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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

「俺は2010年代のブロガーになれない」

執着

 
僕はブロガーになれない - orangestarの雑記
 
 新年早々、「僕はブロガーになれない」と来ましたか。
 
 ブログを更新する人をブロガーと定義するなら、私もid:orangestarさんもブロガーの端くれですが、そういう事を仰りたいわけじゃないですよね。
 

世間でブロガーとして認知、人気がある人の素質というものが、リアルで必要とされる能力と、とても似てきていると思う。
それは共感能力であったり、空気を読む能力であったり、コミュニケーション能力であったり、人を不快にさせない能力であったり、政治力であったり、人を元気にさせたり元気づけたり、ポジティブにさせる能力であったり、器用さであったり、要領のよさであったり、物事を始める時の勘の良さであったり、何か、面白いものを見つける嗅覚であったり、行動力であったり、新しいものに対する好奇心であったり、視野の広さであったり。などなど。
 
僕はブロガーになれない より抜粋

 
 ここでいう「ブロガー」とは、最近人気を集めているようなブロガーや、世間でブロガーとして認知されるようなブロガーだというのはわかります。そして、そのようなブロガーに求められている能力とは上記のようなもので、要するに『みんなでワイワイとやって楽しむ』能力だってこともわかります。
 
 2010年代も後半にさしかかり、そろそろ「この decade はひとつ前の decade に比べてどういう10年なのか」が語れそうなので書くと、10年代のブロガーとインターネットとは、ご指摘のようなタレントが台頭していく時代だったと私は思います。
 
 これは、ブロガーに限った話ではありません。動画配信の人気者にしてもそうだし、たぶんだけど、ライトノベル内外やアニメやゲームのキャラクターデザインの変化とも、微妙にシンクロしているんじゃないでしょうか。
 
 なんていうんですか、インターネットのひとが空気のように呼吸している「界隈」の成分が変わったように思いませんか。ブログも、動画配信も、キャラクター消費も、まあその、「界隈」と呼ばずにいられない一連のサブカルチャー領域ぜんたいが、クラスの隅っこでうずくまっていそうな人達の感性に近いところから、クラスの日向で微笑んでいそうな人達にも親和的なところへ、漸進的に変わっていったように思うんですよ。
 
 今年じゅうに書くつもりですが、そういった変化は精神科外来にやってくる「悩める思春期症例」の変化とも微妙にシンクロしているように思います。『NHKにようこそ!』に出てきそうな感性は希少品になってしまいました。社会適応の王道を歩いている青少年と、社会適応に失敗している青少年の、感性・価値観・コンテンツ消費の様態……といったものに、差異が見出しにくくなっているように感じます。不適応の迷路をさまよっている青少年でさえ、内面化している感性や親和的なコンテンツが“リア充”*1とさほど遠くなくなっているんじゃないでしょうか。
 
 ハーレム系・チート系のコンテンツですら、そうした変化の余波を受けているように私なんぞにはうつるんですよ。
 
 そうした大きな潮流のなかで、ブロガーを名乗る人間もブログ記事を消費する人間も変わりました。「界隈」の雰囲気が変わったのとほとんど時を同じくして、インターネットは政治の舞台・コミュニケーションの舞台として公認されるようになり、ネットの経済的・政治的影響力を、遊びではなく、仕事として利用したい人達がなだれ込んできました。
 
 もともとリアルで力を持っている人が、リアルに関わりのある力を手に入れるためにインターネットを本気で使いはじめて、しかも「界隈」ぜんたいがクラスの日向に近い感性になっていったのですから、00年代以前のインターネットを「リアルと違った場所」として呼吸していた私達が息苦しくなってくるのは、まあ、仕方のないことなのでしょう。
 
 ネットでお金儲けができるようになった・ネットの声が政治や国家イベントを左右するようになったということは、ネットの力とリアルの力・ネットのコミュニケーションとリアルのコミュニケーションがそれだけ重なったってことだし、それを止めるすべはありません。00年代以前のネットが牧歌的でいられたのは、まだネットの力とリアルの力・ネットのコミュニケーションとリアルのコミュニケーションが乖離していたからで、まさにその乖離のおかげで00年代以前のインターネットの雰囲気と感性が開花していたのだと私は思っています。
 
 と同時に、その乖離があったおかげで、私達はインターネットでしか可視化されないものを見たり書いたりできました。2ちゃんねる的感性、はてなブックマーク的感性、非モテ的感性などはその典型と言えるでしょう。が、ここ数年でその乖離が小さくなってきたので、テレビで見るものとネットで見るものの感性的な差異も、リテラシーコードの差異も小さくなってしまいました――ネット上にコンビニの冷蔵庫に入った動画を投稿したら炎上し、と同時に、その動画がテレビで放送されて懲らしめの対象になるようにもなったわけです。
 
 2016年ネットメディア展望 ウェブ媒体がただの出版社になっていくまで - 山本一郎
 
 リンク先でやまもといちろうさんが「テレビの復権」と書いているけれども、もし、テレビをはじめとする商業媒体の世界とインターネットの世界が感性的にもリテラシーコード的にもだいたい同じになったとしたら、みんな、どちらを見たがるでしょうか?
 
 テレビじゃないでしょうか。テレビのほうが予算や人員や才能が集中している以上、テレビとインターネットが似たような見世物を提供しているなら、テレビのほうがクオリティが高いと想定されます。もちろんここでいう「テレビ」とは比喩含みのもので、つまり地力を持った商業媒体全体のことを指したいわけですが。
 
 他方、商業媒体の側がインターネット上の才能を拾うノウハウも発達してきています。両方の相乗効果として、ますますインターネットの感性やリテラシーコードが商業媒体的な感性やリテラシーコードの方向に流されてきているとも思うのです。
 
 もちろん個々のブロガーや動画配信者は、そういった潮流に逆らってアウトプットしていくこともできます。けれどもインターネットで経済力や影響力の王道を進みたいなら、そういった反骨精神はハンディキャップにならざるを得ないし、テレビ的・商業媒体的な感性が金銭と権力の井戸にありつくさまを模倣すべきなのだと思います。
 
 ここに書いたことは、
 
 1.ネット「界隈」感性の変化の話
 2.インターネットと他メディアとの接続と越境効果の話
 
 が混合していて、その下部構造として
 
 3.00年代的感性と10年代的感性の全体的な違い
 
 を意識しながら書いていますが、「orangestarさんなら、たぶん似たようなことを感じているだろう」と期待しながら書いているので端折り気味になっています。個人あての手紙としてはこれで良いと思っています。近いうちに、この話を不特定多数向けにまとめたブログ記事を書こうかなとも思っていますが。
 
 

  • 「で、俺のブログはどうするの?」

 
 ここまで、他人事のようにブログやインターネットの変遷を書いてきましたが、もちろん私は当事者の一人として岐路に立たされています。
 
 この『シロクマの屑籠』は、商業媒体のようなブログを目指すべきでしょうか。それとも00年代的な感性を背負ったブログとして屹立し続けるべきでしょうか。
 
 愚問ですよね。どちらか一方に極端に偏ることなんて、私にはできません。私は、こういう往復書簡的な、ブロガーとブロガーがトラックバックで繋がるような文化が好きです。00年代的なインターネットの感性、あの野暮くてダサい「界隈」も好きでした。それらが刻印された己の魂に逆らって生きることなんて出来ません。
 
 反面、私はBLOGOSやハフィントンポストに何かを投稿したい気持ちを昔から持ち続けていますし、自己主張のチャンネルを維持したい気持ちもあります。私にはまだ、主張し足りない&研鑽し足りないトピックスがあり、あと数年かけなければ世に問うことができなそうです。そうした将来の自己主張のためにも、メディアとしてのブログ・発信者としての意識も、多かれ少なかれ残すべきとも思います。
 
 そのせいで、私のブログは中途半端な姿をしていますが、かえって個人ブログらしいと思うし、私はこのブログの現状も割と好きです。もちろん2006年~2008年ぐらいの『シロクマの屑籠』の雰囲気も好きですけどね。
 
 そろそろエネルギー切れなので終わりますが、どうせ私やorangestarさんは、逆立ちしたって10年代風のスマートなブロガーの姿にはなれないんですから、やれるようにやるしかないし、やりたいようにやるしかないと思います。かりに、インターネットの感性やリテラシーコードがテレビや商業媒体のそれに(おおむね)呑み込まれる日が来るとしても、さしあたって、そうではない何かを発信する意志と能力を温存しておきたいなと思う今日このごろです。
 

*1:この“リア充”が死語になりそうな雰囲気も味わい深いものです。