シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

A.口ずさむようにブログが書けない B.ブログになら書けることがある

 
 
【A面】
 
「ブログは何を書いたって構わない、自分だけのスペースだ」みたいな言葉を信じていたのに、きっと今の私はそうなっていないし、そういう自由なブログを信念にしていたブロガーたちは去ってしまった。口ずさむようにブログを書くことなんて、もうできない。
 
 

何者かになると口ずさむようにブログが書けなくなる

 
口ずさむようにブログが書けなくなったのは、年を取ったせい、人生の残り時間が意識されるせいもある。ブログを口ずさむ時間があったら、人生の残り時間を費やすに値すること・タイパ的に有意味とわかっているものに時間を費やしたほうがいい、などと考えている自分がいる。ほんとうは、それほど単純ではない。たとえば商業企画の原稿やそのための文献読みなどに時間を振り分け過ぎると、それ自体、作業効率を低下させる。ときには口ずさむように文章を書く時間をもうけたほうが作業効率は上がるし、案外、そういう隙間の時間から面白いアイデアが飛び出してきたりするからだ。
 
加えて、ブログが書けなくなった理由のひとつには、いわば、私が何者かになってしまったから、というのもある。
 

何者かになりたい

何者かになりたい

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人はときに、何者かになりたいと願う。そうはっきり願望していない人でさえ、有望なキャリア、収入や影響力の期待できるポジション、好ましい人間関係、自分の人生を体現している趣味生活といったかたちで、自分自身についてなんらかのビジョンを思い浮かべるものである。まだ若く、可能性にあふれている年頃の人は、そうやって前を向き、上を向き、今とは違った自分に向かって歩いていこうとする。なかには複数の可能性を維持しながらソロリソロリと人生の匍匐前進をやってのける人もいる。そういう人のブログやツイッターや動画には、固有のエネルギーがあり、まぶしく思う。
 
じゃあ、今の私はどうかといったら、そんなエネルギーもまぶしさもとうの昔に枯れ果てて。
 
私の人生・私のなすべきこと、そういったことは概ね決まってしまった。収入や影響力の上限もみえているだろう。いやいや、隣の庭を覗くようなことはグチグチ言うまい。ともあれ私は私としてしなければならないことが確定してしまった。私はトライアンドエラーなどしていられなくなってしまったし、既定路線を大きく逸脱することも難しくなった。私は私のレールを敷いてしまったし、そのレールを進んでいくことができる。自分で自分のレールを敷けたのはかけがえのないことだが、それだけに、自分で敷いたレールの外にはみ出ることは難しくなってしまった。賽はもう、投げられてしまったのだ。
 
「そのトピックスは自分の戦場じゃない。」
 
ネット上で何かを読み、ブログやツイッターに何か書いてやろうと思った直後に思いとどまる時の私の決まり文句がそれだ。放言や問題発言を避ける以上に、自分にとって重要性の低い話題、関心のうすい話題で時間や精神力を消耗しないための処世術。そのかわり口ずさむように・口笛を吹くようにブログを書くことは難しくなってしまった。
 
インターネット上で、いわば口ずさんだり口笛を吹いたりしているうちに何者かになった人たちが、自分の戦場に専心していく過程を何度も見てきた。それらも処世術として利口で、効率的だ。しかしブログを書く者、ツイッターをなす者としてみるなら、自分の戦場にひきこもってしまい、声域が狭くなってしまったようにもみえる。しつこく繰り返すが、それは処世術として合理的なものだ。だが、そうやっていわば「インターネットを仕事化」していくと、自分の戦場に即したステートメントばかりさえずるようになってしまって、口笛を吹くようにブログやツイッターに投稿できなくなってしまうだろう。
 
ま、そんなものでしょ、と言う人もいるだろう。特にはじめからインターネットが仕事化していた人にとって、仕事の投稿しかしないのは当たり前ってのはあるかもしれない。インターネットはインフラなんだから、インターネットで遊ぶとは、水道の蛇口をひねって水遊びをする悪ガキのようなもの、とも指摘されるかもしれない。まあでも、そうやってインターネットを遊んでいた時代、口ずさむようにブログを書き、酔っ払いの歌のようにツイッターを書いていた時代があったのでした。このブログの文章じたい、久しぶりに口ずさむようにブログを書いてみたものだ。営利のためにインターネットをやらなければならない、目的のために人生を遂行しなければならないという、巨大な歯車に逆らってみたい気持ちになったので。
 
 
【B面】
 
営利だの人生のレールだのといった肩ひじ貼った視点でブログについて考えると、【A面】で書いたような窮屈さに辿りついてしまう。けれども書くという行為の自由さで言ったら、やっぱりブログは捨てがたくて、少なくともこの『シロクマの屑籠』は自分にとってかけがえのないアウトプットの場だという気持ちもある。
 
こうして自分のブログを書き、ときどき自分の書いたアーカイブを読み返して思うこと。それは、「ブログでなければ表現できないことは確かにある」ということだ。
 
たぶんnoteでしか表現できないこともあり、ツイッターでしか表現できないこともあり、同様に、このはてなブログでしか表現できないこともあるのだろう、と思う。「メディアとはメッセージである」とはマクルーハンの言葉だが、そういう意味では、ブログとはメッセージであり、ブログというハコでなければ表現しづらいことがあり、ブログというハコでこそ表現しやすいことがあるはずだ。
 
現在の私には、商業媒体で何かを書かせていただく機会もあり、それはそれで貴重だ。いまどきは、グルリと回ってブログやツイッターよりも商業媒体で書かせていただくほうがかえって自由、なんて側面もあり、一番尖ったことを深堀りするなら商業媒体で書かせていただく機会が最高だと思う。しかも商業媒体の射程距離はなかなか長く、はるか遠くの未知の読者さんの手許にリーチすることだってある。それら全部をひっくるめて私は「商業媒体って面白い」と今は思っていて、機会がいただける限り挑戦したいなと願っている。
 
じゃあ、そうした商業媒体でこのブログに書いてあるようなことが書けるか・表現できるかといったら……Noだ。
断然、Noだといえる。
やっぱりブログじゃなきゃ書けないことはたくさんある。たとえばアニメの感想、ゲームの感想、日常の細々とした所感、そういったものをアーカイブ化しておく場所として、ブログはかけがえのないハコだ。
 
ブログはハコに喩えられるような媒体であり、単なるチラシの裏ではない点が私には重要だ。チラシの裏に書くのと誰かが読むかもしれないと前提して書くのでは、同じ感想文でもモチベーションが変わり、書き方が変わる。実は、私は(紙の)チラシの裏にもいろんなことを書き残しているのだけど、自分で後で読み返したくなる感想がちゃんと書けるのはブログのほうだ。私はブログに書くことで読者のかたに何かを届けると同時に、未来の私にアーカイブを手渡すことにも成功している。私はお調子者のナルシストなので、ゲーセンでハイスコアを狙っている時も、ここでこうしてブログを書いている時も、誰かが見ていてくれている時のほうが調子が出るらしい。ほんの数人、いや、誰か一人でも私のアウトプットを受け取ってくれる人がいる限り、私はお調子者になってブログに興じることができるだろう。そしてブログに書いたアーカイブは誰も覗かないチラシの裏に書いたアーカイブより読みやすく、いつでも検索して取り出せる状態になる。
 
かつて、ブログに新規参入が相次いだ時代があり、やがてそうした人々が動画配信へと去っていった時代があった。現在はその動画配信でも「儲け」が出なくなっていると聞く。そうした現況において、遠くまで自分のステートメントを行き渡らせる手段としては、ブログは最適ではないかもしれない(しかし、今、遠くまで自分のステートメントを行き渡らせる手段って、インターネット上にどれだけあるものだろう?)。けれども射程距離が短くて構わず、比較的少人数でもいいから誰かがアウトプットを受け取ってくれる場所で書きたいと思った時、ブログは今でもちょうど良いハコで、ここでしか書けないことはまだあると感じる。
 
【A面】で書いたような諸問題はあるにせよ、ブログはやっぱりブログで、かけがえない個人用メディアだ。そしてこの『シロクマの屑籠』ははてなブログで記されていて、だから書けることがあり、だから伝えられることがまだある。これからも楽しんでいきたいと思う。