シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

コンビニ店長、私はあなたとブログ交流を続けたかった。しかし、それは難しいのようですね。

 
長いです。 ついさっき、イケダハヤトって人について書いた記事を読んでた..
 
 文体や内容から、あなたは過去にブログを綴っていた「コンビニ店長」とお見受けしたうえでお手紙を書きます。
 
 まず、新年あけましておめでとうございます。あなたは、はてな匿名ダイアリーに稀に出没するだけになってしまいましたが、私はあなたのことを覚えていて、こうして健筆を奮っているのを見て嬉しく思います。
 
[関連]:いつも見聞きしているアカウントが消えてしまった事について/はてな村の隣人がまた一人減った…。 - シロクマの屑籠
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 思い出すと、店長がブログ世界からいなくなって三年近い歳月が流れているのですね。それでも沢山の人があなたのことを覚えているのは、あなたの文章が特定の人間の琴線にはげしく触れるからだと思います。あなたの文章と、あなたとブログで問答をした日々を私は忘れることができません。できうるなら、ブログ復帰していただきたい。そして過去と同じ姿勢でコミュニケートしたい――そんな風に私は願望します。
 
 

 俺はかなり自覚的なアマチュアリズムの信奉者でした。書籍化とかまあそういう話もそこそこあったんですけども、一度の例外を除きすべて断ってます。まあ商業に乗っかることのめんどくささってのがいちばんでかいんですが、それ以上に俺には「自分の文章を換金する」気がかなり強固な意志としてなかった。ブログでもそれを鮮明にしていたはずです。
 
 アマチュアリズムというとかっこよく聞こえるんですが、要は「無料なんだからなに書いたっていいだろ」っていうことです。あるいは「なに書いてもいい自由を俺から奪うな」「つーか金とるにあたって発生する責任とかとる気ねえから」ということでもあります。
 
 長いです。 ついさっき、イケダハヤトって人について書いた記事を読んでた.. より抜粋

 あなたの文章の面白さはアマチュアリズムに支えられていて、それは、花屋の店頭に売られている花の美しさではなく、野に咲く花の美しさでした。「無料だからなに書いたっていいだろ」というポリシーが文章に透徹していたと思います。
 
 そのポリシーが「コンビニ店長」というキャラクターが皆に愛される背景であり、唯一無二な魅力の源泉だったと思います。あなたの文体が記憶されているのも、ひとえにそのおかげ。ワインに例えるなら、あなたのつくる文章とアカウントはポリシーに裏打ちされた良い意味で農家の宝物のようなワインで、昨今のブロガーがざぶざぶ吐きだす文章が工業製品化されたワインみたいなのとは対照的と感じます。
 
 その野良臭いブログ文章が、私も含めたファンを作り出すと同時に、熱烈なアンチを生み出していたのでしょうけどね。理解もできないし真似もできない魅力が、換金作物的な価値観ともブログ著名人的な価値観とも異なったかたちで目立っていることが許せなかった人は、数年前の時点でたくさんいたと思いますよ。人間の何割かは、自分達の信奉する価値観どおりに動かない人間を不愉快に思うものですから。
 
 そして「幼女うんぬん」も含め、あなたが言及したい話題の幾つかは、インターネットの都大路から排除されつつあります。インターネットのリテラシーコードが、世間のリテラシーコードにどんどん引っ張られていますからね。「オープンなインターネットに書く」という行為は、「無料だからなに書いたっていいだろ」ってアマチュアリズムを許容しなくなりつつあります。口では「何書いたっていいんだよ」と言っている人が、掌を返すように「そんな事書いてんじゃねぇ」と非難するのが今日のインターネット、いや、インターネット世間です。
 
 幸か不幸か、店長の文章や筆致は人目を惹く傾向があったので、そういうネット世間の軋轢の最前線に立たざるを得ませんでした。
 
 

  • 「きれいなブロガーは死んだブロガーだけ」

 
 「無料だからなに書いたっていいだろ」は十年ほど前のインターネットにおいてさえ、いや、もしかしたらテキストサイト時代でさえ、そうとも言い切れないものでした。
 
 たとえば十年前のインターネットには今より自由に書ける雰囲気がありました。個人の文責を糾弾し追いつめるような風潮もありませんでした。しかし「無料だからなに書いたっていいだろ」を真摯に貫いた、貫き過ぎたアカウントは、どこか無理が祟って消えていったと私は記憶しています。
 
 ブロガーが「無料だからなに書いたっていいだろ」的なアマチュアリズムを純粋に貫くためのコストは、当時も案外馬鹿にならないものだったのではないでしょうか。たとえばブロガー全員を敵に回すような発言を繰り返すだとか、あっちでもこっちでも挑発を繰り返すだとか、ラジカルな主張を繰り返すだとか、いずれも長生きするには不向きでした。とりわけ、一定以上の注目を浴びた状態のまま「無料だからなに書いたっていいだろ」を貫くのは、当時の水準でも“無頼派”だったのではないでしょうか。
 
 私がこうして十年以上ブログを続けていられるのも、「無料だからなに書いたっていいだろ」に徹しきれないブロガーだからなのだと思います。
 
 私はブロガーのアマチュアリズムを愛しているし、ある程度は実行しているつもりだけれど、それを実行しすぎるとブロガーとして死ぬしかないことを00年代の頃から自覚していました。書籍を出版するという、アマチュアリズムの観点からみて危険な行為を実行してもまだブログが死にきっていないのは、私が純粋なブロガーではなく、汚れを含んだブロガーだからだと思います。
 

 [関連]:「俺は2010年代のブロガーになれない」 - シロクマの屑籠
 
 上記リンク先に書いているように、私は、混じり物のブロガーなんですよ。私は純粋に徹しきることができません。
 
 でも、混じり物のブロガーとして己自身をブログに投げかけ続けているからこそ、適応できているんですよ、00年代のインターネットにも10年代のインターネットにも。かつて私は自分のことをドクダミのようなブロガーだと思っていましたが、ある程度は日向なインターネット世間にも適応できたみたいで、こうして少しずつ劣化しながらブログを続けていられるのだと今は思っています。
 
 まあ私は、ある次元においてコンビニ店長よりも俗物だから、こうしてブロガーとして生きていられるのでしょう。先日、はてなブックマーカーのid:xevraさんから「ナイーブすぎワロタ」と宣告されたことが示しているように、これからのインターネットの趨勢に耐えられるほどには俗物度が足りないのかもしれませんが*1
 
 かような昨今のインターネットですから、今、店長がブログをやれる場所なんて存在しないのかもしれません。
 
 そもそも、店長が繰り返しアカウントを閉鎖せざるを得なかったのも、実のところ、「無料だからなに書いたっていいだろ」というアマチュアリズムを貫こうとして、でも貫けば心理的にも“事情”的にも色々と難しくなって面倒臭くなっていったから、ではなかったのでしょうか。
 
 かつて私は、ネタ記事ながら、店長のブログが死んだ理由に「坊やだからさ」という言葉を混ぜたことがあります。これは半分ネタですが半分本気です。すなわち、
 
 ・店長は、自分のブログが一定程度注目されることを知っていた。
 ・また、職業との兼ね合いの問題が無視しきれないことも(少なくともある時期からは)自覚していた
 ・おそらく、インターネットの風向きが変わっていることもどこかで察知していた
 ・にも関わらず、「無料だからなに書いたっていいだろ」的なアマチュアリズムを貫いた。あるいは貫くしかなかった。
 
 こうした姿勢は、ブログやアカウントを短命にし、コンビニ店長というキャラクターを背負いながらインターネットを続けることを実質不可能にしてしまったと思います。
 
 反面、そうしたアマチュアリズムの純粋な姿が、独特の筆致と相まって私達の胸を打ったのでした。だから「坊やだからさ」というのは必ずしも貶し言葉ではなく、不器用で純粋なブロガーに対する賛美も含めてと捉えてください。
 
 

  • こんなインターネットにも、執着の花は咲いています。

 
 話は逸れますが、そんな10年代のインターネットでも、面白い人、面白いブログはあります。
 
 二十代~三十代前半のブロガーに、新しい執着、新しい表現を見出す機会が増えました。もちろん彼らは純粋なアマチュアリズムなんて信奉していないし、「実利も意識したインターネット」という今日の趨勢に多かれ少なかれ適合しています。
 
 でも、すべての若いブログが工業製品化したワインのようなブログかといったら、そうではないと感じます。いかにも現代風のブログスタイルでも、情が籠り、芸に流れ過ぎず、一定のリスクを冒して言いたいことを言おうとしている人達はいます。現代風のブログ=工業製品化したブログと考えるのはたぶん間違いで、時代や世代の違いによって執着の文法が幾分違うだけなのではないか、と最近は考えています。すべてのブログ、すべてのインターネットが現金稼ぎと影響力ゲームに染まり切っているわけではありません。
 
 私は楽しいブログライフをこれからも続けたいので、そういう「無料だからなに書いたっていいだろ」が失われた環境に適応し、その環境のもとで執着の気炎を上げる人達から色々と学んでいきたいと思います。
 
 

  • 今、「無料だからなに書いたっていいだろ」が許されるのは何処か

 
 話を戻しましょう。
 
 それにしても、今、店長の信奉するアマチュアリズムを高濃度に実現できる場所はインターネットのどこにあるのでしょうか。とりわけ、放っておいても人だかりができてしまいそうな人間でも安心して文章を綴れる場所は。
 
 Facebook?
 
 あれは論外でしょう。設計思想の次元から、Facebookは「無料だからなに書いたっていいだろ」的なコミュニケーションツールではありません。twitterも、可燃性が高くてクソリプが多くて非公開でも信用ならないから駄目。
 
 今日のインターネットでは、どこで何を書いても、あるていど人目に触れる限りは「無料だからなに書いたっていい」が許されないのだと思います。社会的制裁に直結するような不自由は、まだまだ限られていますが、書きよう次第でコミュニケーション上の制約・炎上・「望んでいない論争」に巻き込まれる可能性は高くなりました。まだまだ高くなりそうです。
 
 ネットユーザー同士の価値観は、恐ろしいほど棲み分けが進んでいます。と同時に、その価値観を棲み分けたユーザー同士がお互いを拒絶しあい、お互いの政治力や存在感を殺し合うバトルフィールドとみなしている人が少なくありません。
 
 定めし、店長が望むような「無料だからなに書いたっていいだろ」的な発想を許さない人が、あっちにもこっちにもいるんですよ、「望ましくない書き込みを減らして社会を良くしていこう(または、そのような行為を通して政治力や存在感を高めよう)」的な発想が、インターネットにおいても一種のテンプレートになってしまいました。ネットアーキテクチャ云々ではいかんともし難く、既にインターネットの行儀作法や身振りが、そういった方向にスライドしたと思うんですよ。
 
 こうした変化は、店長が愛好していたサブカルチャーの領域を忌避する人達だけでなく、擁護する人達においてすら当てはまります。現在のインターネット上において、中立的に・イノセントに何かを支持することはとても難しい。たとえ本人はイノセントにやっているつもりでも、周りがそうは思っちゃくれないし、人目が集まれば、誰かが必ず「利用」しようとしますから。
 
 このような状況下で「無料だからなに書いたっていいだろ」を愚直にやれば、もう面倒くさいことに巻き込まれずにはいられません。
 
 そうやって考えると、店長が安心して長文を垂れ流せる空間が私にはよくわからなくなります。「匿名ダイアリーに、ごく稀に書き込んで消去」が最適解なのかもしれません。難しいですね。店長のような希少なブログ根性が、今という時代・今というインターネットには存在しづらい以上、試験管のなかでもいいから生き残っていて欲しいと思います。
 
 ごく稀でも結構ですから、こうして文章を披歴してくれると、私は嬉しいです。色々と言う人はいるでしょうが、私は店長の文章、好きです。ブロガーとしてのスタイルも。店長、どうか今年も一年、元気に過ごしていてください。ご健勝とご多幸をお祈りしております。
 

*1:この次元においては、かのイケダハヤトさんは紛れもない俗物なのは言うまでもありません。あの人は、お金の話と誰かを罵る言葉でしか専ら他人の注目を集めず、好きな何かや好きな誰かを語る言葉ではめったに注目を集めないので、心底好きなものはお金と承認欲求と他人を腐して優越感を得ることに他ならないと思います。それがひとつのタレントとして確立する程度には、あの人はそういう人だと推測せざるを得ず、それがタレントになるぐらいには通俗を究めているイケダハヤトさんを私はたぶん好きになれません。イケダハヤトさんは世間一般の多くのものを腐しているけれども、価値観はきわめて通俗的で、そのような価値観を濃縮した人物がインターネットの価値観をいくらか先取りしたという意味では、彼は時代の寵児だったのだと言えます。私達とは対照的に。