む人や、ホストクラブやキャバクラに蕩尽する人だって似たようなものじゃないか、などとぼんやりと考えているうちに日経平均がどんどん下がっていった。
 
 そんな折、ふとtwitterを眺めていたら「養分」という言葉が目に飛び込んできた。
 

 なるほど、「養分*1」ですか。
 株価が大暴落しているせいもあってか、「養分」という言葉が私のなかに染みわたって変な気分になった。
 
 ソーシャルゲームに何十万何百万もつぎ込む人は、ゲーム運営企業にとって「養分」に違いない。それだけではない。他のゲームプレイヤーにとっても「養分」だったりする。なぜなら、たくさんのお金をつぎ込んでくれる人がいればいるほど、そのソーシャルゲームのクオリティが高くなったり、そのソーシャルゲームの耐用年数が長くなったりするからだ。ゲーム運営企業という媒介者をとおして、無課金プレイヤーや少額課金プレイヤーも間接的に「養分」の分け前にあずかっている。
 


 
 この「養分」の構図はソーシャルゲームで際立っているけれども、アイドルグループの応援や、自分が使っているネットサービスが継続されるか否かといった問題にも(程度の違いはあれど)当てはまることだ。投機や投資のたぐいにも当てはまるだろう。
  
 「養分」がたくさんのコストを負担してくれることによって、そうでない人々がお金をもうけたりサービスを享受できたりする構図は、現代社会のすみずみまで浸透しているので、私達は、それが甚だしい時には顔をしかめるけれども、その構図そのものに対して自省的になることはほとんどない。
 
 「情弱(情報弱者)」が損をする問題についても、近いものを感じる。
 
 もっと便利なサービスを知らない・もっと安くつくサービスを知らないがために多くのお金を使わざるを得ない人を、ネットの住民はしばしば「情弱」と言って蔑む。たとえば大手通信会社がスマートフォンにプリインストールしたアプリによって「情弱」からお金をむしりとっている、などと言ったりする。
 
 その一方で、経済のある部分はまさにその「情弱」によって回っていたりもする。情報弱者がいなければ成り立たない産業、情報弱者がいるおかげで潤っている商売が、この世にいったいどれぐらいあるだろうか。資本主義社会において、情報が弱いということは経済的弱さに相通じるし、情報が強いことは経済的強みに相通じている。そんなことは、多くの人々──とりわけ「情強」を自称している人々──が知悉していることだろう。にも関わらず、「情弱」がその情報の弱さによって多くのお金をむしりとられる構図自体が自省されることはほとんどない。
 
 
 「養分」や「情弱」からお金をむしり取ることは、現代社会ではどうやら正当化されているらしく、現代人は、そのことに良心の呵責をあまり感じないのだろう。どうしてこんなことが大っぴらに、さも当たり前のことのように許容されているのだろうか。
 
 

「身体的に組み伏せる」のは許されないが「判断力や情報力で組み伏せる」のは許される社会

 
 現代社会では、他人に殴りかかって財貨を奪ったり、他人を腕力によって服従させたりすることは良くない──暴力──であるとみなされている。つまり身体的能力を行使して他人を組み伏せてはいけない、というのが現代社会のルールになっていて、法的にも倫理的にも禁じられている。
 
 他方、判断力の勝る側が判断力に劣る側を「養分」とすること、情報力に勝る側が情報力に劣る「情弱」からお金をむしりとることは、法的に認められている。「判断力や情報力で他人を組み伏せても構わない」というのが現代社会のルールで、それをフィジカルなパワーで覆すことは許されていない。もしも身体的能力を行使すれば、暴力とみなされ罰せられるだろう。
 
 遠い昔は、人間はありとあらゆる力を用いて競争してきた。身体的な力も、判断力も、情報力も、他者を組み伏して自分自身を優位に立たせるために用いられてきた。
 
 

社会契約論 (白水Uブックス)

社会契約論 (白水Uブックス)

 
 
 しかし、商業が発展し、中央集権が進むにつれて、身体的な力の行使は禁じられていった。中央集権国家とその法律、警察機構などによって身体的な力の行使は統制され、社会のなかで許容される競争の原理は変わっていった。これによって治安が改善したり商取引が邪魔だてされることが減ったりしたのだから、社会がそれで進歩したのは間違いない。
 
 そして、身体的な力の行使が徹底的に禁じられた先には、判断力や情報力による力の行使が残った。
 
 判断力に優れた者や情報力に勝る者にとって、現代社会は法律の範囲内で思うさま力をふるえるフィールドだ。判断力に勝る側が得をして、判断力の劣る側が損をするのは、現代社会では自然なことと受け取られているし、そういった競争は倫理的にも問題視されない。情報力についてもおおむね同様だ。そうした競争原理が公に認められている背景には、過去の思想家や法律家の仕事の積み重ねや、後見制度(昔でいう禁治産者制度)があるのだろう。
 
 そうはいっても、これからもそのままで通用させて構わないものなのか。
 
 100年前とは違って、現代人はほとんど皆、インターネットを介して巨大企業やSNS上のインフルエンサーといった、手強い相手と繋がっている。ただでさえ手強い相手なのに、24時間365日繋がりっぱなしになっているものだから、いつでもどこでも「養分」にされかねない。ソーシャルゲームのガチャも、電子書籍のセールも、インフルエンサーの甘い言葉も、いつでもどこでも這いよって来る。
 
 「私は大丈夫だ」と思っている人もいるだろうけれども、たぶん、そうはいかない。人間が24時間365日、判断力も情報力もベストでいられるわけがない。百貨店や商店街に出かけている時だけ判断力や情報力がシャキっとしていれば良かった時代ではないのだから、「シャキっとしていない時の自分」や「弱っている時の自分」も否応なく競争にさらされてしまう。
 
 
 病気などの理由によって判断力や情報力があまりにも足りない場合は、成年後見制度の対象となって、そのような競争の荒波から守られることもある。しかし、その場合は守られる度合いに応じて権利が制限されるし、そもそも、「養分」や「情弱」になりそうな人すべてに適用できるように後見制度がデザインされているとも思えない。かりに、認知症や知的障碍のような永続的なハンディを片っ端から後見制度の対象にできたとしてさえ、それだけではこの問題をカヴァーしたことにはならない。なぜなら、誰にだって破れかぶれの時期はあるものだし、精神疾患とみなされる手前にもそのような状況はたくさんあるからだ。
 
 100年ぐらい前の世の中で、比較的狭い範囲の商取引のなかで判断力競争や情報力競争が起こっていた頃は、まだしも、今の制度や倫理感覚は妥当なものだったかもしれない。けれども何もかもが情報化し、あらゆるものが商業化した現代社会でも、同じ制度・同じ倫理感覚がそのまま通用されて構わないものなのだろうか。
 
 ソーシャルゲームの話題と「養分」というネットスラングをきっかけとして、私は初めて「なぜ、現代社会で『養分』や『情弱』が食い物にされることが正当化されるのか・その正当化のメカニズムはどのようなものなのか」が不思議だと感じた。この不思議な気持ちはまた思い出したくなるような気がしたので、ブログに書き残しておくことにした。まったくコンテンツ性の無い文章にここまでお付き合いしてくださった常連読者のみなさん、ありがとうございました(いつもすみません)。
 
 

*1:ネットスラングで「体の良いカモ」といった意味